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『アリスのための即興曲』Vol.32 僕はうまく踊れない

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.31 アリスの日記 忘却の国のアリス


本編 Vol.32 僕はうまく踊れない


 森田のグラスはとっくに空になっていた。いつもの彼なら、僕にも何か追加するか確認してから颯爽と手を挙げてバーテンダーを呼ぶだろう。しかし今日の彼はそんなことはどうでもいいみたいだった。目や鼻の頭は真っ赤で、躰からは酒と涙の匂いが蒸気のように漂っていた。森田もやはり、酔うとこのようになるのだと僕は思った。当たり前のことだが、彼だって空から舞い降りてきた天使というわけではない。彼もまた、地球の重力に縛り付けられたひとりの人間なのだ。そしてその重力は容赦なく彼にのしかかり、骨や筋肉を押しつぶそうとしているみたいだった。僕はひしゃげたブリキの人形のようになった森田を見つめながら、彼が話し出すのを辛抱強く待った。




 そのとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。僕は身を固くした。もしかしたらアリスかもしれない。森田は顔を上げて僕の方を見た。僕は相手先の番号も確認せず、夢中で通話ボタンを押した。

「…もしもし」
「もしもし、Y***総合病院と申します。こちら坂本理生りおさんの携帯電話でお間違えないでしょうか」

聞いたことのない女の声だった。それはすべての感情を徹底的に排除した、とても事務的な声だった。僕はその電話の意図がよくわからなかった。けれど特に否定する理由もないので、そうだと答えた。

「夜分に申し訳ありません。患者様の、つまり坂本時子様のカルテにお電話番号があったものですから」

女はあいかわらず抑揚のない声で続けた。坂本時子という名が、見知らぬ誰かの名前みたいにのっぺりと聞こえた。それは僕の知っている祖母とはまったく関係のない、任意に選ばれた匿名の人物みたいだった。

「もし可能でしたら、今から当院にお越しいただけますか。担当医がお話ししたいことがあると申しております」

小学校の教室で生徒を呼び集める教師のような調子で女は言った。それは提案というよりほとんど命令に近かった。

「わかりました。すぐに伺います。場所を教えていただけますか?」

僕は携帯電話を片方の手で押さえ、もう片方の手でテーブルの上の紙ナプキンを手繰り寄せた。森田がペンを差し出してくれた。住所を書きつけ、電話を切った。時刻は夜の10時半を回ろうとしていた。



「森田さん、すみません。祖母に何かあったみたいなんです。今からY***総合病院に行ってきます」

森田は静かに頷いた。僕が電話している間に、彼はいくらかいつもの森田らしい様子を取り戻していた。

「Y***総合病院なら、タクシーで飛ばせば10分ほどで着くはずだ。今からタクシーを手配するよ」
「ありがとうございます」

彼はスーツのポケットから携帯電話を取り出し、アプリケーションでタクシー会社に連絡してくれた。動作は迅速で的確だった。指も震えていなかった。この短時間で素早く頭を切り替えることが出来るとは大したものだと、僕は変なところで感心した。




 5分も経たないうちに、店の前にタクシーが現れた。店の会計を済ませている間、タクシーはよく躾けられた黒豹みたいに僕を待っていた。

「森田さん、アリスさんのことで何かわかったら、必ず連絡します」僕は言った。
「今はそんなこと考えなくていいから、早くおばあさんのところに行っておいで」

森田は僕を車内に押し込むように背を押し、運転手に行先を告げた。車は夜の闇にそっと滑り込んでいった。僕は振り返って後ろを見た。店の前にはやはり森田が立っていた。キャメルのコートが街灯に反射して闇の中に浮かび上がっていた。それは遠くから見るといかにもあたたかそうな色だった。ささやかなスポットライトを浴びている舞台役者みたいに、彼の姿は善良そうに輝いて見えた。




