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子どものときからのメンタル疾患に関して〜わたしの場合

わたしは子供のときに
かなりの入退院を繰り返していて
今でも覚えているのが市立病院の診察カードが
12ヶ月に区切られていて
来院するとハンコが押されていたのですが
それがハンコだらけだったこと
隙間なく版が押されていたのをなんとなく覚えています

幼稚園のときでした
小児科の診察室に入ると
入っただけでいつものお医者さんが入院を告げて
私はその部屋に入るまで
病院の受付から診察室まで歩くのもしんどく
母に時にイライラされながら
そこまでたどり着くのも命懸けで足を動かしていたのを思い出します

あまりの具合の悪さに看護婦さんに
そこからはおんぶされてエレベーターに乗って
大部屋に運ばれました

そこから1週間、点滴で凌いで過ごして、1人で眠り、土曜だけ母が夜遅く、仕事終わりにやってきて
床に寝たこともありました

私は重度の自家中毒だったのです
いつも熱と、吐き気、気持ち悪さ、嘔吐に悩まされていました

幼稚園だしなぜそうなるのか
なぜこんなに苦しいのか
いつもくるしかった

1週間経つと母の仕事は休みで、ちょっとだけ一緒にいてくれる、そうすると私の病気も治ってきてくれて、点滴が外されて退院になる

つまり幼稚園生として生きていた私は、無自覚に自分の現状が寂しいというか、物悲しさを感じていて、それが募ると、自家中毒を発症していた、のだと思う
つまり愛情がたりなかった

親が悪い部分もあると思う
親は気づいてたと思う
だから、完璧でなくても改善してもっと具合が悪くなる頻度をさげることはできたんじゃないかなと
今は思う
でも親は共働きで飲食店で、日曜しかやすみがなかったし、そういう時代で仕方ないともいえる
居酒屋をやっていて、昼間はその買い出しや仕込み、夜は営業だと平日の夜はいつも妹とふたり
お手伝いというか子守りのおばちゃんがいたけど、寂しさとか心の安寧は得られなかったんだろうなと思う

長くなるけど、父方が強迫性障害気質だったと思う
父は小学生のときから宿題で出された問題がとけないと夜眠れなかったと言っていた
これは私が大人になってから話してくれた
そういう感じだったから、私が今住んでる雪国よりもっとずっと山の中にあるような田舎でも勉強ができて
早稲田大学にはいったのだ
ちなみにおじ様はすごく細かい人で父と折り合いがよくやく、この方は明治大学のご出身だった

何かをきちっとしなければいけないという気質
脳の癖
遺伝
わたしは父方のことを考えると
私のメンタル疾患は、遺伝と私の考え方の癖、淋しがりという性格そして、仕事でかまってやれないことを改善しようとしない親にあったと思う
特に母に
母は母であるけど、父が1番大事な人で、そして末っ子の妹が、子ども、として大事な人だった
2歳下の妹としか寝れないのだ
いつも妹とねていた
たまに私が一緒に寝ようとすると、足が冷たいと追い出された
だからわたしは1人用のお布団を二つ並べて父の隣でねた
父の隣に寝ていいのは私だけだったし、父の隣しかなかった
父のことが大好きだったけど、一緒にねるというか、隣になるから子供心にもう少し愛されてるという温もりが欲しかったんじゃないかと思う

それが溜まっていくと、自家中毒を起こし、忙しいけど仕方なく母は私に付き添い、病院につれていき、病院に預けて去っていくのだった

あるとき母に、仕事に行く前、5分でいいから会いに来てほしいと泣きながらいったけど、無理だと一蹴された
哀しかったけどそれ以上、まだ10歳にもなってない私にはどうすることもできなかったし
何歳になっても与えられない愛情をくれくれいってもどうしようもないこともはっきりしていた

私が今、母がトラウマなのは、
母が触ったかもしれないものを触れないのも、母が行ったところにいけないのも、今までの愛情の求めと得られないという失望?そんなりっぱなものではないけど
言葉にできない、それこそトラウマがそこですでにあったのかもしれない

そういうわけで、今考えるとそんなに自家中毒を繰り返している子供だったら、今の医学なら小児科でなく心療内科とか精神科につれていかれるべきだったのかもなぁと思った

父方の遺伝、幼少期の愛情の欠乏、さらに寂しがりすぎる私の脳みそ、みんな混ざって今の私の、鬱と重度のOCDがあるのではないかと思う

あのとき、母に抱きしめられていたら?
母に特別に愛されていたら?

そう思うと恐ろしくて今はたまらない
こわい

でもその感情が湧き上がる直前、ほんの数秒前の空白のときに、母に対してフラットな思い出が少しはあって、笑って微笑みかけてくれたことを思い出すんだ

そうすると、すぐ涙が出そうになる

母とどうして仲良くできないのか
母と一瞬だけたけど、OCDを押し殺して
一緒にいられたときがすこしだけあった

まだ実家があって、父の祭壇があって、
夕方にふと、涙が出て、眺めていたら
母が来て、とてもしずかに
どうしたのー?だいじょうぶなのと聞いてくれた
あの優しい声と気持ち

小学生のとき、学校にいくさいに行ってらっしゃいと穏やかに言ってくれた笑顔

でもわたしはたぶん、与えられない母の愛情や
母の考え方がどうしても、合わないこどもだったんだろう

その分、別のベクトルで生きられる子供だったら違ってたかもだけどそんなことかんがえてもせんがない

なのでわたしは、ですが
遅かれ早かれ、重いおもくないはあっても
遺伝的、環境要因、わたしの脳の性質
それにより、わたしはきっと、世に言うメンタル疾患になっていたと思う

わたしの場合はメンタルから脳に影響し
脳に要素があったから、メンタル=心が弱って、脳の部分が刺激されて、精神疾患と今は言われてるけど
脳の疾患になったんじゃないかなあと思う

む、むずかしい


お力添えありがとうございます。