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『信仰』という私の名前

 やや今更かもしれないが、映画『沈黙‐サイレンス』を観た。マーティン・スコセッシ監督が25年の時をかけた、悲願の一作だ。

 原作は言わずと知れた遠藤周作さん。高校時代に図書館で借りて、意図せずそのまま失敬してしまったその一冊(本当に大変申し訳ございません……)は、背表紙が破れた当時のままに、今も手元にある。

 映画として「描かれた日本人像がステレオタイプなものでなく見事だった」とか「当時のキリシタン迫害は明らかな暴力だけれど時代背景を考えるとイエズス会の布教活動もまた暴力だった」等々、いろいろと考えさせてもらえる良い作品だった。中でも、信仰ということについて。


神様・仏様は「私を救ってくれるか」

 お正月の初詣、仏壇や神棚を拝む時、お盆のお墓参りにおいてなど、手を合わせて心に浮かぶのはどんなことだろうか。家内安全、商売繁盛、心願成就といったいわゆる「お願い事」をする人もいるだろう。日々の暮らしに「有難う、おかげ様」と感謝をする人もいるだろう。キリスト教だと、罪の許しを請うてお祈りをすることもあるのかもしれない。

 何だって良い。心の中は自由だ。人の数だけ心があって、心に描くことの是非を断じることは、誰にもできない。ただ一つ言えることは、神様にしても、仏様にしても、今目の前で起きている不合理や悲劇を解決してくれることはないということだ。足繁く神社に通っても病気が治らないことはある。同じように、今目の前で理不尽に迫害され、拷問され、殺される人がいたとしても、その命が不思議な力によって助かるというようなことは、祈っても願っても起こらない。

 もし人の思い描く通りに人を助けてくれる都合の良い神様がいたなら、例えば今頃、地球上の国境線は一つ残らず無くなっていることだろう。いるとすれば、それは生きた人間の心の中にだけだ。


認識できないものなら無い方がマシ

 そもそも、神様・仏様は存在するのか、という普遍的な問いがある。実際に会ったことがある人は、証明できないという意味でひとまず皆無だろう。「お寺に嫁いだ」私はお寺に住んでいるわけだが、だからといって仏様を知覚したことはない。もともと仏教には何の関係も無い暮らしをしていたのだから、手を合わせる機会が増えたことは確かだ。しかし、それがいわゆる信心によるものだと頭で考えたことはない。暮らしが変わったことで身についた新たな習慣、と言っても特に違和感はない。

 ところで私は、生まれつき足が悪い。そうするとどこから嗅ぎつけるのか、謎の新興宗教の人が家を訪ねてきて、「前世に深い罪業があって」とか「今罪を清めねば代々続く」などと、産後間もない母に言ったらしい。そんな話を聞いて育った私は、10歳を過ぎた頃、考えに考えて決めたことがある。私は何故生まれてきたのか。私が生まれると決めて生まれてきたのだ、と。生まれてくる家も、姿かたちも、何もかも、私の意志によって選んだものだ、ということにした。その時「生涯宗教には頼まない」ということも決めた。自分の力で、自分の意志で、自分の責任で生きていることにして、それからの数年間は、ただひたすら「強くなりたい」「強くなるのだ」と念じて過ごしていた。しかし、強さとは一体何かを考えることは、特になかった。

 とにかく、受け入れ難く自分の力ではどうしようもないことを、自分で選んだことにしたかった。そうすれば、辛いと感じる気持ちを打倒できるような気がしていた。だから同時に、正体不明の神仏その他に逃げたり、それらのせいにして諦めたりしない、という誓いも必要だった。望まない自分の身体を理不尽に感じていて、神仏が作ったというなら、試練か何か、わけのわからないことをするのはやめて、みんなと同じにして欲しかった。それが叶わないので人生から排除することにして、そこから先を考えるのはやめたのだった。


『現世利益』を離れたところに

 そんな私がそれから約20年後、お寺に嫁いで仏教の勉強をすることになるのだから、人生は不思議である(大人になるってスゴイ!)。今の私が、神仏は存在するかと問われれば、答えは当然「わからない」。ただ、「認識できないものは存在しない」というのは、楽で簡単な結論だと言うことはできる。事実として、発見しなくてもあらゆる科学の法則や、未だ名もない生物が存在することを疑う人は、今日ではいないだろう。胎児の記憶を呼び覚ますことができなくても胎児でなかった人はいない。子供だった私が、自分の弱さを認識しないまま、ただただ強くなりたいと思っていたことも同様だ。

 現世利益(げんせりやく)という言葉がある。検索すると、一つにはこのように解説されている。

仏教用語。経を読み、真言を称え、念仏することなどによってもたらされる、この世で受ける仏、菩薩などの恵み。この恵みを受けるために祈るのを現世祈祷といい、密教では種々の修法を行う。浄土教では、ことさらに祈ることを雑修とする。浄土真宗では現世利益を目指すことを否定し、信心が決定 (けつじょう) すれば、それによって現世利益はおのずから授かるものであるとする。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 仮に、人ではない神仏が人を救うために存在するとする。その時「命を助けてほしい」「金持ちにしてほしい」「結婚したい」「殺したい」などといった人の望みは、本人にとっては切実であっても、神仏からすると全て一様にその人を現す記号とか、模様とか、何かそのようなものなのではないだろうか。人の心が時として美しかったり、尊かったり、そういったことと同じような重さで。そして、人は儚いと嘆き、救ってやらねば、となる。この場合の「救う」とは一体何か。一つ一つの欲望を成就させることなどではあり得ない。神仏は「人ではない」のだ。あるとすれば「共に喜び、悲しみ、常に共にある」ということと、そこからの「後生の一大事の解決(=死後も共にあるから怖れなくてよい)」というようなことではないだろうか。

 そうすると、これはとてつもなく個人的なことだ。私の名前が何であるかということと同じくらい、ただ、私だけにしか関係の無い、私自身のことであるように思われる。死ぬことへの恐怖や、日々満たされないことへの不満など、私の心に起こる問題を何一つ解決してくれない。そのことが却って神仏と私の関係がどういうものであるかを明らかにしている。つまり、神仏を通して私に私の姿が知らされると同時に、(死んだ後だって)大丈夫だからありのままの私を私が引き受けよう、とどこか楽観的な心持がふわっと纏わりついてくる。ここには、私以外の誰にも一切関係の無い、超個人的なやりとりが発生しているのだ。

 「多くの信徒が無残に処刑されているのに、なぜ神は救うことなくただ沈黙しているのか」を人が問う時、その心そのものがあらゆるネガティブな感情を生んでいるだけなく、処刑する側を都合よく断罪しているということを忘れてはいけない。神仏がいるとかいないとか、信仰があるとかないとか、救われるかどうかとか、全部その人だけの、その人自身のことなのだ。信仰について「私」を離れて語り始めた瞬間に、神仏の姿は「私」の巨大な影に隠れて、見えなくなってしまうことだろう。

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