 タクシーの中は恐ろしく静かで、時折カーブを切る際のちかちかという合図の音以外、何も聞こえなかった。街はイルミネーションに包まれていた。僕は窓の外を見ていた。街路樹は真珠色のひかりで彩られ、プラスティックのクリスマスツリーが聳え立っている。人々は夢の中の登場人物みたいに晴れやかな顔をして窓の外をゆっくりと通り過ぎていく。ワルツでも踊るみたいに、優美に。そこには幸せな人々しか存在することが許されないみたいだった。暗い影を背負った人間はこの街に似つかわしくない。おそらく下手くそなエキストラのように排除されてしまうのだろう。僕はこの街でうまく踊れない。兎穴から毛むくじゃらの手が伸びてきて、僕の足を捕まえてしまうからだ。おそらくこれからもそうだろう。今晩は色々なことが起こると僕は思った。



 20分後、僕はY***総合病院の夜間特別診察室と呼ばれる場所にいた。他の病室はすでに消灯時間を迎えているようで、病棟全体が真っ暗だった。夜間特別診察室は、この世の終わりからそんなに遠くなさそうな場所にぽつんと設えられていた。蛍光灯のひかりさえもどことなく遠慮がちに部屋を照らしているように見えた。暖房はとっくに消されているらしく、室内は冷え冷えとしていた。足元に置かれている小型のヒーターが、寒々しい熱を放っていた。


 僕は担当医と向かい合って座っていた。担当医は小柄な中年の男性だった。髪の毛は黒く、ポマードで撫でつけられており、額がてらてらとひかっている。黒いビーズのような小さな瞳と、申し訳程度にちょこんと乗っかっている鼻、それから少し出っ張り気味の歯のせいで、医者というより何かのまちがいで村里に下りてきたりすのように見えた。薬の匂いの染みついた白衣だけが、彼の医者としての権威をつつましやかに申し立てていた。


「どうも、夜分にお呼び立てして申し訳ありません」と医者は言った。
僕は黙って頭を下げた。
「普通はね、検査を受けていただいてから結果をお知らせするのに一週間か二週間くらいお時間をいただくんです。でも、今回、坂本さんのケースは早急な判断を要するものでして」
医者は言い訳みたいに小さな声で言った。僕は頷いた。

「まずはこちらをご覧いただきましょう」

医者は壁際のモニターに向き直った。医者がライトを点けると、そこに胸部を写したレントゲン写真が現れた。心臓や肺や肋骨などがそこに映っているのだろうということは、素人の僕にもなんとなくわかった。けれどそれは放課後の理科室に置いてある人体模型と同じくらい、非個性的に見えた。これが祖母の躰の一部だとはどうしても思えなかった。

「ここにね、影があるのがわかりますか?」

医者は白衣の胸ポケットから指示棒を取り出し、右側の肺の上部を指した。言われて見ると、確かにそこには大きな蝶のような格好の染みが見えた。僕は黙って頷いた。何か良からぬことが起こっているのだろうということは想像がついたが、その影が何を意味するのかさっぱりわからなかった。
彼は医学生に説明するみたいに淡々と言った。

「悪性腫瘍、つまり癌です。『腺癌せんがん』と呼ばれるタイプのもので、肺の中のリンパ節に転移しています」

医者の声はあくまで静かだった。芝居がかったところはひとつもなかった。そのせいか、僕はその「ガン」という音を、自分の脳内に記憶されている「癌」という言葉と結びつけることが出来なかった。この人は一体何を言っているんだろう。



 天井の蛍光灯がうすっぺらいひかりを室内に投げかけていた。それでも室内は黄泉よみの国の入口みたいに暗かった。目の前の男の輪郭が闇の中でゆがんで見えた。足元に置かれたヒーターの人工的な赤さが、まぶたの裏でちかちか踊っていた。すべては趣味の悪い冗談みたいに見えた。まるで僕の知っている世界から突然放り出され、急速に拵え上げられた舞台セットの中に連れてこられたみたいだった。そこで僕は「病室」というタイトルの悲劇を演じている。いや、あるいは喜劇かもしれない。いずれにせよ、何かの言葉を発しなければいけない。けれど喉元を締め付けられているみたいに、言葉が出てこない。


「驚かれるのも無理はありません。ご家族の方が肺癌を患っていると聞いて、はいそうですかと受け入れられる方なんていませんから」

医者はその場を取りなすように言った。彼の額には一本の皺が深く刻まれていた。ひとの好さそうな瞳には同情の色が浮かんでいた。僕はしばらく無言で医者の顔を見ていた。それから、どうやらついに来るべきものが来たらしいという実感が、じわじわと腹の底の方から湧いてきた。それは黒い雲のように腹から胸にせりあがってきて喉元を締め付けた。鋭い氷柱を飲み込んだみたいに、喉が痛い。僕は耐えきれずに言った。

「でも、どうしてですか?祖母は煙草を吸いませんし、もちろん酒も飲まない。早寝早起きで、食生活にも気を使っているし、病気になるような原因が思い当たらないんです。確かに最近、妙な咳をするようになったとは思っていましたが…」
「『肺癌』と聞くと、みなさん喫煙と結びつけて考えられるようですが」
医者は小さな溜息とともに吐き出すように言った。
「この『腺癌』に関しては、色々な要素が混ざりあって起こるものなのです。煙草を吸わない方であっても、環境汚染や、遺伝的要因、ホルモンバランス、そしてもちろんご年齢などを考慮しなければなりません。坂本時子さんは、確か御年おんとし80歳でいらっしゃいますよね」
「はい、そうです」
医者は何度か頷いた。そして壁際のレントゲン写真に目線を移した。彼はそこに写っている祖母の肺に話しかけるように言った。

「微妙な段階なのです。今はまだリンパ節にのみ転移が見られる状態ですが、放っておくと心臓や血管、気管などにも転移する可能性があります。そうなると厄介です。今なら手術という可能性はありますが…」
それから医者は椅子をぐるりと回して僕の方に向き直った。膝の上に手を置き、唇を固く結んでいる。これから冬に備えて大事な蓄えを開始するりすみたいに、瞳には真剣なひかりが宿っていた。

「今回、坂本さんをお呼びしたのは、おばあさまの手術を望まれるかどうか伺うためです。もちろん、手術が成功すれば言うことはありません。万々歳です。しかしこのご年齢になると、手術に耐えうる体力があるかどうか…。正直、ご本人次第ということになります。それに手術を受けても、他の部位に転移する可能性がまったくないとは言い切れません。そのことを踏まえて、ご判断いただきたいのです」
医者は神妙な面持ちで僕を見つめていた。空調のかすかなうなりが聞こえるくらい、室内は静かだった。その静けさは目に見えない重力のように僕の全身にのしかかってきた。気が付くと僕は首を縦に振っていた。他にどうすればよかったと言うのだろう。

 医者は心なしか少しほっとしたように見えた。それから僕に手術同意の書類や、入院にあたって必要なものなどを記した紙を渡した。それらの紙は、おもちゃの国に入国するために子どもたちがでっちあげた、かりそめの約束事みたいに見えた。僕は書類に一通り目を通し、鞄にしまった。僕は体内に残存しているわずかなエネルギーを振り絞って医者に頭を下げ、病院を去った。



 病院の外に出ると、風が厳しく吹き付けてきた。それは街の吹き溜まりに寄せられてくる激しい怒りのような風だった。空は大きな刷毛で墨を塗ったように真っ暗だった。月も星もどこかに姿を消してしまったようだった。僕はその日、間違いなく世界で一番不幸で愚かな男だった。兎穴は強烈な磁力のように、僕の足元から徐々に勢力範囲を広げていき、アリスを、森田を、そして祖母までも飲み込もうとしていた。そこから逃れられる人間はどうやらいないようだった。


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