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脅迫する女【倒叙ミステリ短編】

作品紹介:刑事コロンボ・古畑任三郎と同じく倒叙型推理小説。犯人と探偵役との心理戦の攻防が特徴です。犯人と一緒に追いつめられる感覚を楽しんで貰えたらと思います。どんでん返しも意識しております。20,000字程度の短編ミステリ。15分から20分程度でお読みいただけます。

<本編>

ホテルの一室にて。
「お前、二重人格なんだろう?普段のお前に名探偵の能力なんか無いのさ。おかしいと思っていたんだ。お前が名探偵?無いよな、そうさ、あり得ない」
 松坂は嘲笑う。腰にバスタオルを巻いただけの無様な格好をしている。おおよそ来客を迎える服装ではない。床には脱ぎ捨てたように洋服が重ねられている。手にはタバコ。健康管理なんて概念はコイツには無いのだろう。腹は年の割に大きく突き出ている。
ガムをクチャクチャ噛みながら喋っている。柑橘系のガムの匂いがここまで漂ってくる。タバコを吸いながらガムを噛むのはもはやズボラ等という言葉では表現しきれない。
「もう一方のお前も別に名探偵って訳じゃない。理由は分からんが偶然が重なって、たまたま結果が出ただけなんだろう?人格が変わったからと言って能力まで劇的に変わるのかよ」
「さあな、それは俺にもわからない」
「お前の名刺を見た時は笑いそうになったよ。【名探偵 倉知博司】って正気かよ」
この男と話しているだけで不快なのは昔から変わらない。
「人気の名探偵が二重人格で、しかも事件の捏造もやってるとなりゃあ大変な騒ぎになるな」
俺自身は捏造をやっているつもりはない。正確には記憶がないだけだが。【もう一人の俺】が探偵業を一手に引き受けている。彼がやっているかどうかまではわからないが、病気のことは世間にバレると偏見があるかもしれない。信用を失うかもしれない。
「それにしても、お前、なかなか良い腕時計しているよな。儲かってるんだな。今、流行っているやつだろ?それ」
「たいした品じゃない。頑丈なだけさ。そんなことより、どうするつもりだ?」
「どうもこうもない。真実を追求し、白日の下に晒すのが俺の仕事だから」
邪悪な笑みを松坂は隠さない。
「なんとかならないか?」
「無理だね」
「いくらだ?」
その言葉に不自然に真顔になった。わかっていた。最初から金が目的なのは。
「おいおい、そんなこと言ったら脅しているみたいじゃないか」
ゆっくりと煙草を吹かし嘯く。
「そういうのはいらない。お互い知らない仲ではないんだ。さっさと要件を済ませよう」
「まあ、確かに問題解決は早い方が良い。こっちも急にお前が訪ねてきたから、とても迷惑している。今から火急の用事があるんでな」
「日付だけ指定して、時間を決めなかったのはそっちだ。ズボラなのが悪い」
「人聞きが悪いな。柔軟な性格と言ってくれ」
「早く言え。いくらだ」
「今までの俺なら、そういう対応をしたかもしれない。でも今回は駄目なんだ。先約がある。もうこのネタは売ってしまった」
「どういうことだ?」
「その通りの意味さ。これからその報酬を受け取るところなのさ」
 混乱していた。売った?誰に?
「説明しろ!どういうことなんだ」
「自分で考えな。名探偵さんよ」
「待ってくれ!なんとかならないか」
「うるせえ。忙しいって言っているだろうが。さっさと部屋から出て行け」
「貴様!」
「なんだ、その眼は?ああ?ヘタレのくせに。俺を殺すつもりか?やれるもんならやってみろよ。イカレ野郎」
「殺せないと思っているのか?」
 目の前が急に真っ白になった。
 気がついた時には目の前に松坂の死体が転がっていた。手にはガラスの灰皿を握っており、血痕でどす黒く光っていた。頭には鈍痛が残っていた。
やってしまったのだ。もう後戻りはできない。
ガチャ。
 背後のバスルームで音がした。
 全く予想していない事態だった。人が居たのだ。
報酬を今から貰う?記者か?ホテルでシャワー?女性?体を目的にネタを売ったのか?
 目まぐるしく意識が工作する中、柑橘類のほのかな香りがした。
すぐに部屋から出ようとする。後ろで悲鳴があがる。女の声だ!目撃された!

