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銭湯映画を観ながら番頭(12月13日)

番頭をしながらある映画をみた。「わたしは光をにぎっている」。銭湯が舞台になっている。番頭しながら銭湯映画なんてこれほどまでに乙なことがあろうか。なんという贅沢。銭湯で働き始めてから銭湯がなんらかの形で関わってくる作品の数の多さに驚いた。次から次へと新しい作品が発表される。すべて把握できているわけではないのだが、この映画は「映画好き」と「銭湯好き」、僕なりにその両側面から見てとても好きな映画だった。

銭湯で働いてる僕はその地味なところも楽しいところも温かいところもある程度把握してきたつもりだ。この映画ではその一歳を誇張することなく描いていて、まるで自分の思い出を画面に映し出されているかのようなそんな不思議な時間だった。映画自体に派手さはなくセリフも少ない。そのため音楽が際立ち、シーン一つ一つの丁寧さに気づいたら自分もその街に吸い込まれてしまいそうになる。

閉店後、暗く静まり返り少し恐怖さえ感じる、あのだだっ広い空間をあまりにも持て余しながら入る1人風呂。ほぼ常連さんしか来ないような小さな銭湯でなされる会話劇。銭湯の上に畳の部屋、そこでの穏やかな暮らし。ちょっとした差し入れに心が温まり、帰り際の「ちょっと今日はぬるかったわよ」という余計な一言に一気に冷める心。そして銭湯を中心としたどこか懐かしげな下街の雰囲気。これぞ銭湯である。

実は僕がまだ銭湯を始める前、働ける銭湯を探していた頃に今回の映画の舞台にもなった「伸光湯」の店主さんと電話で一度だけ話したことがある。実はこの銭湯はもう再開発され今は残っていない。当時都内で働ける銭湯を闇雲に探していた僕は閉業してしまった銭湯をしらみ潰しに当たっていて、その時にたまたま話を聞いてもらった。この時に初めて映画の舞台になっていたことを知った。3年以上前の話なので何を話したのかは正直あまり覚えていないのだが、どこの銭湯も話を聞いてくれなったのに対して、初めて「伸光湯」の方が親身になって僕の話に耳を傾けてくれ、最後に「もし本当に銭湯をやることになった時は、なんでも相談してくれ」と優しく声をかけてくれたことを今でも覚えている。当時電話の話の中で、映画の銭湯での仕事シーンには厳しく口出ししていたなんて話もしていた。なぜかそれだけはうっすらと覚えていて今回映画をみて合点がいった。

銭湯には銭湯にしかない情緒がある。これは風呂という役割に匹敵する銭湯の価値だと思っている。ただ情緒で飯は食えないのでどうしても惜しまれながら閉店する銭湯が後を絶たない。僕の働く銭湯も小さな街の銭湯なので例外ではない。結果的に店をたたむ決断をすることになったかもしれないが、映画という形でその姿を残せた伸光湯はとても幸せだったのではないだろうか。そんなことを考えながら、あぁ自分は今1本の映画として成り立つような生活をしているのかと番頭の中で少しだけ背筋を伸ばした。


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