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きれいごとの効能

「ん? そいつぁ聞き捨てならねえな!」。思わず、時代劇に出てくる人物みたいなセリフを口にしそうになった。

ちょっと単価の高い喫茶店でコーヒーを飲んでいたときのこと。私は人と待ち合わせをしていて、コーヒーの値段にそわそわしながらカップを持ち上げていた。お、お高いわ……。

近くのテーブルに大きな声で話す男性がいて、いやでも会話の内容が耳に入ってきた。

「世の中の人間は80%がアホ。そのアホをどううまく使うか。それが商売で勝てるかどうかを左右する」

要約するとそういうことを話しているのが聞こえる。とにかく声が大きい。ビジネスで成功している方なのかもしれないけれど、ずいぶん思い切った物言いだなあ。ちょっとえげつないわ、なんて思いながら聞いていた。

こういうきわどいことをばっさり言い切る人もいるのだと感じるとき、私はいつも父のことを考える。

私の父は「きれいごとマイスター」である。ふわふわとした人で、汚れのついていない言葉ばかりを口にする傾向がある。

20年ほど前、就職氷河期の終わり頃で私は就職活動に苦戦していた。「まだ内定一つももらえてないの?!」と声をかけ続ける母と距離を置きたくて、自分の部屋にこもった。母とは対照的に、父はのんびりとしていた。

しばらく経って私の部屋にやってきた父は言った。

「お父さんはさ、ちなみちゃんが自分のやりたいことができるとええと思うんや。やりたいことをやったら、ええよ」

きれいごと・オブ・きれいごとじゃないか。私は脱力した。どうやったら内定が取れるのかとか、面接で好印象を与えるための現役会社員ならではの指南とか、そういうんじゃないんかーい。思わず心のなかで小さくツッコんでいた。

でも、あのきれいごとは、確実に私の心を楽にした。エントリーシートの書き方やらグループディスカッションの乗り切り方といった、実践的なアドバイスよりもずっと、指針として存在感があった。実際、次の日からまた私はリクルートスーツを着こんで走り回れた。

実用的ではない言葉が人を救うこともある。夜空の星を眺めてもお腹は満たされないけれど、心は豊かにふくらんでいく。きれいごとには、きっとそんな効能がある。

「あの人はきれいごとばかり言っている」。きれいごとマイスターは批判されがちだけれど、私の父みたいな人もいる。汚れを知らない言葉の群れは案外バカにできないなあと思うのだ。

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