「すいませんねえ、わざわざご足労いただいて」
 大根と名乗った刑事は人懐っこい笑顔を浮かべながら現場へ案内してくれた。ブルドックのような強面だが、おおよそ刑事らしからぬ腰の低さである。
「金田警部。こちらが例の方です」
「どうも、金田と申します。宜しくお願いします」
 金田と呼ばれた刑事が挨拶をしてくる。顔立ちの整った長身、三十代前半か?豊かな髪。こちらも大根刑事と同じく一般的な刑事のイメージとはかけ離れている。年齢は大根刑事の方が年上のようだが、キャリア組だろうか、そう思うとスーツの着こなしもスタイリッシュだ。おそらく異性からもモテるのだろう。
「来ていただいて助かります。本来ならばこちらから伺うべきなのですが」
 言葉とは裏腹に鋭い眼光に思わず腰が引けそうになる。
「いえいえ、たまたま近くにいたもので。友人が亡くなったと聞いて驚いて。取り急ぎ、何ができるわけでも無いのですが」
 警察から電話があった時には生きた心地がしなかった。事件後、一時間も経たないうちにスマートホンに連絡が入った。目撃者もいたのだから発覚するのは当然早い。
 友人が亡くなったことを伝えられ、自宅に伺いたい、との内容で完全に逮捕されると思ったのだが、ふと、冷静に考えると逮捕する気なら問答無用で直接来るはずだし、指名手配をしているならわざわざ家に伺うなどと連絡はしないのではないか、と思い直し、話を詳しく聞いてみると俺の名刺を被害者である松坂が持っていたとのことだった。確かに怪しいことではあるが、名刺ケースには他にも名刺が入っていたようで、それぞれの持ち主に話を聞きたいとのことだった。
 現場に何か痕跡があるかもしれず、うまく現場に入ることができれば、ごまかしもきくかもしれない。
「おや、もしかして?やっぱりそうだ」
 大根刑事が笑顔を崩さず近づいてくる。
「もしかして倉知さんって、あの名探偵で有名の?」
 金田警部が大根の言葉に訝しげな顔をする。やはり現実に名探偵というと胡散臭い。
「名探偵?大根君は知っているのですか」
「ええ、金田警部はご存知ないですか?あの隣町の連続バット強盗殺人事件の犯人を逮捕した」
「いえ、逮捕したわけではないですよ。あくまで助言をしただけです」
「なんと。それはすごいですね。一般の方で」
 大根刑事と対象的に全く笑わず金田警部は相槌を打つ。一般の方という表現に少しばかりトゲを感じる。
「それ以外にもいくつか事件を解決されていて。動画サイトで専用のチャンネルもお持ちの有名人です」
 確かに、世間では名探偵と呼ばれている。もちろん言葉通りの意味ではなく、多少の敬意の混じった侮蔑のような難しい表現だと思うようにしている。
 俺は二重人格障害に悩まされている。成人するまでは全く見られなかった症状だった。たまに長時間意識を失うことがあり、周囲に微妙な変化を感じることがあった。知らない間に上司や同僚との間に謎の溝のようなものができていたり(結局退職した)、彼女に突然振られたりするうちにはっきりと症状を自覚するようになった。
医者にかかると、入院することになった。
本来の人格とは他に【もう一人の俺】がいるらしかった。最初は恐ろしかった。自分の知らない間に何か犯罪めいたことをしているのではないか。取り返しの付かないことになるのではないか。
 しかし、全く逆であった。気がついた頃には街で見に覚えのない声をかけられることが増えてきた。
 名探偵の倉知さんですね?そう声をかけられる度に最初は戸惑ったが、人づてに聞くと、自分が動画サイトに事件の推理を投稿してそれが事件解決に繋がる、ということが続き大きくヒットしたらしい。専用チャンネルを開設し人気を博していることを知らされると徐々に【もう一人の俺】が誇らしくなってきていた。
その動画サイトの閲覧数が百万再生を超えるようになってきると、色々なインタビュー等に呼ばれ、お金をいただくことも増え始めてきた。
 自分が知らない間に事件をいくつか解決していることにも慣れ始め、元々二重人格が無職への転落だったはずが、新しい名探偵という仕事にありつくことができたのだった。
「そう言われれば、ずっとどこかでお会いした気がしていたのですが、そういうことでしたか。私もどこかで知らずに目にしていたのでしょう」
「どうでしょう、警部?せっかくですし、助言をいただいては?」
 大根刑事は非常に俺に対して好意的のようだ。もしかしたらチャンネル登録をしてくれているのかもしれない。
「大根君、冗談はやめてください。一般人を現場に入れるなど論外です」
「ですが、あの名探偵ですし」
 がんばれ、大根刑事。なんとか現場に入らせてくれ。
「駄目です。とりあえず事情聴取をさせていただく。倉知さん、よろしいですか?」
「ええ。もちろん。そのために来ましたから」
 残念。まあ、仕方ない。
「倉知さん、ご心配には及びません。こちらの金田警部ですが、お名前を壱と申されましてね。フルネームが金田壱というまさに名探偵さながらのお名前で。名前負けせず、いくつもの難事件を解決されてきた名刑事なんですよ」
「そ、そうなんですか?」
 名刑事?確かに、大根刑事とは違って鋭い雰囲気を纏っている気がする。よりによって、そんな実績のある刑事に当たるとは。
「大根君。名前のことは言うな、とあれほど言ってあるはずだが?」
「いやあ、すいませんねえ。気をつけます。でも良いお名前ですよ」
 大根刑事は全く反省していない笑顔で頭をかいている。こいつも大したタマだな。
「もう、よろしい。では、聴取は私がやりましょう。大根君は、例の件を調べてきてください」
「は。かしこまりました」
 相変わらず機敏さの感じられないヨチヨチといった歩き方で大根刑事が現場を去った。
「さて、では。被害者の松坂さんとのご関係は?もちろんご友人なのは存じ上げておりますが、それ以外の繋がりです」
「待ってください。その前に、彼は何故亡くなったのですか?どうして警察捜査を?」
 とりあえず、余計なボロを出さないように、知人が亡くなった人間が聞きそうなことをきちんと聞いておく必要がある。
「詳しくは捜査の関係上、言えません」
「それはわかりますが、こちらもわざわざ出向いて協力の意思を示しているんです。せめて彼が何故亡くなったのかくらいは教えてくれてもバチは当たらないでしょう?」
「まあ、少しだけなら。現在、殺人と自殺の両方で捜査を進めています」
「え?自殺?まさか」
 目撃者がいたはずだ。何故、自殺の可能性を考慮する必要がある?
「何故【自殺?まさか】なんです?」
「ああ、いえ、彼の性格を考えると自殺を選ぶような男では無いと思ったものですから」
 どういうことだ?
「こんなところで十分でしょう。被害者とのご関係は?」
「ええ、すいません。彼とは高校の同級生です。当時は親しくしていましたが、就職してからは疎遠になっていました」
「なのに、何故、被害者は名刺を持っていたのでしょう?」
「最近、彼から連絡がありまして。何やら記者をやっているとのことで、私の記事を書かせてくれないか、との依頼を受けたので何度か会って打ち合わせをしました」
「なるほど。先程、話に出ました【名探偵】としてですね?」
「ええ、名探偵というとお恥ずかしいですが、そういうことで一応ビジネスをさせてもらっています」
「ふむ。ぶしつけな質問で恐縮ですが、あなたのことを詳しく存じ上げないのですが、どういった内容で収入を得ておられるのです?」
「えーと、これは世間話ですか?収入とかそういったことはプライベートなことなのであまり、言いたくないのですが」
 少し、牽制してみる。なんにでも答える必要もない。
「世間話に聞こえましたか?それは失礼。順序よくご説明しましょう」
 金田警部はできの悪い生徒に諭すように少し微笑んだ。
「被害者の財布を調べたところ、あなた以外の名刺も出てきたんですよ」
「ええ、それは最初の電話で聞きました」
「それでそれぞれの方の身元を確認したところ、何故かわかりませんが有名人ばかりでした。私でも知っている有名人ばかり、唯一、そうじゃない、あなたのことを私は存じ上げなかったので、そう思っただけですが、どんな人物か直接お会いできたら、と思いましてね。それでご連絡させていただいた次第なんですよ」
「なるほど、私もまだまだ知名度が足りませんね。もっとがんばります」
「全然知りませんでしたね」
 和ませようと言っただけなのだが、金田警部は先程の大根刑事と違ってお世辞も何もないストレートな性格のようだった。
「名刺を見ただけで、あなた以外は全員身元がわかりました」
「なるほど、それで事件間もないのに、そこまで情報を掴んでおられるのですね。あ、もしかして、目撃者とかもいたりして」
「いえ、残念ながら現段階では目撃者は現れておりません」
「えっ?」
どういうことだ?目撃者が現れていない?じゃあ何故発覚した?
