見出し画像

『アリスのための即興曲』Vol.31 アリスの日記 忘却の国のアリス

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらから。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.30 仮面のない男


本編 Vol.31 アリスの日記 忘却の国のアリス


ひどい気分。
今、ベッドの中でぐずぐずとこの日記を書いている。
こうしてペンを取ろうと思えたことさえ奇跡みたい。


まだ生きている。
なんだか不思議な気分だわ。
ぶ厚いカーテンをぴったり閉めているのに、あたたかいひかりの気配を窓辺に感じる。
ひかりを見ると涙が出てくるから、私は窓に背を向けて座っている。
もう生きていたくないと思っても、神様はいつも明日を与えてくださる。
それは赦しなのか、罰なのか、私にはわからない。


私は一週間前から都内のSホテルに泊っている。
クレジットカードと、ほんの少しの現金、家の鍵(念のため)、それに着替えとこの日記帳を持って。
携帯電話も鞄に突っ込んできたけど、電源は切ってある。
お金はいつ底を尽きるかわからない。でも出来るだけ長く、家から離れた場所にいたい。

私はあまり外出をせず、ホテルのルームサービスで食事を済ます。
正直に言うとホテルマンと話すことさえ億劫だ。
かといってまるきり日本語を使わないというわけにはいかない。
ひとと話すと疲れてしまうので、私はできるだけ部屋にいて、こうして母国語で日記を書いている。

午前中は階下のプールで長い時間泳ぎ、午後はくたびれきって眠る。
時にはそのまま夜を迎えてしまう。
十六時間くらい眠ることだってある。
眠っているあいだは何も考えない。
ただ、頭のてっぺんから爪先まで優しい闇に包まれている。


死にもっとも近い体験は眠りだと、ひとは言う。
そうかもしれない。
けれど私はそこに「忘却」を加えたいと思う。



少女のころから、よく記憶をなくすことがあった。
さっき起きたばかりだと思ったのにいつのまにか夕方になっていたりとか、
月曜日の次の日が木曜日だったなんて、しょっちゅうだった。
両親は心配して私を色々な病院に連れて行ったけれど、どこの病院でも脳波に異常なしと言われた。
心配しないで、たいしたことじゃない。べつに生活するのに困るわけじゃないしと何度も言ったけれど、両親はため息をつくばかりだった。
幼なじみのリディアは私のことを「小さなわすれんぼさん」と呼んだっけ。



でも、ここしばらくはこの記憶障害の問題を感じていなかった。
あれはきっと子どもの成長期にありがちな一過性のもので、私はもう治ったんだと思っていた。
(少なくとも私はそのように感じていた。)
けれど今年の10月はじめにフランスに帰国したとき、またそれが始まったのだった。


あの日のことは、夢の中の出来事みたいにおぼろげにしか思い出せない。
思い出そうとすると頭の中に靄がかかったようになる。
でもなぜかわからないけれど、思い出さなくちゃいけないという気がする。



あの日、私はお気に入りのカフェバーでピニャ・コラーダを飲んでいた。
10月にしては例外的な暑さで、空はどこまでも青く、太陽は陽気に輝いていた。
とても素敵な気分だった。
するとある男性に話しかけられた。
彼はF***と名乗った。
引き締まった筋肉質の躰はよく日焼けしていて、
笑うとわざとらしいくらいに白い歯が肉厚の唇から覗いた。
30代の前半というところかしら。タカユキより少し若そうに見えた。

彼は私を食事に誘った。
そのあとお酒を飲んで、彼の部屋に行った。
大昔からあるお決まりのパターンで、特に洒落た手口というわけじゃない。
F***という男が特別気に入ったわけでもない。
でも、結局私は彼と寝たのだった。

これだけははっきり言えるけれど、5年間の結婚生活でタカユキを裏切ったことは一度もなかった。
彼がどんなに私に辛く当たっても、身に覚えのない言いがかりをつけられても、彼のせいで友人を失っても、私はぐっとこらえた。
それはどうしてだったんだろう。
―居場所を失うのが怖かったから?
―フランスに帰りたくなかったから?
―タカユキを愛していたから?
おそらくそのすべてで、そしていずれでもない。

けれどその日、何かがはじけた。
日本から遠く離れた母国で、とても開放的な気分になっていて、
初秋の陽射しには過ぎ去ってゆく夏の名残があった。
私は若くて躰のすみずみにエネルギーが満ちていたし、
男から見てまあまあ魅力的な容姿も持ち合わせていた(と思う)。
このまま日本にいたらきっと誰も私に優しい言葉をかけてくれないだろうと思った。
そうして冷蔵庫の隅でひからびていく人参みたいに、みっともなく老いていく。
私は、何かとても大切なものを失ってしまったような気がしていた。
タカユキさえいなければ。
結婚さえしなければ、私はまだ自由でいられたのに。


