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【ホラー小説】黒衣聖母の棺(7)

(同一テーマで、ミステリ仕立てにした小説を公開中です。「【密室殺人】黒衣の聖母」) 

(あらすじ)豊後の国が大友氏の領地だった時代、沖にある馬飼い島(魔界島)に、異国の難破船が漂着する。
 島に立ち寄っていた十兵衛は、血抜きされたような異様な乗組員の遺体を検分した。
 そのころ島の娘、いさなは自分だけが知っていた洞窟で、異人の男に出会い、その男が守っていた棺のなかに、黒衣の少女を見た。
 府内で宣教師に育てられ、受洗してジョアンという名を授かった久次郎は、浜長(はまおさ)のトヨに呼び出された。
 トヨは秘かに生き残りの異人を匿っていた。彼女は難病の孫を救うため、異人の信仰する異教にすがろうとし、久次郎に助力を求めた。
 トヨに呼び出されて、その屋敷に参じる久次郎と十兵衛は、扉に心張り棒を噛ましてあった蔵の中で、こときれているトヨを発見した。
 府内から破船の検分のため、代官田原宗悦らの一行が島に到着した。
 久次郎や十兵衛も駆り出され難破船に乗り込んだ結果、生き残りはいなかった。
 十兵衛は船内で、黒い聖母の異様な気配を感じ取った。
 代官田原宗悦は、抜け穴の存在を知っていた仙吉をトヨ殺しの下手人として牢に繋いだ。
 十兵衛はトヨの邪教の根を探るため、招福寺を訪ねて白蓮の弟である義圓に出会う。
 台風が迫るなか、白蓮は浜長の屋敷から黒衣聖母の棺を強奪し、島の山頂にある城跡に運んで調伏の儀式を始める。

(承前) 
 久次郎が、もう何度めになるかわからない問いを十兵衛に重ねた。
「白蓮がこの道を通ったは、間違いないのか?」
「棺の材である黒檀に巣くう胡麻羽虫の喰いカスがこぼれておるで、誰が見てもわかることじゃ」
 道々に白い粉があり、十兵衛はそれを棺からこぼれた虫の食いカスであるという。

 わからぬなあ。
 久次郎が目を凝らしても、他の塵との見分けがつかなかった。
「この先は、城跡じゃな」
 十兵衛は島に来てから日も浅いのに、城跡のことも知っているらしい。好奇心の塊のような彼の行動力を、久次郎はうらやましく感じた。

 やがて、畦道に数人の足跡が残っているのを認めた。重いものを運んだらしく、柔らかい土に足がめりこんだ跡もある。
「なるほど」久次郎は納得した。
 城跡の洞に着くと、中から松明のこぼれ火が見えた。

「間違いないようだの」
 十兵衛はしっ、と制した。
 中から、誰かの声が聴こえてきた。
「白蓮殿、もうよい。やめよ」
「臆病者めが。帰って茣蓙を被っておるがよいわ」
 そう言われては、若者は黙らざるをえなかった。

「目覚めるがよい」
 皮袋に準備しておいた犬の血を、聖母の口元に注いだ。
 血は少女の唇を赤く染めた。
 無垢な頬が朱に染まる。まるで紅をさしたかのように。
 あたりに漂う瘴気が、濃密さを増したように皆は感じた。心なしか、洞内が暗くなったように思え、冷気が頬をなぶるのがわかった。

 これほどの蝙蝠がいたのか、と思えるほどの羽ばたきの音、きいきいという鳴き声が聞こえてきた。
 聖母の口元でちろちろと紅い舌が動き、血を嘗めとる。口の中の尖った犬歯が見えた。
 皆が驚愕の眼差しで見守るなか、聖母の目が静かに開いた。

 棺の聖母は、ゆっくりと上半身を起こした。天鵞絨の外套が棺からこぼれ、鳶色の髪が白い額にこぼれ落ちる。
 口を開くと、獣臭い息が漏れた。
 若者たちが、悲鳴を上げた。
 白蓮が声を励まし、叱咤の声を上げた。

「逃げるでない。この化け物は我が法力にて必ずや調伏されようぞ」
 そう言うや、くるすを翳して一歩進んだ。
 聖母の口が開き、異国の言葉、意味が流れるように脳裏を打つ言葉が聞こえてきた。
――愚かなる者よ。我が畏るるは十字架に込められし、祈りの心ぞ。貴様がごとき、自らの宗旨すら解しておらぬ者なぞ、恐るるに足らぬ。
 犬の血はもう飽きたわ。貴様の血で、我が飢えを満たしてくれようぞ。

 白蓮の股間から流れる尿の音を合図とするかのように、聖母の棺を運んできた若者たちは、我先に逃げ出した。
 白蓮のことなぞ顧みる者はいなかった。

 十兵衛と久次郎が洞内を伺うと、入れ替わりに若者たちが走り出てくるのにぶつかった。
「何があった?」
 ひとりを捕まえて問い正しても、正気を失った若者はただ、要領を得ない声を上げるだけで手をふりほどくようにして逃げ去った。