「は?何か?」
「ああ、いえいえ。なかなかうまくいかないもんですね」
 はっきりと見られたはずだ。確かにこちらも顔は見なかったが女の悲鳴を背中に現場から逃走した自分自身が一番良くわかっている。どういうことなのか。
「まあ、話を続けますが。被害者の松坂氏はあんまり評判が良くなかったようです。身元確認のために来てもらった仕事仲間のライターの話では、ゴシップ関係の界隈では名の売れたダーティな記者で恐喝の噂も絶えなかったそうです。有名人の名刺をたくさん持っているダーティな記者。まあ、これは容易に事件の背景が見えてきませんか?」
「い、いや、しかし、名刺を持っていたくらいで。記者なら何かのつながりで挨拶ぐらいはしていた可能性もありますよね」
「名刺の裏には金額と思われる数字が書かれていました。それに日付も。トドメに【不倫】、【横流し】、【闇献金】などのキーワードも添えて」
「なんていうんでしょう。迂闊なメモですね」
「そうですね。恐喝犯としては二流ですね」
「しかし、それが何だというんです?私も恐喝されていた、とでも?」
「だから先ほど、収入をお尋ねした次第です。収入のない者に恐喝をしても効率が悪いですから」
 松坂のやつ、死んでまでも面倒な男だ。暗号を使うなり、もっとわかりにくく書くなりいくらでも手段はあったろうに。くそ、あいつ、もしかして殺されたりした時のためにわざと発覚しやすくしていたのか。色々な奴に恨まれていただろうし。
「つまり、私の名刺の裏にも何か書かれていたんですか?」
「そうですね、日付と【病気】と【捏造】記載がありました。残念ながら金額はありませんでしたが」
 何が残念ながらだ。とにかく、この刑事が俺を疑っていることははっきりした。
「そんなあからさまに俺のことを疑っていることを伝えられるとは思いませんでした」
「まあ、疑ってはいますね」
「ストレートなんですね」
「ところで、名刺の裏に書いてあった日付が本日になっていました。被害者と今日会われたんですか?」
「いえ。会っていません」
「ほう」
「これから会う予定になっていました。だから、現場付近に居たんですよ」
「本当ですか?」
「本当ですよ。証明はできませんが。だいたい私のことを真剣に疑っているならさっさと逮捕状を請求して逮捕したらどうなんです」
 いい加減腹が立ってきた。わざわざ来てやったのに。まあ、来たのは俺の都合でもあるが。
「今日の日付が書いてあった人物は他にもいたんですよ。だから決め手も無いんですよ。今の段階では参考人です」
 そういうことか。
「捜査情報は漏らせないから現場にも入れないのに、詳しく教えてくれるんですね」
 嫌味の一つも言ってやりたくなる。
「ええ。大した内容ではありませんから。それよりも病気というのは?」
「言いたくありません」
 二重人格のことは触れられたくない。警察のことだからいずれバレてしまうかもしれないが、どう転んでも良い方にはいかないだろう。偏見もあるだろう。
「では、捏造は?」
「それについては私もわかりませんね。何かの捏造をした覚えがない。それこそ逮捕状をとって尋問でもしてみたらどうですか」
 こちらについては俺自身も記憶がない。
「わかりました、必要であればそうします。ところで、お金は払うつもりだったんですか?」
「いえ。病気なのは事実です。どうしようもないことです。もう一度念押しで言いますが、捏造の方は根も葉もない話で、心当たりが全くありません。ですので、脅迫には屈しないつもりでした」
 実際、アイツは俺を呼び出してどうするつもりだったのだろう。おそらく、ネタを売ったという奴が先に来て金を払ったんだろう。そいつとの交渉がもしうまく行かなかったら俺と交渉するつもりだったのかもしれない。
「脅迫に屈しない、ですか。ご立派ですね。私にはとてもできません」
「もう、よろしいですか。行っても」
「ええ。聞きたいことがあればまたこちらから伺います。必要であれば逮捕状を持って」
「きつい冗談ですね・・・。わかりました。待っています」
 とりあえず、現場を離れることにした。この死神みたいな警部から一旦距離を取りたかった。現場から一番近くの喫茶店に移動した。
 喫茶店の中はクーラーが効いており、快適な空間だった。着席し、コーヒーを注文する。
 俺が殺人犯。確かにやったことは仕方ない。疑われるのは自業自得だが、質問攻めにされるのはやはりストレスを強く感じる。
 そこで、ふと、違和感が脳裏をよぎる。
 徐々にその違和感が言葉に代わり、頭の中を駆け巡る。
 殴ったかどうか覚えていない。
 そうなのだ。
 殴りそうになったところで目の前が真っ白になり、気づいたら死体と灰皿が目の前に。
俺は犯人じゃないのではないか。
もしかしたら目撃者と思っていた女が?
しかし、なら、何故、俺を見て悲鳴をあげる?おかしくないか?わざわざ声をあげるメリットがどこにある?俺に襲われそうだったならともかく、気づいてすらいなかったんだぞ。
だいたい風呂場から出てきていたぞ。犯人ならそんなところで何をしている。俺は女が部屋に入ってきたところを見ていない、ということは女は俺よりもっと前に部屋に来たことになる。タイミング的に殺せるか?
風呂場?返り血を落とすために入っていたのか?でも、現場で入るものか?それにどうみても凶器は灰皿だったし、撲殺だ。そこまで返り値は浴びないだろう。浴びたとしても服に付く程度で、呑気に現場で風呂に入るか?
やはり状況から考えて松坂を殺したのは俺しか考えられない。しかし、俺自身に記憶がない。つまり、【もう一人の俺】がやったと考えるのが自然だろう。
 注文したコーヒーが運ばれてくる。インスタントの味しかしない。それでも、気持ちは落ち着くのだからコーヒーというのは偉大だ。
 考えを整理しよう。
 おそらく、あの瞬間、【もう一人の俺】が姿を表し、ガラスの灰皿であいつを殴り殺したんだろう。短い間だけ記憶がなくなることは前にも何度かあった。
 【もう一人の俺】にとっても名探偵というのは大事なんだろう。それを守るためにやった。そう考えるのが最も自然ではないか。
 病気のことを告白して、全てを話してしまうか?
 いや、だめだ。仮にそうしたとしても刑務所に行かないだけで一生、精神病院に閉じ込められて出てこられない。同じことだ。
 しかし、そうなると、何故、目撃者は現れないんだ?
 とにかく思考をまとめよう。このままでは堂々巡りだ。
問題は三つ。
一つ目は、明らかに警察、特にあの金田警部は俺を容疑者の一人として認識しているということ。
二つ目は、実際に松坂を殴った瞬間の記憶は無いが、おそらく【もう一人の俺】が松坂を殴ったということ。
三つ目は、何故、目撃者が名乗り出ていないのか、ということ。
 自分の脳ではわからない。頭を抱えていると、薄っすらと目の前が真っ白になってきた。また【もう一人の俺】がでてこようとしているのだろう。彼ならなんとかしてくれるかも。期待と不安の中で意識を失った。

 ふと、目を覚ますと、知らない番号からの着信音で目を覚ました。
 警察とのやりとりの後、喫茶店で考えをまとめていたところまでは覚えているが、どうやらきちんと自宅に帰ってきたようだった。その事実も少しばかり驚きではあったが、電話の内容はさらなる衝撃だった。
「お前の犯行を知っているぞ」
 声は機械的な音だった。
「なんのことかわからんな」
 いきなりのことに、生唾を飲む音が相手に聞こえないだろうか。不安感が止まらない。
「松坂を殴って殺したろう?」
 絶句した。目撃者だ。ついに動き出しやがった。コイツは何者だ。
「いいがかりも甚だしいな。何故、俺が?そもそもどうやってこの番号を知った?」
「よく喋るやつだな。細かいことはどうでもいい。用事があるのはこちらだ。とりあえず黙れ」
「一体何者だ?というか、機械で声を変えても無駄だ。お前が女だと言うことはわかっている。脅すなんて卑劣なやつだな」
 電話の相手はしばしの沈黙の後、
「殺人者に卑劣なヤツ扱いされるとは思わなかった。それに私が女だと知っているということはお前自身が現場に居たことを認めたことと同じだがいいのか」
「なんなんだ、お前は。一体何のようだ」
「自分で言っただろう。脅迫のために電話をかけた」
 脅迫というのは生涯で松坂にされたのが初めてだが、脅迫者というのはこんなにストレートに脅迫してくるものなのだろうか。
「話が進まない。とりあえず、こちらの要求を聞け」
「わかったよ。話してみろよ」
 とりあえず、相手の要求を聞くことにする。
「お前は名探偵として、犯行現場に出向き、事件解決の努力をしろ」
「なに?」
「だから、お前が事件を解決するんだ」
「わけのわからないことを言うな。自分の起こした殺人を自分で解決しろってのか」
「自分で起こした殺人事件か。不用意な発言や感情的な言動ばかりだな。本当に名探偵なのか?」
「うるさい。こちらの気も知らないで。俺は違う。もう一人の俺が・・・」
 思わず、【もう一人の俺】のことを口走ってしまった。
「もう一人の俺?どういうことだ」
「なんでもない」
「お前、中学生か?自分の罪をもう一人の俺がやったとでも言いたいのか?だから自分は無実だと?笑わせてくれる」
「お前に何がわかる!病気を馬鹿にするな」
 一瞬、電話口の脅迫者がひるんだ様な気がした。
「落ち着け。そうか、本当に病気なのか、それは失礼した。謝罪しよう。脅迫者が謝るのもおかしな話だが。とりあえず、本題に戻ろう。別にお前が自首しなくても良い。別の犯人をでっち上げてもいいから警察をうまく誘導して事件を早く収束させろ」
「なんで、そんなことをさせる?」
「言う理由は無いが、教えてやろう。私も容疑者として名前が出るのは困るのでね。何ごともなく事件が終わるほうが都合がいい。とにかく、いいな?やらなければ全部ぶちまける。それを忘れるな」
 電話は唐突に切れた。
 【もう一人の俺】よ、なんとかしてくれ。
 頭を抱えたが、彼は出てきてくれなかった。

「どうされたんです?また戻って見えたんですか?何度も何度も熱心な方だ」
 金田警部がこちらを睨みながら近づいてきた。
 何度も何度もとは、嫌味な言い方だ。まだ二度目だろう。結局、俺は現場に戻ってきていた。
「いえ、すいません。どうしても興味がありましてね。現場をどうしても見たくて」
「現場を見たい?」
 もしかして、疑われたか?本当はこっちとしてもこんなところ来たくはないのだ。しかし、事件を自らで解決しなければならない。真実をなんとか捻じ曲げて。それに謎も残っている。なんとしても現場は見ておきたい。
警察がばっちり調べているはずとは言え、現時点で自分に逮捕状が出ているわけではない。現場に来てはいけない理由はない。
それに、自分にしかわからない痕跡があるかもしれない。
