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遅い短歌について

実はいまとても忙しい。

いままでの雑務が減ってヒマになったのかと思いきや、恐ろしいことに歌や文章が豊作過ぎて、「出しどころ」を探しているくらい。この前も30首連作ができてしまって、「どうするこれ」と思って、色んな人に相談したりした。

あとこのnoteのために書きかけだった文章を、たまたま先輩の歌人に見せたら「面白い!」ということになり、全体の構想を話したら、「うちの同人誌に発表して!」と言うことになり、慌てて評論としてまとめている。

書き手として出たいと思ったり、請われているので、とてもやりがいがある。

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あと日常生活も何もしてないわけではない。

物価があがってきてものすごい大変だし、払わなければいけない公共料金とかも鬼のように溜まってきてしまったので、いろいろ調べて最近「ポイ活」デビューした。

最初はやみくもにやってたけど、いまはポイントを貯めるためにわざわざブラウザを「ポイ活用」のブラウザに変えたり、スマホを使ったりして、もはやプロの「ポイント稼ぎ」である。

ちょっとポイントがつかえるようになるまでが遅いけど、ちょうど電気も見直したり、回線の見直しとかもしたかったので、あれよあれよといううちに2万ポイントくらい承認待ちになった。これを他のサイトでもしているので、合わせると約5万ポイントある。暮らしのお金にプラスして、「ポイント」がこんなにたまると、でかい。

なかなか努力しても食費は減らないし、生活の質は落とせない。だったら無料でもらえるポイントで少し現金を「嵩まし」すれば良い。

そんな発想になったのが良かった。

妻とは経済問題でいろいろトラブっていたけど、「お金のことだって自分でなんとか工夫する」という強い覚悟をもってポイ活すれば、解決するんじゃないかと思っている。

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いままでの自分にはだらしないところがあって、タバコ代がない、食費がない、と妻にいわれるがままに周囲の人に頭を下げて足りないお金を工面してもらったりした。自分でも「デジタルこじき」だな、と思う。使う妻が悪いのか、と思っていたけど、工夫しない自分も悪いのだ。

お金が足りなくなる→無理に働く→体を壊す→夫婦関係も悪くなる

というコンボで、破局寸前まで言ったけど、もしここで破局したら、妻は自分を虐待する親の元に帰らなければならない。と思って、なんとか踏みとどまって離婚届は出さずにおいた。

夫である以上、もし別れるとしても、妻の行き先には責任を持たなければいけない。一回もう無理という話になって、親元にかえして見たら、精神的に追い込まれたらしく、うちにいるより断然病状が悪くなった。

これではなんのためにわざわざ親元からこっちに連れてきたのかわからなくなる。ぼくも妻も病気で働ける状況じゃないけど、幸せになる権利はあるし、生きている以上むしろ幸せにならなければならない。

周囲は「別れなさい」と言ってたけど、父も祖母も、絶対「うちで面倒見なさい」というような気がした。父も祖母も、不人情が一番嫌いな人たちである。変な話、もううちの人間になってもらうので、不安定要素ばかりの向こうの親とは、すっぱり縁を切ってもらおうと思っている。

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いまお互い病気を直している最中だ。クリアすべき課題が多いので、しばらくは別居だけど、地ならしはしっかりしている。

ポイ活も全部、そんな将来の夫婦生活のためと思えば、がぜんやる気が出てくるのである。

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noteも、いろいろ伝えようと思ってあれこれ工夫をしたけど、ちょっと手を抜いて書くくらいが十分かもしれない。

ヘッダーも無理につくる必要はないし(デフォルトの文字で十分)、評論の合間に書くくらいだから、こんな雑なクオリティでもいいだろう。

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いま評論では文語と口語の話をしている。

ぼくは文語と旧かなを辞めてしまって、絶対に完全口語で書く、と決めている。表記も現代かな遣いに直した。そうすると母国語、という言い方はおかしいけど、使い慣れた、ネイティヴな表記になる。そうするとぼくの性格からして、「なり」や「けり」という文語文法がでてくる余地がない。ちょっと文語っぽい怪しい表記はしらべてあえて口語に直しているから、かなり徹底していると思う。

ただ、別に「流行に乗りたい」からではない。木下龍也さんをはじめ、いま流行に乗っている歌人たちに敬意がないわけではないけど、その真似をする気は全然ないし、むしろ真逆で行こうと思っている。

彼らの短歌はわかりやすい。それは多くの読者が、「わかる」ような表現を求めているからだ。大衆の知的水準の低下を嘆く論調があったけど、それはちょっと違うと思う。

ぼくは読者を馬鹿にしたことは一回もない。おそらく日常生活で、短歌がメインでない人は、ぼくなんかと違ってしっかり働いていたり、他のことに一生懸命なのである。8時間とか、それ以上の時間をオフィスなどで過ごしていたり、日常生活はいろいろ大変なのだ。

その大変さを推し量らなければ行けない。

「わかる」歌が必要なのは、読者に時間をはじめとした余裕がないからだ。読者は「わかる」ことで癒やされることを求める。短歌ブームとは、そんな「余裕のない読者」のために歌を提供する歌人たちのブームだと思う。

しかし、世の中には働いている人ばかりではない。ぼくのように人生をこじらせていたり、何か道に迷っていたり、時間はあるけど大変な人だっているはずだ。

ぼくはそういう時間のある人たちのために、「調べてもらう」短歌を作りたいのだ。

ぼくの第一歌集にもすでにその片鱗はある。「誰これ?」 「なにこれ?」っていう人やものごとを、ためらわず、注もなく突然歌に読み込む。当然知らなくても支障がないように韻律は整えているけど、調べるのが苦ではない人は、その意味を知って愕然とするように、できるだけ意外な人名や地名を織り込みたいと思っている。

それがぼくの理想の歌だったりする。

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ぼくが10歳の頃と、今とはだいぶ風景が変わった。

たとえばぼくの好きだった地方競馬はどんどん廃止になって、ぼくの生まれた新潟県でも、三条競馬場という競馬場があったことを覚えている人は減っていくだろう。

ぼくは学生時代、短歌なんてやってないのに、茂吉記念館前という駅でよく降りた。茂吉記念館にもよった。目的はかみのやま温泉と上山競馬であった。足利にも言った。これも尊氏が目的ではなくて、駅からだいぶ離れた河川敷にある足利競馬場へ行ったのだった。

変わっていく風景のなかで、残っているものもあれば、忘れられていくものもある。せめてぼくの生きている限りは、そんな「忘れられそうなもの」の名前は、しっかり何かにとどめておきたい。

挽歌ばかり歌っている歌人のつぶやきかもしれない。
ただ、ぼくは、読む習慣のなかに「調べる」習慣を入れてもらえたら、と願っている。

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「ファスト教養」なんて言葉が流行ってるらしいけど、ぼくにとっての短歌とは、それとは逆の「遅い短歌」の提案なのだ。

ふつうの散文の読書だと、「一つ意味がわからない」箇所があってつっかると、調べるのが面倒だけれど、短歌なら、逆に「わからない言葉」をいくら入れても、一首単位だから他の箇所には影響しない。

これだったら、読者が負担にならないように「調べ」てもらえるかもしれない。だからぼくは歌人としては、読者に「調べたい」と思ってもらえるだけの、魅力のある歌を作りたい、といつも思っている。

「遅い短歌」

これから、仕事や日常生活の負担が減って、もう一度「調べる読書ブーム」が来るのではないか、と、密かに期待している。

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