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ニュートンとゲーテ「性格」と「強み」㉒(2393文字)

マガジン『ひびき』「こころさと」は、こころをどう捉えるか、水面に映る空の色と水の色のような、心に映る感情の故郷を探ります。

キャラクターストレングス(CS)を
構成する下位項目(つづき)


今回は、「知恵」ー「人間性」のラインを見ていこう。

「知恵」ー「人間性」のライン

「知恵」は「悲哀」、「人間性」は「憤怒」、この「悲哀」ー「憤怒」の間にどのようなことわりがあるのか。

① 人間性と「憤怒」

人間性「憤怒」から生まれるとは、一般的な観念とはかなりかけ離れていると感じるだろうか。人間をまったき「霊」としたとき、そのけたたぐいまれなる生き物がわれわれ「霊長類」とするならば、それは授かった「命」を、自らの責任を持って全うすべき存在とも言えるだろう。

これらの命題は、自らに与える「命令」に似ている。責任という感覚が自覚としてあるならば尚のこと、その感覚は強まる。私たちが、願いごとの願をかけるとき、その感情は消極的ではあるが、「命令」の思考過程プロセスを含んでいる。

もし、願いが叶わなかったとき、誰かを恨むことがあるだろうか。

その願いが切実であればあるほど、願いを聞き入れて欲しいと思う。願いには潜在的に「命令」の要素が含まれている。

願いが聞き届けられなかったとき、「神も仏もあるものか!」と大声で怒りをぶちまけ、さらに「悲しみ」や「悲哀」が生じることもある。「お願い」と、こころで下手にでても、上から目線でお願いしているからだろう。このいずれの感情も、本日話す「人間性」ー「知恵」、「怒り」ー「悲しみ」に関与している。

尊厳という言葉がある。

人間的な尊厳とは何か。人間の尊厳を声高こわだかに主張し生きる権利を賛美してやまない人間主義華やかなりし時代は既に過ぎ去り、近年はヒューマニズムの残骸を見せつけられている、とは言い過ぎなのかもしれないが、果たして、現代の「人間性」は、下位項目の「愛情」や「親切心」「社会的知性」に、どの程度手応えがあるのだろか。

正直言えば、本来の「人間性」は、近年完全に骨抜きにされていると言わざるを得ない。そもそも「人間性」は、権利でも主義でもない。エゴイズムの塊の「自我」の前に「己」の統制をいかに働かせていくかという、類稀なる統率力を発揮すること、それらの行動がこの上なく貴重で稀有だという自覚を前提としなければ、単に「人間性」を掲げたところでお題目で終わってしまうだろう。

この統率や制動力が極めて稀だという自覚とともに、「命令」や「願い」には、あらかじめ「怒り」の感情を含むことを承知する必要がある。

今、例にしたように、反応的な人間は、願いが叶わず、「落ち込み」や「悲しみ」「怒り」などの感情が出現する。

本来の「人間性」とは、このような反応的態度にならないことをいう。そうできる一つの方策として「知恵」がある。

② 知恵と「悲哀」

けだし、社会的知性と一般的な知性とはどのような違いがあるのだろう。

下位項目は、最近のメタ解析により抽出された項目エレメントである。したがって科学的、数学的統計的な根拠がある。

「人間性」の下位項目に「社会的知性」とあり、 「知恵」の下位項目には「知的柔性(柔軟性)」や「好奇心」、「向学心」などがうたわれている。

これは、「人間性」と「知恵」の二つの関連性を示している証左である。CSの解説では特にこのような関連性については言及されていないが、このラインは明らかに知恵に関与する。

そもそも「命」自体が、想像を超える「創造物」であり、人間の知恵など及びもしない、まさに天からの授かりものであることを考えれば、この「命」のラインに私たちの「人間性」など、はなから太刀打ちできない。

そのことを考えればこそ、そこに「威厳」や「畏敬」を感じ、「尊厳」の意味を感じずにはいられないのだ。

「知恵」と「悲哀」は、私たちが何かを学ぶとき、世の中の真理や事実を知りたいと思うからこそ、そこに「向学心」や「好奇心」が湧いてくる。これを「知れなくなった」ときや、物事が「分からない」「理解できない」ことは実に哀しいことなのだ。そこには「落胆」や「諦め」のような思いが必ず湧くはずだ。

その証拠に、理解できたときはとても嬉しく、教えた方も教えられた方も、お互いに「共感」の感情が湧く。

「悲哀」の陽性感情は「共感」である。教師の醍醐味は、子どもたちに理解してもらえて良かった喜びと共感がモチベーションの全てと言っていい。知性とは単なる知識ではなく、「人間性」の元になる「こころの使い方」なのだ。

③ 加色法、減色法との関連

さて、これも解説は極めて複雑なので、ご興味のある方はお読みいただけれはよいだろう。

確かに、極めて興味深いことを発見した。じつは今回、この解説をするにあたり、とても大胆な発想を導入している。

それは、さまざまなスペクトルの色味を、「黒」と「白」に還元するこころみである。

前回の「恐」から「嫉」の間には、漆黒の闇があるとしたが、(ちょうど今回は、あまり関係ないので図中は白く抜けた⇒の部分)今回は、「悲」(黄)から「怒」(緑)の間を、白く抜いてみたのだ。

この発想は、ゲーテにある。

暗闇では、「青」は限りなく「黒」に見え、「黄」は限りなく「白」く見える。という一節からヒントを得た。

もし、これらの色味の中に、クリアーライトのような「白」が存在するなら、黄色に近く減色法の交わるところに集約されるであろう、という憶測である。

上図で言えば、光のスペクトルが示す白〇の部分である。この図をコピーして暗がりで見てみると良いだろう。そうすると、より白く見えるところが分かるはずだ。

これが、どのように加色法、減色法に関わるか、それは次回以降に解説することにしよう。


つづく



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