「いや、私もあれだけ疑われちゃうとね。一応【名探偵】ということになっていますので、真犯人を捕まえないと商売あがったりですよ。新しい仕事のネタにもなるというと不謹慎ですが、友人を殺害した犯人がいるのであれば、それを暴くのも弔いかと思いましてね」
「まあ、お気持ちはわからなくもないですが、あなたを脅していた人間を弔うんですか?」
「最後のは付け足しの理由です。あなたに嘘はつけませんね。ただカッコつけただけですよ。本心は疑いを晴らすのと、ネタ探しです」
「そうですか。【友人を殺害した犯人がいる】とおっしゃられましたが殺人だとお思いですか?」
「いや、ニュースで速報を見たのですが、頭部に打撃痕があったとのことで、私の推理では殺人かと。直感的なものもありますが。それでどうしても細かい点を確認したくて現場が見たくてね」
「ふむ」
 金田警部は思案した顔を見せた後、
「まあ、現場検証は終わっておりますので。特別に許可しましょう。こちらへ」
 少し注意しないといけない。前回のやり取りでこちらを疑っているのは明白になっている。油断はできない。何か変なことを言ったか?いや、大丈夫だ。それにこちらの肩書は名探偵なのだ。ある程度、こじつけはできる。
 現場となったホテルの部屋に通される。
「靴を脱いでこちらのスリッパに履き替えて下さい。現場の保存のために」
 スリッパを渡すのもテキパキしている。この金田という刑事は本当に仕事ができるのだろう。
「少し問題と言うか不思議な点がありましてね。せっかくです。あなたにも見ていただきましょう。素人の意見というのも参考になるかもしれません」
 ずいぶんな言い草だ。やはりこいつは俺に対してよく思っていないらしい。
「こちらを見てどう思われますか?」
 金田は相変わらず厳しい目付きでこちらを睨む。
 目の前には被害者の服があった。松坂の物だろう。相変わらず悪趣味なセンスをしている。
「と、いいますと?」
「お気付きになられない?」
「え、えーと、いや、確かに違和感がありますが」
 何がおかしいのかわからない。
「そうなんです。お気付きかと思いますが、この脱ぎ捨てられた服なんです」
「ふ、ふむ。やはりそうでしたか」
 服?きちんとキレイに畳んであるではないか。何が不満だ。
「おかしいでしょう?」
金田はしたりと顔を覗き込んでくる。
なんなんだ。何がおかしい?いたぶるように見やがって。さっさと勿体つけずに言いやがれ。
「警部。例の件、調べてきました」
 大根刑事がドアを開け、ヨチヨチとガニ股で歩いてくる。この男はいつも笑顔だ。
「ご苦労様です。で、どうでした?」
「ええ、やはり我々の睨んだ通りですね。あれ?倉知さん?こんなところで奇遇ですねぇ」
 大根は笑顔を崩さず、自然に俺に握手を求めてきた。例の件とは何だ?とにかく、同様を相手に悟られないよう手を握り返す。
「いや、私も現場を見たくてね。金田警部に無理を言って入れていただいたんですよ」
「いやあ、そうでしたか。有名な名探偵が来てくれれば心強い限りですね」
 警察が民間人を現場に入れたがるわけは無いが、金田と違って大根は本心から言っているように聞こえるから大した才能だ。
「ってことは、下着の矛盾で推理を巡らされていた、といったところですかな?」
「え、ええ、まあ、そんなところです」
 金田を見ると明らかに大根を睨んでいる。やはり俺が気づいていないことを分かっていてやりとりをしていたようだ。
「さすがですね。大根刑事も見抜かれておりましたか」
 とりあえず、相手に同調して出来るだけ情報を探る。大丈夫。必ず、事態は好転するはずだ。
「ええ、実は一番最初に気づいたのは私なんです。下着ってのは風呂に入るにしろ何するにしろ最後に脱ぐもんでしょう?だから必然的に一番上にくるのが普通なんですよ。それが見て下さい。下着は一番下、上着の下に埋まってます。こいつは妙です」
「大根君、もういい。そこからは私が話そう。倉知さんは当然そんなことはとっくに承知しておいでです」
 そういうことか!そんなことに気づかなかったとは。冷静に考えれば分かる話だったのに。
 べらべら重要情報を喋る大根を遮り、金田は続ける。
「つまり、たたんだのは被害者ではない。よって他殺の線がさらに濃くなって来ていると言えるでしょう」
「あともう一つ」
 睨む金田に気付かない大根が再び喋りだす。
「被害者がしていた腕時計ですが、これも妙なんです。タフショッカー、っていいましてね。若者に人気の時計でして。いや、実は私も愛用しておるんです。意外と若く見られますし。何より無骨なデザインでね。いやあ、手に入れるには苦労しました。大人気でなかなか手に入らなくって。時間がわかって頑丈なら他に文句はねえだろう、っていう潔い感じが好きなんですね」
「大根君!」
「ああ、はいはい、すいません。それでですね。こいつが米軍の認証試験かなんだか知りませんが、それにパスするくらい、象が踏んでも壊れないがキャッチコピーの頑丈な時計でしてね。これが犯行時刻と思われる時間で止まっているんです。しかし、コイツはたかだかぶつけたり落としたりするくらいでは止まったりするはずがないんですね」
 おそらく、それは俺の腕時計だ。あの事件以降気づいたら腕時計が無くなっていた。さらに、あのシリーズは人気がありすぎて今では簡単に手に入らない。しかし、何故?まさか【もう一人の俺】が隠蔽工作のために?しかし、突発的な犯行だったんだからアリバイ工作などしているわけがないのに何故腕時計を?そうか、実際とは別の時間に止めた時計をわざと残していったということか?
