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【ショートストーリー】淡い幻想

 今日は金曜日だ。ということは、明日は土曜日。当たり前だ。当たり前だが、そうなんだ、明日は休日。それを想うだけで心がウキウキしてくるんだな。
 一週間、我ながら仕事よく頑張った。朝から晩まで、窓口や電話による相談の対応、大変だったなぁ。一刻を争う深刻なケースなんかもあったりして、本当バタバタだった。
 まー、これって今だけの話じゃないんだけどもね。最近の世の中、ほんとどうかしちゃってるよ。どうしようもないくらい、どうかしちゃってる。

 とはいえ、今日は金曜日だ。今日こそは早く帰りたいものだ。この何週間、早く帰れた試しがない。いつだって帰る間際に問題が持ち上がるのだ。

 帰ったら、今夜はゆっくり晩酌をするのだ。これが私の一番の楽しみなのだ。

 帰りにスーパーによって、ぽってりとしたサーモントラウトのお刺身と、マグロの刺身、イカ刺しもいいかもしれない。天ぷらの盛り合わせも買っちゃおう。値引きになってたら焼き鳥も。
 天ぷらは、ショウガの天ぷら、なすの天ぷら、長いアナゴの天ぷらがいい。それにウスターソースをかけて食べるのが私の好みだ。
 焼き鳥は、私の好きな鳥皮と定番のネギマ。鳥皮は塩で、ネギマはタレがいい。あと、モモも捨てがたいな。
 刺身は、醤油にわさびたっぷりで、分厚く切ったサーモントラウトのとろっとした脂身を、舌でゆっくりと愉しみながら食べるのだ。
 今夜は家が居酒屋と化すだろう。

 お酒はもちろん日本酒。とっておきの新潟の「純米大吟醸」が、家の流しの下で私に飲まれるのをずっと前から待っている。

 さて、もう17時だ。退社の時間だ。今日も忙しかったが、一段落ついたところだ。

 ああもうすでに、柔らかいサーモンと、香り豊かな純米大吟醸が、私の舌の上で絡み合って、最高のハーモニーを奏でているのを想像してしまう。

 給湯室でコーヒーカップを洗い、まるで大事な儀式を執り行うかのようにパソコンの電源を静かに落とす。
 鞄の中にスマートフォンをしまい、上着を羽織り、席を立とうとした時だった。

 電話が鳴った。

 私は逡巡する間もなく、即座に受話器に手を伸ばした。

 「もしもし・・・」

 受話器の向こうから、今にも消え入りそうな、思い詰めた声が聞こえてきた。
 晩酌の想像が、その瞬間に淡い幻想へと変わった。
 私は、席に座り直した。そして、震えるように語る女性の声を丁寧に聞きながらメモを取り始めた。



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