見出し画像

運ばれるわたし

読書が能動的な営みであるかと聞かれたら、わたしは「ノー」と答える。かといって、読み手は受け身に徹しているかというとそうでもない。

先月、『夜ふかしの本棚』という本を読んでいたら、朝井リョウさんが『雪沼とその周辺』(堀江敏幸)を紹介されている箇所にあたった。

そこには、好きだと感じた文章はその人を運んでくれるという意味のことが書かれていた。優しくも鋭い読書論が、心に残って仕方がない。

『夜ふかしの本棚』は、朝井リョウさんや円城塔さんら6人の作家が思い出に残る本、好きな本などについて語る書評的エッセイ集だ。ここ2か月ほど、朝井リョウさんの小説や解説を読むことが多かった流れで手に取った。

わたしは書評や読書エッセイが大好きで、雑誌で見かけたらまず読む。美容院に置かれた雑誌でも書評をチェックする。紹介されるもののうち、気になった本は買ってみる。

今回も『夜ふかしの本棚』を読んで、『サラバ!』(西加奈子)と『素粒子』(ミシェル・ウエルベック)を購入してしまった。読む時間が確保できなさそうなときでも買ってしまうのはなにかの病気なんかい、といつも思う。

さて、朝井リョウさんの言葉にしびれた、という話に戻る。

わたしもたくさんの文章を「好きだな」と思い、その文章に運ばれて生きてきた。

小学生の頃、『まず微笑』という本を買ってもらった。三浦朱門、曽野綾子、遠藤周作の各氏によるエッセイ集である。

ユーモアあり、悲哀あり、ときには胸に刺さるえぐみあり、の大好きな本だった。小学生にもわかる平易な文章でありながら示唆に富んでいる。とくにハンセン病療養所を訪れた遠藤周作さんのエピソードは忘れられない(ネタバレはしませんので、ご興味ありましたらぜひ読んでみてください!)。

そんな、夢中になって読んだ本たちにはかならず「ああ、好きだな」と思える文章があった。

折に触れては思い返し、ときに進むべき方向を定めるための道標にもした。文字どおり、わたしは文章に「運ばれて」きた。

読書って、どう見ても受け身で、読んでいるだけではあるのだけれど、読み終えたあとに能動へと乗り換えるステップが待っている。読んだことをどう活かすかは本人次第なのだ。

わたしがこういう人間として生きているのは、読んできたからで、運ばれてきたからだ。今まさに手にしているこの本だって、わたしをどこかへ運ぼうとしているかもしれない。

運ばれている……と感じる瞬間がいちばん楽しい。運ばれようと動いてみるのもまた楽しい。受動と能動のあいだを行き来するのが読書の醍醐味にも思える。

みなさんはいかがでしょうか。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,902件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?