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現代における「生(なま)」の価値 同人誌を作る意味

 去年(2023年)の11月頃から「なんとか2022年の文体に戻ることできないかねえ」と思っていて、今年の2月にそれができないと諦めてから書いた原稿、個人的には新しいことを試せて満足していたのだが、どうも評判が悪かった。特に、いつも感想をくれる友人が「これはよくないと思う」と剛球直言。しかし、自分はそれを聞いても「なんでこの新しい工夫ポイントがわからんの?」という感じだった。それで自分が寄稿する2冊の同人誌の作品を読み直したところ、友人の言う通り本当に酷かった……。同人誌の内の1冊はもうすぐ入稿してしまうので、悔しい、けれど仕方がない。来季、頑張りましょう。
 というわけで、自分は12月1日の文学フリマで2つの同人会に小説を書いた。そこで今回は同人誌に参加する楽しみについて、前述の友人と会話をして考えたことを書いてみたい。

  話のきっかけはクエンティン・タランティーノと庵野秀明だった。この2人、作品の内容はまったく違うけれど、「先人の作品を大量に観て、自作でオマージュやサンプリングをしている」という共通点がある。そこで、「これからの時代はサブスクリプションやYouTubeで映画や音楽の歴史を一気に勉強できる世代が増えて、タランティーノや庵野秀明みたいな『昔の作品に現代的なエッジを加える』というクリエイターがどんどん出てくるかもね」という話になった。
 しかし話している内に、「銃が生まれるまでの人間は獲物を狩った際に動物に対する感謝をしていたけれど、銃で簡単に狩りができるようになってからはそういうことをしなくなった」という昔に『テラフォーマーズ』で読んだ話が思い浮かんだ。
 現代の若者を批判する気は毛頭ないけど、タランティーノや庵野秀明はアーカイブが安価で果てしなく手に入る時代に作品を作っていたわけではない。情報が貴重だった頃のクリエイターだ。恐らくだけれど、過去の作品の「貴重さ」や「神性」といったものが今よりも遥かに高かっただろう。「いや、Amazon primeで観ようと青春時代に1度だけ観た映画だろうと、1本は1本」と言うことはできない、少なくとも自分はそう思う。自身の経験に照らし合わせると、やはり図書館やkindle unlimitedで手に入れた本はそこまで真剣に読んでいない気がする(と言いつつどちらもメチャクチャ利用しているが……)。もちろんまったくもって不毛な読書というわけではなくて、中には読んでよかったと思えるものも多くあるのは確かだ。でも、本屋に行って棚を見て買って、家に帰って読むという行為に宿る「なにか」はとても大事なのではないかと思う。
 つまり、現代の若手クリエイターがほとんど無限と言えるほどのアーカイブを手にしたとして、それでタランティーノや庵野秀明のような作品を作れるのかという疑問が生まれるのだ。自分はそれが無理とは思わないけれど、それでも銃で狩りをするかのように手に入れた情報は、人間心理として「これは貴重だ、大事にしよう」とはならないんじゃないか、そんな気がする。

 そこで同人誌の話。
 同人誌はコストの面で言うとかなり割高だし、入稿作業も面倒だ。しかも自分が主宰するサークルの本はあまり売れない。しかしそれでも同人誌を作るのは楽しい。特に同人誌の方向性や作品の進捗を報告し合う会議はかなり面白いのである。
 それのどこが上記の話と繋がるのかと思うかもしれないけれど、自分はこれからあらゆることがデジタル化していくと、最後には「生(なま)」であることの意義が強くなるのではないかと思っているのだ。人間は絶対に脳の刺激だけではなく、肉体の刺激を求める。それがこれまで生きてきた実感だ。
 文学フリマで本を買うと、当然、その本を作った人の顔が見える。正直な話、作った人が感じのいい人だったりルックスがよかったりするだけで、買ってから読む確率も上がるということがあるのだ。それに、同人誌もあれでなかなかしっかりしていて、それなり「本だ!」という感じがする。クレジットカードで買えるということもない(通販でも売ってる人はいるけれど)。これが「生」にやどる神性で、この価値は年々高まるはず、そんな確信がある。少なくとも、自分が同人誌を作るのはそんな「生」の経験を買うためだと思っている。

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