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落ち葉拾い

ここのところ更新をサボっておりました。すみません。

私は不器用な性格なので、ひとつのことに集中すると、他のことができなくなるタイプだ。
最近、何をしているかというと、vlog 制作である。
せっかくフランスにいるのだから、ここにしかない、今しか映せない風景があるのではないかと思ったのだ。
おまけに大学も仕事も辞めてしまったので、時間はたっぷりある。
パリやリヨンのような大きな都市とは言えないけれど、この小さな街にも
それなりの良さがあるのではないかと、毎日カメラ片手にきょろきょろと
街を散策している(挙動不審…(笑))

すみません、ちゃっかり宣伝です。↓
Vlog 6 Foire de Tarare 見本市
https://youtu.be/3o6beoLrvEg

それはいいと思う。
が、最近、何をするにも「次のVlogのネタになるかどうか」を考え始めるようになってしまった。
街を歩いていたら歩道に止まっている車が気になり(「ああ、こんなところに車さえなければここの景色はきれいなのに」とか)、
料理をしていればしていたで、「オシャレでインスタ映えするようなきれいな画像を残さなきゃ!」となり、
やっとのことでVlogを出せば、視聴者からの反応が少ないとガッカリする。
考えてみればおかしな話だ。
自分の生活は誰かに見せるためのものではないのに、
なにがなんでも「美しくてオシャレな生活をしている自分」を
見せたがる兆候というのは、現代病というのかもしれない。

現代は、「秒速で成果を出せ!」という時代であると思う。モノを創るということには、本来時間も手間も心のエネルギーもうんと使うものだと思うのだが、今の時代は「SNSでバズって一夜で有名に!」などということが可能だと錯覚させられる風潮があると思う。(まあ、そういう人ももちろんいるだろうけれど)


自分が何かを求めて焦っているな、と気づくと、
私は子ども時代のエピソードを思い出すようにしている。
ちょうど今頃の季節だったと思うが、小学一年生のころ、担任の先生の提案で落ち葉拾いをしようということになった。
今から思えば身の回りをきれいにする習慣をつけさせようとする教育方針だったのだろう。詳細は忘れてしまったが、「一番早く落ち葉をたくさん集められた人が勝ち」だかなんだか、そのようなルールが定められたように記憶している。
もちろん、小学一年生の子どもたちは張り切るわけである。
私は仲良しの友人とペアを組んで、早速そのゲームを始めた。
特に友人はとても張り切っていて、小さなかごいっぱいにあふれんばかりの
落ち葉を詰め込んで、何度も何度も先生に見せに行った。
担任の先生はとても優しいひとだったので、「すごいね」とそのたびに褒めてくれた。
友人は次第に興奮してきて、「ほら、もっと早く、もっとたくさん落ち葉を集めないと、他の子たちに先を越されちゃうよ!」と私を急き立てる。
私は何か言葉にできない違和感を感じながらも彼女に従った。
彼女は走って担任教師のもとに駆け寄るものだから、かごからは落ち葉が
こぼれ落ちていく。
校庭はきれいになるどころか、ますます落ち葉が舞い散る有様である。
それでも彼女は走り続けた。
落ち葉拾い競争で一等になることが、宇宙で一番大切なことであると信じているかのように。

今から思えば子どもらしい、可愛いエピソードだと思うのだが、
大人になった自分にもそのような心が、やっぱりまだどこかに残っている。
誰だって人に認めてもらいたいし、共感してほしいし、褒めてほしいと
心のどこかでは思っているのではないだろうか。

そんなものを超えて、まっすぐに目の前のことだけに向かうというのは、
かんたんなようでいて案外難しいものだと思う。
けれどモノづくりに真摯に向き合っているひとの作品を観ると、
はっとする。
丁寧につくりあげられたものには、何とも言えない味がある。
磨き上げられた星は、闇を抜けて光を放つ。
それは100円ショップで買えるLEDの電球とは異なるものだ。

私はプロの映像作家ではないし、職業作家でもない。
けれど「誰かに見てもらいたい」という心からは、
決していい作品は生まれないだろうということはわかる。
がさつな心と闘いながら、誰かに観てもらえなくても、
まず、自分がいいと思えるものを創ろうと思っている。

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