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ドストエフスキー『罪と罰』⑪ 感想

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 ラスコーリニコフはいよいよ老婆の家に来た。ドアの前で呼び鈴をならすが、返事がない。彼はドアに耳をぴったりと押し当てて、中の様子をうかがおうとした。

彼はふいに、ドアの取っ手のあたりを用心深く手でさぐる音と、ドアにあたる衣ずれの音を聞き分けた。だれかがドアの錠のすぐわきにそっと立って、外側で彼がしているのとそっくり同じように、息をこらして耳を澄まし、どうやら、やはりぴったりとドアに耳をつけているらしい……。

『罪と罰』岩波文庫 p.156

 ゾッとする描写だ。と同時に、何か一つの絵画のような、絵になる構図を感じる。似たような「絵になる」シーンがドストエフスキーには多い気がする。

 そしてなんやかんやで部屋の中に入った。質草にみせかけたシガレットケースをアリョーナ・イワ―ノヴナ(老婆)に渡しながら、部屋の見回す。

紐をほどこうと、明るい窓ぎわのほうに向きを変え(部屋の窓は、このむし暑いのに全部閉め切ってあった)、老婆は数秒のあいだ、彼に背を向け、まったく彼をほうり放しにした。

p.160

 ここで、「部屋の窓は、このむし暑いのに全部閉め切ってあった」とあることに注目したい。江川卓(訳者)の本に書いてあったが、これには象徴的な意味がこめられている(らしい)。詳しい話は忘れてしまったが、その通りだと思う。

 いま自力で考えてみるに、窓が閉め切られているということは、外界と隔絶された空間に二人はいるということを示しているように思う。いうなれば磁場が歪んでいる場所にいるという感じだ。あるいはまた、以前のシーンで「太陽が照らすだろう」と予測されていたにもかかわらず、その太陽が入ってこないということに意味があるだろう。太陽が天(≒神)を表すのだとしたら、その力の及ばないところにいる、とかも考えられそうだ。

 というわけで老婆がシガレットケースに集中している隙に、ラスコーリニコフは殺害を行う。

もう一瞬の猶予もならなかった。彼は斧をすっかり取り出し、なかば無意識のうちに両手でそれを振りかぶると、ほとんど力をこめず、ほとんど機械的に、頭をめがけて斧の峰をふりおろした。

p.160

 ひっぱったわりにはあっさりした描写だが、これにて殺害完了である。ここで注意したいのは、ラスコーリニコフは斧の峰を老婆の頭に当てている点だ。普通斧を使うときは、(その対象がなんであれ)刃の部分を使うはずだ。しかしそうはしなかった。

 斧の峰を打ち下ろしたということは、その瞬間、刃はラスコーリニコフ自身に向いているはずだ。よってここで暗示されているのは、この殺害の瞬間、ラスコーリニコフもまた「(斧の刃によって)割られて」しまったということではないだろうか(もちろん精神的に、ということだが)。

 つまり、ラスコーリニコフ自身も分裂してしまった、もしくは人間社会との本質的な絆が切られてしまった、そういうことを意味しているのではないか。

 そしてこのことは、「ラスコーリニコフ」という名前を考えるとき、より意味深なものとなる。ラスコーリニコフというロシア語を(むりやり)日本語訳すると、「割崎英雄」となるらしい(江川『謎解き罪と罰』参照)。つまり彼はその名前からして、「分裂」「断絶」がテーマの人物なのだ。この名前には、ロシア系キリスト教の一派の「分裂派」というのも関わっているらしいが、それはここでは置いておく。ただ、重要な話ではあるので、気になった人は調べてみてください(なげやり)。


 ラスコーリニコフは死体の老婆を漁る。

財布ははちきれそうにふくらんでいた。ラスコーリニコフは中身をあらためもせず財布をポケットにねじこみ、十字架は老婆の胸の上に投げ捨てた。

p.163
 

 あーあ、やっちゃった。十字架を投げ捨てたということは、神(あるいは超越的なもの、救い)との絆がなくなってしまったということだろう。『罪と罰』は、いかにしてこの失った「絆」を復活させるかという話でもあると思う。

 そうこうしていると、老婆の義理の妹のリザヴェータが入ってきた。死体を見られた。それでまた彼女のことも殺すことになる。

そのうえ、この哀れなリザヴェータは、斧を頭上にふりあげられているというのに、手をあげて自分の顔をかばうという、このさい、ごく自然な身振りさえしようとしなかった。

p.166

 リザヴェータは、少し知恵遅れのようなところがあり、子供っぽい人物だ。『白痴』のムイシキン公爵的な、聖人的存在なのだ。だから、こんな自分の命の瀬戸際になっても自分を守ろうとしない。本文にもあるように、少なくとも客観的にはとても哀れなキャラクターなのだ。彼女を殺したことで、ラスコーリニコフはもはや言い訳のできない立場に置かれたと言ってもいいだろう。

 ちなみに、このときは普通に斧の刃で頭をかち割っている。となるとやはり、イワーノヴナのときには斧の峰であったことがより意味をもつと考えられるだろう。

 ここまでのシーンで、ラスコーリニコフは、「もう何も判断できなかった」というような面と、それとは逆に「彼は冷静だった」というような面の両方が描写されている。まったく混乱して、自分の意志で行動しているようではないのに、一面ではとても冷静に殺人を遂行しようとしているのだ。

 じっさい、犯罪の現場では、こういうことが起こりうるのではないかと思う。自分が自分でないような、それでいて小さなことまで考えをめぐらせているような、一種のゾーンに近い(というと語弊がありそうだが)状態にあったのではないだろうか。犯罪心理学的には興味深いポイントだろう。

 なんやかんやで彼はなんとか自分の部屋に戻ることに成功する。

 

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