「腕時計に目立った外傷はありませんし、ある特定のボタンを押すと簡単に時間を止められるんです」
 大根は自分の腕を指し、ジェスチャーをした。
「そう、つまり」
 金田は俺の顔をまじまじと見つめながら、
「犯人が細工として置いていったと言えるでしょう。事前に用意していたのかどうかはわかりませんが。ところで倉知さんは腕時計はされないタイプでしょうか」
「な、何を突然」
「いえ、時計のベルト型にくっきり日焼けの跡が。本日はされていないようですが普段は愛用されているのですね」
 金田は不気味に微笑む。
 その顔が癇に障る。
「ええ、普段はしておるのですが今日は偶然。まあ、スマホで時間も見れますし、困ることも無いですしね。しかし、何でそんなことを?私が腕時計をしてようがしていまいが関係無いでしょう」
「もちろん、そうですね。あくまで犯人の話ですから」
 金田はしかし追求を緩めない。
「ですが、私も世間に疎いので。普段はどういった腕時計をされていらっしゃるんですか?参考までに教えていただければ今後のコーディネートに活かせるんですが」
「あなたと私ではまったくタイプが違うから参考にはなりませんよ」
 金田から目を離すと大根と目が合う。
「では、私に教えてくださいません?いえね、タフショッカーばっかり使ってて、よく姪っ子に馬鹿にされるんです。もっとお洒落な時計つけなさい、って」
 しつこい奴らだ。大根の方は悪気は無さそうなのがさらに腹立たしい。
「そうですね。自分はどちらかと言えば手巻きの精巧な高級時計が好きでしてね。ああいうゴツゴツしたものは身につけないし、興味もありませんね。やはり腕時計はおしゃれの一種ですから」
「お高いんでしょうね。我々の給料ではとてもとても。倉知さんほどの有名人となると、収入も素晴らしいのでしょう。恐喝されたりしたら大変だ」
 金田が下から顔を覗き込んでくる。
「あんまり当てこすりはやめて下さい。不愉快になる」
 もう、コイツラと話していると気が狂いそうだ。とにかく話をそらさないと。
「しかし、被害者は裸にバスタオル一枚で何をしようとしていたんでしょうね。しかも腕時計だけははめている。そもそも裸で誰かを出迎えていたと考えるほうが不自然ではないでしょうかね」
「裸で出迎えていた?」
「ええ。ですから犯人は最初から部屋の中に松坂と一緒にいたんですよ、きっと」
 こうなったらあの女も容疑者の一人として引きずり出してやる。
「バスタオル一枚で何をしていたと?」
「当然、ホテルに女性を招いていたんじゃないでしょうか」
「はあ?」
 金田は明らかにこちらにわかるように顔をしかめている。それがわざとだとわかっているからこそ、大きくプレッシャーを感じた。
「何か、勘違いをされているようだ」
「え?」
「名探偵らしからぬミスですね。被害者は別に裸で倒れていたわけではありませんよ」
 大根がそっと諭すようにフォローを入れる。
 ど、どういうことだ?確かに、最後にみた松坂は裸にバスタオルの姿で倒れていたはずだ。
 大根のフォローを受けて金田が説明を続ける。
「よく、ホテルである部屋着というやつですか。ビジネスホテルとかに泊まられたご経験はありませんか?浴衣に似た、それを着れば大浴場にでもいけますよ、というような部屋着です。あれを着ていました。まあ、洋服を脱いでいて、これからあなたと会う、えーと、本当に会う予定だったんですよね?そう、その予定であればさすがに裸なわけはないでしょう」
 馬鹿な、記憶違いではないはずだ。
あっ。
そうか、あの女だ。あの女が、松坂がバスタオル一枚で倒れていたら女を連れ込んでいたと推測されてしまうと思って、俺が逃げた後で部屋着を着せたのだ。
「まあ、来客があるのに、部屋着というのもおかしくはないですが、相手が旧友のあなたであれば理解できなくもないでしょうね」
「な、なるほどですね」
「ところで、何故、あなたは被害者が裸だと思い込まれていたんです?そのわけをお聞きできませんかね。あくまで参考として」
 口調とは裏腹に追い詰めるような目つきで金田がこちらを睨む。
「い、いや、洋服を脱いで畳んでいたみたいだったので、てっきり裸か、もしくはバスタオル一枚の姿かと。昔、あいつと銭湯に行った時に、来客はバスタオル一枚で迎えるのが実は最も誠実だという議論をしたのを思い出したもんですから」
「は?バスタオル一枚ですか?」
 自分でも何を言っているかわからないが、必死だった。
「え、ええ。一糸まとわぬ姿というのは、とどのつまり武器をまとわぬ姿でもあるわけでして。敵意のないことを示すにはそれがいい、と」
「なるほどですね。武士の所作に通じますなあ」
 大根はピント外れな関心を示したが、金田は全く笑っていない。
「おっしゃりたい意味がよくわかりませんが、勘違いだったと?」
「は、はい。思い込みですね。失礼しました」
「もう結構。話を元に戻しましょう」
 金田は目を合わせずに冷静に言った。明らかに俺を怪しんでいるように感じる。徐々に呼吸がしづらくなる感じがした。
「説明が重複する部分がありますが、ご容赦を。死因は頭部への打撃です。死体の腕に外傷は見当たりません。なのに、像が踏んでも壊れない腕時計が止まっていた。ですので、先程少し申し上げたとおり、こちらとしては腕時計は後から別の誰かにはめられたのではないか、と推理しているのです」
 俺自身も何故、自分の腕時計を松坂がしていたのかはわからない。しかし、実際していたのだし、これは下手に答えられない。警察がここまでつかんでいる以上、科学的な鑑定を行えば自分のモノと特定されるかもしれない。
「なるほど。腕時計が犯人のものだとして、科学的な裏付けで持ち主はわかるものなんですか?」
「いやあ、それがわかっていれば今頃、逮捕状をとっていますよ。細かい説明は省きますが、血液型までしか」
「大根刑事!」
 金田がものすごい形相で大根を制する。どうやら、特定はできていないようだ。大根が口を滑らさなければ金田に口を割らされていたか自滅していたかもしれない。
「ところで、倉知さんは何型ですか?」
 金田に怒られても表情を一切変えず、大根が笑顔で切り込んでくる。
「えーと、どういう意味でしょう?」
「ああ、いえ、参考までに。血液型を」
「言うんですか?血液型」