 ふたりは用心しながら、洞内に入った。
 目が慣れるにつれ、なにかが屹立しているのがわかった。
 華奢な聖母が、白蓮を抱え上げている。白蓮の首があらぬ方向に曲がり、それでも息があるのか、微かに悲鳴が漏れている。

 聖母の口の周りは、真っ赤に染まっていた。
 凄惨な光景に気を失い、倒れそうになったいさなを十兵衛が背後から抱き留めた。
 腰の引けた久次郎が言った。
「白蓮めが企みを察したはよかったが、も少し疾く来るべきじゃったな」
 十兵衛が応じる。
「それができれば、苦労はないわ」

 いさなをそっと壁際に寝かせると、魔物に対峙した。
「とてつもなき化け物じゃな」
「これが、トヨ殿を害した下手人か?」
 久次郎が尋ねる。
 十兵衛は首を横に振った。

「見よ、血をすすられし白蓮の姿を。 
 もし、こ奴めが下手人なれば、トヨ殿は全身の血を抜かれていよう。真の下手人は他におるはずじゃ」
 威嚇するかのように牙をむき出す聖母の顔つきは、もはや少女のものではなく、獣のように変化していた。
 聖母の目が赤く光り、しゅーっ、という臭い吐息が十兵衛の顔に掛かった。

 十兵衛は小柄を抜くや、間合いを詰めて聖母の体を袈裟懸けに薙いだ。
 気合いは充分だったが、聖母は人ではありえぬ方向に体が振れ、剣先を躱すと、天井に四つん這いになって逆さまに張り付いた。
 その姿勢のまま、周囲を睨めまわす。

 十兵衛は振り向きざまクナイを放ち、同時に相手の着地箇所に飛んだ。
 打ち下ろした小柄は必殺の斬撃のはずだったが、敵は人ならぬ身、関節をあらぬ方向に曲げ、次の瞬間逆に間合いを詰めてきた。
 獣は十兵衛の体に取りつき、首筋を狙ってきた。十兵衛は地面に転がってなんとか相手を引きはがす。

 体が離れるや砂を蹴り、目つぶしにしたが、敵はひるまず再び十兵衛に組み付いてきた。
 かろうじて襟元に当たる部分を掴み、鋭い牙を避ける。
 目の前で、牙がかちかちと鳴る。臭い息が顔に掛かってきた。
 十兵衛は徐々に体勢を入れ替えると、天井から射す光の下に相手の体をさらした。

 絶叫が起こり、獣の体から白煙があがった。相手は跳びすさり、再び日陰となる奥の洞へと逃げ込んだ。
「どこへ行った?」
 久次郎が目を凝らす。
「くるすを掲げよ!」
 十兵衛の声に従って久次郎が十字架を上げるや、背後で咆吼がした。久次郎の首筋を狙っていた牙が後退する。

 久次郎は全身に鳥肌が立った。
 彼奴、いかにしてこの暗闇の中、我らが位置を察しおる? 十兵衛は考えた。気配か?いや、もっと形ある何かだ。

 音?

 十兵衛は目をつむり、音に神経を集中した。
――彼奴めは、甲高い音の反響で我らが動きを察知している。
 意識を集中させると、きききっ、という蝙蝠の鳴き声に混ざって、ひときわ高い音が聞こえてきた。
「そこじゃ!」
 十兵衛が投げたクナイは、此度は獣の額を捕らえた。絶叫とともに飛び出してきた魔物が、十兵衛に体ごとぶつかってきた。

 倒れた十兵衛の眼前に、魔物の牙が光る。
「今じゃ。久次郎!」
 上になった相手の牙が首筋に届こうかという刹那、久次郎が懐からぎやまんの瓶に入った聖水を振りかけた。
 じゅっ、と音がして魔物の体から煙が上がり、十兵衛の体から離れると天井に張り付いた。
 魔物は蝙蝠のように後肢でぶらさがり、紅い舌でしきりに背中をなめ回そうとする。

 久次郎は、右手に聖書を、左手にくるすを掲げ、
「疾く退け。”さたぬす”よ」
 魔物の口から悲鳴のような声が谺し、洞内に響いた。その体は四散し、小さな蝙蝠のようなものが無数に散っていった。
 どさり、と音がして聖母の体が降ってきた。

 さすがの十兵衛も、息を整えるのが精一杯のように座り込んでいる。
「おそい!」
 それでも久次郎に苦情を言うのは忘れなかった。
「すまぬ。手が震えて蓋が開けられなんだ」
 豆だらけの久次郎の手を見て、十兵衛はいぶかしげな顔をした。

「とどめを刺すには、心の臓に杭を打ち付けねば」
「もはや、魔物は聖母の胎内より去った。ここにあるのは単なる遺骸じゃ」 
 聖母の表情は、元の無垢な少女のものに戻っている。
 そのとき、入り口の方から、ざくっ、ざくっ、という砂を踏む音が聞こえてきた。

