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「お節介をしない レディネス」 臨床心理士への随録 心理学

大学院では、20代の学友たちと一緒に学んでいるのですが、彼らの若さゆえの未熟さ、例えば独りよがりな思考や敬意を欠いた行動、孤独に耐えない自我の弱さなどに目がいく瞬間があります。老婆心からひとこと進言したくなるのですが、直接的な介入はしていません。私は「レディネス」の存在を信じています。

ヒトの発達について、20世紀アメリカで誕生した行動主義では「ヒトのあらゆる発達は適切な環境からの条件付けによって成立する」と考えます。果たしてそうか?と異を唱えたのが心理学者ゲゼルです。彼は心身の成熟によって成立する学習が可能になるための学習準備状態を「レディネス」とよび、レディネスの整っていない学習は効果をもたない、と主張しました(成熟優位説)。

旧ソビエトの心理学者ヴィゴツキーは、子どもがある事柄を解決しようとする際、自力では達成できないが、大人の援助や協力を得ることで達成可能な発達領域があると提唱しました(発達の最近接領域)。そしてこの領域の発達を促進することが、教育の役目であると考えました。レディネスの成立を待つのではなく、教育によって発達の方向性を積極的に示す、つまり子どもの潜在的な発達の可能性を大人との相互交渉を通じて広げることを標榜したのです。

ゲゼルもヴィゴツキーも「その時」の存在と重要性を唱えています。

少し逸れますが、「氏か育ちか」といった話題に関連する他の学説では、ジュンセンが示した環境閾値説があり、遺伝が全てでも環境が全てでもなく、遺伝的な素質が環境の影響を受けて発現するとしています。発達は遺伝と環境の相互作用によって規定される、という考え方は妥当に思われます。

気がつく人は学生時代に気がつくし、社会人になっても気がつかない人もいる。

ある教授は精神障害の定義を「精神症状のために本人または周囲の人が悩む状態」とおっしゃいました。私は、若い学友の言動が少しばかり気になったとしても、本人や周囲が決定的に悩んでいなければ、押し付けがましい教示はしないと決めました。過去の経験から言っても、自分で気がつくのが最良の学び方で、その時でない状態に他者からいくら言われても身につかない、と思っているのです。