「何か、答えられない理由でも?もしかしてB型ですか?」
「大根刑事、それはB型に対する偏見だよ、訂正しないと」
 まさか!さっきのやり取りも演技?大根もとぼけたふりをして金田共々俺を疑っていたのか。二人して俺を揺さぶってきていやがる。
「まさか、と言わせてもらいますけども。腕時計は私のもので、隠蔽工作で私がはめた、とでも言いたいように聞こえるんですが、はっきり言って下さい」
 こちらもはっきりと敵意を示す。もう、ここから離れなければならない。もう敵に情報を与えると危険だ。
「そんな、怒らないでください。倉知さんを疑ってませんよ。ファンとして血液型を知りたいじゃないですか。A型だったら天才っぽいなあ、とか」
 もはや、大根の笑顔も邪悪に見えてくる。コイツも大した刑事だ。
「初めてお会いした時から、疑われていると感じていました。確かに、被害者とその後に会う予定になっていましたから多少は疑われても仕方はない。ですが、こうあからさまにやられると不愉快です。帰らせていただく」
「まあ、我々に拘束はできません。呼んだわけでもないですしね、今回は。帰りたければご自由に」
「そういう言い方も本当に気分が悪いですよ、金田さん。はっきり言ったらどうですか?私がやったと思っているんでしょう?」
 金田は一呼吸おいて
「そうですね。あなたかもしくは【もう一人のあなた】がやったか、という可能性は考えています」
 背筋が一気に冷える。調べやがったのか!どこまで知っている?二重人格のことを。しかし、日本の警察は優秀だ。病気というキーワードから何か特別な手を使って調べたのかも。
「さすがにいい加減にしてもらえますか?名誉毀損で訴えますよ。病気を馬鹿にするつもりですか」
「馬鹿にするつもりは無いですよ。感情的なフリをしてごまかそうとしなくても大丈夫です。まだ確実な証拠はありません。ではまた。用事があればお尋ねします。あ、訴えたければご自由にどうぞ」
 逆に背を向け現場に戻っていく金田警部を見送り、私は足取り重くドアを開けた。

現場近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。あのインスタント丸出しの味が忘れられなかった。もしかしたら麻薬でも入っていてもおかしくない。
「おや?奇遇ですなあ」
 屈託のない笑顔で手を振りながらひょこひょこと大根が近づいてきた。
「こんなところで何をされてるんです?」
いちいちゆっくりとした口調のせいで話しているだけでイライラが募るが、その笑顔のせいか何故か憎めない男である。
「大根さん、先程はどうも。私なりに事件を推理してみたくなってね。ここは私の行きつけの喫茶店なんですよ」
「いやあ、先程はすいませんねえ。勘違いさせちゃって。でも、名刑事対名探偵の攻防が見れて良かった。楽しかったですよ」
 実際は名刑事と犯人だが。それにこいつも俺を追い詰めるのに一役買っていたはずだが、しれっと無かったことにしていやがる。
「実は聞きたいことがありまして探していたんですよ。なんとか名探偵のお知恵を拝借できませんか?」
 名探偵なんていけしゃあしゃあとよく言うものだ。あれだけ後味の悪い別れ方だったのに。わざわざ俺を探したのか?今度はどうくるつもりだ?相手をしたくもないが、走って逃げるわけにもいくまい。
「名探偵なんて。名刑事にそんなこと言われたら恐縮です」
「とんでもない。私は頭を使うのが苦手なタイプでして。昭和といいますか、靴をすり減らして嗅ぎ回ることしかできんのです。今も金田警部に出された宿題がありましてね。難問に頭を悩ましておるところなんですよ。なんとかアドバイスいただけませんか?」
金田警部が?どんな意図があるのか。
しかし、いつも思うが皮肉なものである。私自身は自分が名探偵ではないことは百も承知であるが、名探偵が言いそうなセリフを言わねばなるまい。
「お役に立てるかは分かりませんが、難問とは?」
「ええ、匂いなんです」
「匂い?」
「死体に近寄った時に微かに蜜柑のような臭いがしたんです。口元のような気もするが正確には分からない。そこで、現場を隈無く探しましたが、柑橘類のようなものはなく、香水らしきものもありませんでした」
「それが何か事件と関係あるんですか?」
なんなんだ?この男は。そんな下らないことを。それがなんだと言うんだ。
「いえね。あなたからも同じような蜜柑の臭いがしたものですから」
ガムだ。確かに松坂は普段からガムを噛むのがクセだった。しかし、万が一ガムが俺に付着していたからと言ってそんな匂いがするものか?ありえるか?
 どう返せばいい?何が正解だ?そもそもなんで松坂が死ぬ直前まで噛んでいたはずのガムが無くなったんだ?【もう一人の俺】が隠したのか?ガムを?しかし、適当な理由も思い付かない。
その時、店内のテレビモニターから、CMが流れ、
「今、人気爆発の香水、デッドリーオレンジ新発売!ほのかに香る!自然に香る!」
大根と目が合う。
「あれかな?実は俺もつけてるんだ」
奇妙な偶然だった。これでごまかせるかもしれない。
「ほう、男が香水ですか?」
「最近の流行りでね。松坂も身だしなみには気を使うタイプだったし、あれじゃないかな」
「でも、今はその匂いはしないようですが」
大根は無遠慮に鼻を近づけて匂いをかぐ。
「CMでも言ってたとおり、【ほのかに香る】が売りなんですよ。匂いはすぐに消えてしまいます」
「はあ。よくわからんのですが、それでは香水の意味が無いのでは?」
「まあね、でもメーカーとしてはたくさん使ってもらえるからいいんじゃないですか?」
「ふむ、ですが、その割には、現場に根強く匂いは残っていましたが」
なかなか面倒というか鋭いと言うか。
「まあ、つける量にもよりますからね。私は軽くしか付けないので」
「いやはや、なんとも。私には未知の世界の話で。横文字はあんまり得意じゃないですが、デッドリーオレンジってのは一体どんな匂いで?」
「ただのよくある柑橘系の匂いですよ。宣伝に人気俳優を使ってるんで、流行ってます。私もその俳優が好きでね」
「うーん、しかし香水って口元につけますか?」
「まあ、つけないね」
「ですよね。それでは金田警部は納得してくれません」
「しかし、それがそこまで重要なことかな?」
「と、いいますと?」