だからその日F***が声をかけてきたとき、
どうしても彼と寝なくてはいけないと感じたのだ。
神様がよこしてくれた天国への最終列車みたいに、
これを逃したらもうおしまいだという気がした。

お酒の勢いもあったのだろう、どうにでもなれと思った。
F***と私は時間をかけてたっぷり楽しむつもりでいた。
「私は人妻なの」と言うと、男はすごく興奮した。
「悪い女だ」と彼は言って笑った。
それは野鼠のねずみみたいな下卑た笑いだった。
彼はゆっくりと私のワンピースを脱がした― そして、そこから先の記憶がない。
思い出そうとすると頭がくらくらする。



それから、次の記憶は日本へと繋がっている。
私はあの家にいて、夕飯の支度をしている。
サカモトさんがいて、「何か手伝おうか」とはにかみながら言う。
私は微笑む。可愛い、ほんとに可愛いひと。

それからしばらくしてタカユキが帰ってくる。
「君は先日坂本くんにずいぶんとご迷惑をおかけしたみたいだから、今日は失礼のないように」と言う。
サカモトさんにわからないようにフランス語で。
けれど私には何のことかわからない。
でもとりあえず「ごめんなさい」と言う。
これは魔法の呪文みたいな言葉だ。「ごめんなさい」と言われて怒るひとなんていない。

その晩、サカモトさんが帰ってお皿洗いをしていると、タカユキが言った。
「ねえ、アリス。お酒は躰によくないから、ほどほどにしないと」
「あら、サカモトさんだって楽しんでくれたみたいだし、よかったじゃないの」と私は言い返した。
彼はすこし困ったような顔をして微笑み、「今日はもう寝るよ」と言った。

タカユキが寝室に行ってしまってからも、胸の中がもやもしてなんだか落ち着かなかった。
どうして彼はそんなことばかり言うんだろう。
あれをしろ、これをするな、って、命令ばかり。
フランスで得たみずみずしい歓びが、汚れた手で握りつぶされていくような気がした。


それからは何もない日々が続いた。
冬の雨みたいに静かな日々だ。
タカユキはあいかわらず仕事で忙しそうにしていて、
私はサカモトさんとのフランス語レッスンを続けた。
彼はめきめき上達していって、ちょっとした会話のラリーが続くようになっていた。
彼も私も、その会話を楽しんだ。
慎ましく手紙のやりとりをする19世紀の恋人同士みたいに。

けれどある日、タカユキとサカモトさんが親しくしていることを知って、
私は胸が張り裂けそうになった。
それに私の恐れを裏書するように、サカモトさんはレッスンに現れなくなった。
彼は「就職活動で忙しいのでしばらく来られない」とメールを送ってくれたけれど、
本当はそうじゃないって私にはわかっていた。

―タカユキは、私からすべてを奪おうとしている。

そう思うと、お腹の底が火のように熱くなった。
このままにさせるものかと思った。
私はなんとしてでもサカモトさんを取り戻してみせると心に誓った。
それは彼のためというより、自分のためだった。
タカユキに屈しない、強い女になりたかった。
F***と寝たことが、私に新たな勇気を与えてくれたのかもしれない。

私はサカモトさんにすべてを打ち明けた。
なぜかわからないけれど、彼はきっと私のことを信じてくれるだろうという気がした。
けれどサカモトさんが望んでいたのは、私が望んでいたのとは違うかたちの関係だった。


私は愛というものがなぜふたりの男女の間で行わなければいけないのか、
よくわからない。
少女のころからずっとわからなかったし、これからもたぶんわからないままだろう。
イエス・キリストはすべての民を分け隔てなく平等に愛してくださるのに、
なぜ人間は愛をせまい鳥籠に閉じ込めたがるのかしら。

サカモトさんだって結局はそうだ。
扉の向こうから風のようにかろやかにやってくる愛じゃ、
がまんできないのね。
ぴったりと閉じられた、むせぶような空間の中で
私の躰を心ゆくまで貪りたいのだろう。
私はもっとひろい愛を望んでいるのに。
空を駆け抜ける鳥のようにおおらかな気持ちで、
タカユキを、そしてサカモトさんを愛したいのに。
けれど荒々しい手が羽をもぐように、男のひとはみんな私を独占したがる。
どうしてなの?

ああ、書くのにも体力を使うって、知らなかったわ。
なんだか疲れてしまった。
今日はここでおしまい。


この記事がいいなと思っていただけたら、サポートをお願い致します。 いただいたサポート費はクリエーターとしての活動費に使わせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!