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映画「ひろしま」

 1953年の8月某日、広島のある高校の教室で、女子生徒が鼻血を垂らし気絶した。検査の結果、彼女は7年前に受けた原爆の後遺症によって白血病を患っていることが判明した。
 数日後、担任教師は教室にて原爆について話し合う機会を設ける。教師は戦後に広島へやってきている設定であり、彼の視点は私たち観客の視点と重なり合う。私たちは彼を通して、1945年の8月6日を見てゆくのだ。
教師は問う、「この中で、原爆を受けた者はどれほどいるか」。教室の三分の一の生徒が手を上げる。次に、女子生徒が原爆症の特徴とも言える倦怠感の症状について語る。すると、それを聞いた男子生徒は、「だるさなんて誰でもあるわい」と周りを囃立てるようにケラケラと笑い始める。
原爆から7年が経過した後の広島の子供達は、すでに子供らしい無邪気さを手に入れ、平穏な空気の中で生活している。しかしながら、本当にこの平穏は正しいのだろうか。私たちが原爆の後に希求した平和はこれだったのか。そのような問いを、この教室は私たちに提起し、映画の舞台は原爆当日に移される。
 1945年8月6日、ある家族はいつも通りの朝を迎えていた。母一人子供三人、長女と次女そして幼い弟といった構成だ。その日の朝、母親と次女は長女と幼い弟を送り出し、長女はお寺に弟を預けると建物疎開へ向かった。幼い弟は女性教師と友達と共に体操を楽しむ。 
その頃、建物疎開に勤しんでいた長女たち女子学生群は空で敵機が飛行していることに気づく。ぽつりぽつりと「Bだ」(B 29のこと)と呟く声が聞こえる。
すると、ピカッと、文字通りにスクリーンいっぱいに光が放たれた。観客である私はその光を原爆だと当たり前のように直感する。しかしそれは、1945年8月6日以前の世界において「当たり前ではなかった」ものである。鬼火のような薄暗い恐ろしさではない、しかしながらその真っ白いまばゆい光は、その一瞬によって、無邪気に生き物の命を浚う、輝く閃光であった。
その光によって、広島は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。崩れ落ちた家々、どこからともなく迫り来る炎、人々の叫び声、そして両手を正面に差し出して前傾になりながら進んでゆく傷だらけの人々の行進。ある男は瓦礫の下にいて身動きの取れない妻を救おうと、必死に周りに向かって助けを叫び続けた。しかし、その叫びに応じる者はいない。ただ、呻き声と共に人々は通り過ぎる。男は必死に妻を救おうとした。しかし、そんな彼をあざ笑うかのように炎は彼らに迫ってくる。ついに、男は「許してくれ」と妻に声を投げ、その場を後にした。そして、妻から託された子供たちを探しにゆく。
他方、あの一家は。母親は次女と共に崩れ落ちた自宅から這い出て、真っ先に息子を探しに行った。すでに跡形がなくなったお寺の場所へ向かうと、息子は全身を真っ黒にして死んでいた。死体を呆然と見つめる母親。長い沈黙が続く。
一方、長女は一緒に建物疎開に参加していた女性教師や生徒と共に、傷ついたお互いを支えあいながら、教師の引導のもと川に向かって歩みを進めていた。ゆっくり、ゆっくりと声を掛け合い火の手から逃れようと川へ。
川にはすでに、男性教師を中心とした小学校低学年程度の男子が集まったグループが腰の辺りまで身を沈めていた。しかし、川は無情の流れを止めない。男性教師は、男子生徒たちに向かって「校歌を歌おう」と声をかける。振り絞るような明るい声が、校歌をつくりだし、彼らは一人また一人とその身を川に任す。
女学生のグループも川へ到着すると同様に、今度は君が代を歌い始める。そして同様にふり絞る彼女たちの声は川によって流されてゆく。
 妻を瓦礫の下に残してきた男は、息子の名を叫びながら方々を探し回っていた。そして彼はようやく、ある学校ですでに息絶えた息子を見つける。その体は冷たく、目が開くことはない。彼は呆然と、しかし父親としての最後の責任を果たすかのように、息子をおぶい学校を後にした。
 その後も物語は続き、私たち観客は原爆が落ちた広島の直後そしてその後を見届けることになる。そこには、まるで「原爆投下から〜年」などといった数の空虚さを露わにするように、原爆の永久性がまざまざと映し出される。2020年、原爆は未だ生きているのだ。
 この物語は、決して終わらない。「ひろしま」の物語は終わらないのだ。観客は、最後のシーンによってそれを痛感させられるのである。

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