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「表現の循環」 嶋田康平(ココルーム理事)

人が足りない。少し前から、ココルームの悩み事の一つとなっている。じゃあ募集文をつくってみましょうといって、文案をつくり代表のかなよさんに渡した。こうしたらもっと良くなる、と多くの人が丁寧に筆を入れてくれ、ネット上で公開された。
だがしかし、応募はあまりなかった。まあ、そりゃそうよね。けっこうなスーパー人材を求めつつ、売上げは生み出してねというスパルタ感。欲張りすぎたかもしれない。でも、そんな人材募集から「呱々の声→人」というプロジェクトにつながったのであれば、それはそれでいいのかとも思う。
「呱々の声」と聞いたときは、なんのことやらわからなかった。かなよさんやテンギョーさんがメールで丁寧に説明してくれた。テンギョーさんは「人材募集アートプロジェクト」と言っていた。みんながつくった人材募集のための表現=呱々の声を読みながらココルームを考えよう、ということらしかった。そして、ココルームラジオでみんながつくった募集文を読み上げるからそこにコメントして欲しいという依頼をもらった。なんだか楽しそうなので、ともかくラジオ収録に参加してみることにした。
そこで目撃したのは「表現の循環」だった。

呱々の声の「幅」
お父さんとお母さんに宛てた声。生きることに向き合った声。選択肢とチャート図でできた声。強い思いが顕れた声。少し悲しい声。楽しい歌になった声。逡巡している声。
さまざまな表現が次々に立ち現れてくる。偶然ココルームに来た人も、毎日ココルームで働いている人も、その場にいる人それぞれが表現した。それぞれにココルームを考えながら呱々の声を出した。だから、こんなことになったのだろう。
呱々の声の「幅」は、聞いているぼくを少しずつ揺さぶった。短編の映画を見ているような気分。DJのテンギョーさんがいくつかの声を読み上げられるうちにすっかりのめり込んでいた。
不思議なことに、呱々の声を聞いていると、声の持ち主のことを考えてしまう。声の持ち主は、自分が見たもの、聞いたものに呼応して声をあげている。呱々の声に「幅」があるのは、持ち主たちのココルームの体験の仕方がさまざまであるからだろう。それは立場が違うとか年齢が違うという話だけではない。持ち主がこれまでどのように生を体験してきたのか、それが持ち主のココルームの見え方や聞こえ方を形づくり、その人が何を大事にしているのか(大事にしていないのか)が声になって引き出されている。

呱々の声の「共鳴」
一つの声は一つの声でしかないが、こうしていくつかの声を集めて聞くと、声と声のつながりや持ち主たちの体験が鮮明になってくる。そして、面白いことに、聞き手だったぼくたち(理事の社納さん、吉田さん、ぼく)も、いつの間にか、語りだす。「遊ぶ」と「働く」の違いについて、ココルームの抱える葛藤について、ココルームで働く人が表現する重要性について。この声の持ち主はこんなふうに感じているのではないか、この声の持ち主はこんなことを大事にしているのではないか。呱々の声に「共鳴」するように立ち上がるぼくたちの声は、新たな呱々の声となり、ココルームや声の持ち主たちに還っていく。最初の呱々の声の持ち主たちには、ぜひラジオを聞いてぼくたちの声にも耳を傾けてほしい。ぼくたちの上げた声が、次の呱々の声につながるかもしれないから。

呱々の声の持ち主となって
 不思議なのだが、呱々の声の聞き手であったぼくたちも、自分たちの見たもの、聞いたものを土台にして声を上げるのである。たとえば、ぼくは、人材募集プロジェクトのことなんてすっかり忘れて、声の持ち主について考えることに心を奪われてしまう。この人はどんな気持ちで声を上げたのだろうか、この人はどんなふうに生きているのだろうかと考えてしまう。それは、ぼくが、表現する人が何を大切にしているかが大事だと考えているからだろう。他の理事は、この表現は自分の思っているココルームと違う、というようなことを言う。これは良い表現、これはイマイチな表現というような評価が出てくる時もあった。いつしか、ぼくたちは、自分の中にある「かくあるべし」のようなものの存在に気づかされる。
 ラジオの中で、ぼくは「普通の社会では、わからないことをわからないって言いづらい」という発言をした。すると、かなよさんが「そうなの?」と。ぼくの中では、自分は普通の社会で働いていて、ココルームは少し変わった場所、という意識がどこかにあるのだろう。それは、ぼくが生きる中で、ココルームをどのように体験しているかということを映し出しているとも言える。ちなみに、少し変わった場所は、褒め言葉である。

表現の循環
 呱々の声を聞いたぼくたちは、ココルームや声の持ち主に向けて、新たな呱々の声をあげて応答していた。そして、声を上げる中で自分の中の大事にしているものが鮮明になっていく気がした。呱々の声に呼び起こされた。そんな感覚だ。この一連の双方向的で、循環的なやりとりが、呱々の声から導き出された「表現の循環」である。
 表現が次の表現へとむすばれていく。ココルーム理事の一人である西川さんが『孤独に応答する孤独』の中で書かれた「流れとしての共同性」に近いかもしれない。川の流れと水車が出会うことで、川の流れは止まることなく、水車も流れを送り出し回り続ける。ココルームで立ち上がる表現には、そんな流れが感じられる。ただ、それはそんな簡単に起こるものではない。まず、多様な人が一緒にいる場があること。一緒にいるだけでなく、思いのままに表現できる安心が確保されていること。そして、それらの声に向き合い応答する丁寧さがあること。ココルームは、これらを積み重ねて静かに守り抜いてきた。だから、呱々の声が生まれ、表現の循環という摩訶不思議が起こっているのだと思う。

現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています