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ショートショート『手袋』

 仕事からの帰り道、私は駅の階段を上がっていた。目の前の大きな背中をした男性の後ろに、半分反り返るようにして歩いていると、ふとした拍子に後ろ向きに倒れてしまうのではないかという恐怖に駆られ、次の瞬間には、別に倒れてみるのも悪くないのかも、なんて思ったりした。

 空気が氷のように冷たい。階段を上がりながら、私は階段の上に片方だけの黒い小さな手袋が落ちているのを見つけた。
 このところ妙によく、私の行くところで手袋が落ちているのを見かける。それは、路地の隅っこであったり、あるいは駅の階段であったり、ときにはエレベーターの中であったり。赤いのだったり、黒いのだったり、ピンク色だったり。

 落ちた手袋は、やわらかそうで、手触りがとてもよさそうだ。でも私がそれを手に取ることはない。私だけではなく、たくさんの人の視界に入りながら、しかしそれはそこにあり続けるのだ、きっと。

 どんな人が落としたんだろうとか、落とした人はさぞ困っているだろうとか、もう片方の手袋の持ち主のことなどまるで考えることもなく、突然音もなく物語からはじき出されたかのようにポツンと置き去りにされてしまった片っぽだけの手袋の方に、どことなく共感してしまう。

 そして帰り道の間じゅう、まるで日光写真で転写したかのように、私の脳裏にはいつまでもその手袋の残像が貼りついて離れないのだ。

読んでいただいて、とてもうれしいです!