「先程から匂いばかりに執着されてますが、もっと容疑者の割り出しやアリバイ崩しに励んだ方がいいのでは?」
「ですが、現場には柑橘系の匂いの素となる物が何一つ無かったんです」
「被害者が蜜柑を食べただけでは?食べて無くなった。それなら、解剖で分かるでしょう」
「皮まで食べますかね」
「人の好みなんか分からないですよ」
「ああ、すいません。解剖の結果、腹の中には食べ物の形跡は無かったんでした」
それを先に言え。
「そうなんですね、すいません。どうやら推理の調子も悪いようで」
「いやいや、そんな日もありますよ」
「しかし、匂いの素となるものが無かったとは言い切れないのでは?見落としたんじゃないですか。人間のやることですから」
「いえ。自分自身で隅から隅まで匂いを嗅いで回りました」
 はあ?こいつ正気なのか。
「隅から隅までですか?」
「ええ。私、金田警部のように頭は良くないのですが、そういう執念だけは人一倍ありましてね。ん?あれ?」
 大根は足を挙げ、靴の裏を見る。靴の裏にはべっとりとガムが付着していた。
「ガム!そうだ。ガムだ!ありがとうございました。さすが名探偵。被害者が噛んでいたガムが殴られた拍子に床に落ちて、犯人の靴にこびりついている可能性がある!ちょっと失礼しますよ」
 大根はドタドタと走っていってしまった。
 俺はまさかと思い、そっと靴の裏を見て、戦慄が走った。事件の後、靴の裏など確認していない。いや、そもそも日常生活でそうそう靴の裏など確認しない。
すぐに店の奥のトイレに走る。
 トイレの中で靴を洗う。
 べっとりついたガムを剥がす。コイツをどうする?トイレに流そう。
 とりあえず、九死に一生を得た気持ちで座席に戻る。そこでまた、背筋が凍る。座席には金田が座っていた。
「長いトイレでしたね。体調でも崩されたんですか?」
 先程の大根といい、意図的に目の前に現れているのは明らかだった。
「どうされました?おすわりになっては?」
 座るも何もここは俺が最初に座っていた席だ。
「金田さん、どうされたんですか?こんなところで。しかも私の席で。それにコーヒーまで注文して」
 机上には既に冷えた俺のコーヒーの他に金田のカップも置いてあった。私は癪に障ったが金田の向かい側に座った。
「いや、失礼ながらここのコーヒーは酷いですね。飲めたもんじゃない」
「質問に答えて下さい」
 金田は一呼吸おくと
「すいませんね。ガムを靴の裏に付けたのは私です。正確には私に指示された大根刑事ですが。現場でスリッパに履き替えてもらった時にちょっとね。反応を見たくて」
「な、なに?」
 頭がパニックになって考えられなかった。
「いや、思った通りの反応でよかった。次にお会いする時には事件を解決できそうです。では失礼します」
 伝票を掴んで颯爽と去っていく金田を見送ると、意識が少しずつ薄れていく自覚が会った。どうしよう。いや、でもいいさ、きっと優秀な【もう一人の俺】がなんとかしてくれる。


「あなたが目撃者ですね。いや、脅迫者、いや真犯人というべきか」
 女は答えなかった。
「そんな難しいことじゃない」
「脅迫者は倉知の電話番号を知っていた。二重人格であることも。そして、倉知が犯人、実際には犯人ではないのだが、自分を犯人だと思いこんでいるということを知っていた」
「思い込んでいる?」
「そう、倉知を尋問して、内容を全て整理しました。奴は、いや、【もう一人の奴】かな。自首してきたのはあいつのもう一つの人格でした。その後、何度か入れ替わって両方に尋問を行いました。何度も何度も現場に来ていたが、倉知本人、ややこしいが主人格の方だな。そいつが記憶している現場に来ていた回数は二回だけでした。倉知は人格が入れ替わる際に【徐々に意識が遠のいていく】。松坂を殺した現場では一気に真っ白になったと証言した。だから、あの瞬間は人格の入れ替わりが起こったんじゃなく、ただ気絶したんだ。アンタに殴られてね」
 一呼吸置く。
「事件を最初から説明すると、こうです。松坂と倉知が口論になる。そこで隠れていたアンタが倉知を殴り気絶させる。ここで、倉知は二重人格の片割れが出てきたと勘違いしたんだな。倉知が気絶している間に松坂を殺害したアンタは松坂に部屋着を着せ、灰皿を倉知に握らせる。倉知から腕時計を外し、松坂につける。そして、倉知が目を覚ますのを待つ。目を覚ました倉知は自分がやってしまったと思い込む。そこで、バスルームに隠れていたアンタが悲鳴をあげる。倉知は逃げるという状況だったんです」
「見てきたような言い草だ」
「倉知は脅迫者、つまりアンタから事件解決を命じられる。何故、そんなことを?当然脅迫者にはそうさせるメリットがあった。状況証拠は多いが決定的な証拠がない。倉知を警察に逮捕させるには段階を踏む必要があった」
 女は相変わらず表情を動かさない。
「現場に行かせて担当刑事と遣り取りをする。そう、怪しむ理由、疑う理由を作ることができるんです。だって担当刑事が脅迫者なんだから」
 大根刑事は金田警部の方を強く見つめ、悲しく言葉を突きつけた。
「倉知から脅迫者が女性だったと聞いて、全てわかってしまいました。金田警部・・・何故、こんなことを」
「もういいですよ。大根刑事。ありがとう」
「なんでこんなことに?」
「倉知の【もう一人の彼】に証拠の横流しをしていたんだ。最初の方は彼もきちんと捜査をして事件を解決していたようだけどね。そんな何度も事件解決に立ち会えるわけもない。だから、私に近づいてきて・・・。それで金と引き換えに証拠や情報を渡していた。それを松坂に掴まれた。保身です。それ以外無い」
「残念です」
「一人にしてもらえませんか」
「それはできません、警部」
 大根はとても優しい目で金田を見つめる。心を見透かしているようだ。これから何をしようとしていたのかも。
「一緒にいくつもの事件を追いかけたでしょう?最後に一つだけ。一つだけのお願いです」
「やめて下さい。罪を償って、もう一度やり直せばいいのです。こんなことで諦めてはいけません」
「相変わらず、不器用な刑事ですね」
 金田警部は初めて微笑むと背広の内側からリボルバーを引き抜き頭に当てた。
 大根は金田に向かって飛びついたが、悲しい音が当たりに響いた。


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