 新手か? 身構えるふたりの前に、右足を引き摺りながら巨大な人影が姿を現した。
 さるふぃ!
 元の洋服に着替えた、白髭の老薬師が立っていた。
「ろざりあ」
 さるふぃが、聖母の遺骸を愛しそうに抱き上げた。
「ロザリア!」

 赤鬼のような顔がゆがみ、涙が落ちる。ひゅう、ひゅう、と荒い息づかいの音が聞こえた。
「片足を折っていながら、ここまで来たのか」
 十兵衛が感嘆したように漏らした。
 さるふぃは、聖母を軽々と抱き上げ、背中を向ける。久次郎が叫んだ。

「いずこに参られる?」
 大きな背中は何も語らず、ただゆっくりと歩み去ろうとする。
「おことは独りではない。府内に行けばお仲間もおるのじゃ」
 異人は一瞬意味が通じたかのごとく振り向いたが、その瞳には絶望が宿っていた。

 さらに言い募ろうとする久次郎を、十兵衛が止めた。
「やめておけ。己が進退を覚悟した面つきじゃ」
 ゆっくりと、足を引き摺りながら去りゆく異人を、ふたりはただ見送るしかなかった。
 あとには、黒衣聖母の棺のみが残った。

 十兵衛と久次郎のふたりは、放心したようにその場に立ち尽くしていた。倒れ伏した白蓮は首筋から血を滴らせながら、失禁している。
 十兵衛が吐き捨てるように言った。
「臭き奴じゃ」
 そのとき、止める間もなく久次郎が白蓮の喉を小柄で掻き切った。

「何をする!」
 驚いた十兵衛が割って入る。
「まだ息があった。もはや助からぬとは思うが、糞坊主といえど人じゃ」
「瘋狗に咬まれた」久次郎が切羽詰まった声を上げた。「病を発するのを防ぐには、法師の血を塗り込むことが必要じゃで」

 久次郎は、憑かれたように白蓮の血を己の右手に塗りつけた。
「それは俗説じゃ。それに病を防ぐことができるのは、徳の高い僧侶の血ぞ。白蓮がごとき生臭坊主では功徳もなかろうに」
 傷口に血を塗り込む久次郎を、十兵衛は哀れそうに見ながら言った。
「そうかもしれぬ。それに我が教えに背く非道なことじゃ。
 しかし孤児となって飢えていた儂をば救ってくれた南蛮のぱーどれのために、やらねばならぬことがあるのじゃ」
 
 久次郎は、請うように言った。
「後生じゃ。見逃してくだされ。我が身は”いんへるの”に墜ちようがかまわぬ」
 十兵衛は嘆息した。
「やらねばならぬこととは?」決意の固そうな久次郎を見て諦めたように言った。「よかろう。今は聞くまい。それよりも、白蓮の遺骸をいかがいたす?」

「名もなき者の墓に葬ればよかろう。できるだけの供養はする」
「いや、それよりも」
 十兵衛はいさなから、彼女に対する白蓮の仕打ちも聞いている。いまさら同情する気にもなれなかった。
「よき手立てがある。遺骸の始末は任せておかれよ」
 十兵衛は、変わり果てた白蓮の遺骸を菰に包みながら言った。
「信者の手助けがいる。聖母の棺を運び出させよう」

 朝の風が洞内に流れてきて、いさなは我に帰った。城跡の中に、淡い光が射していた。
 周りを見回しても、たれもいなかった。夢でも見たのか、と思ったが血の跡が事実だと告げていた。
 小袖が身体に掛けられており、かすかに嗅いだことのある体臭がした。

 空の水桶をかついで屋敷に戻ると、切妻の門前に数人の村人がたむろしており、いさなが通り過ぎるのを不穏な目つきで見た。
 これまで村人は宗右衛門屋敷に入る者には、いさなに対してすら腰をかがめたものだが、そのような気配はみじんも感じられなかった。
 村人の中心に白蓮の弟、義圓がいることに気づいた。
 義圓は狂信的な目つきで、なにやらしきりに村人に向かって説いていた。

 宗悦と十兵衛は、眼光鋭く対峙していた。
「そなたの主君を弑しますが、よろしいかな」
 十兵衛が剣呑な言葉を吐いた。
 うむ。田原宗悦はうなり声を上げた。
「こたびの勝負。我が方の負けじゃ」

 朝餉も早々にふたりが始めたのは、天竺にてシャンチー、加羅にて”将棋”という字が充てられ、すでに本朝にも流布している遊戯だった。
 十兵衛の知るものと豊後で行われているものでは、規則や駒数が少し違ったが、試しに一番終えると早速要領を呑み込み、三番めは好勝負となった。 
 宗悦は大の将棋好きながら身近によき相手がいなかったため、好敵手の到来を喜んだ。
「ぜひ、もう一番」

 次の勝負が山にさしかかったとき、近習が駆け込んできた。
「変事が出来いたしたようで」
 宗悦は勝負を中断され、不機嫌に応じた。「何事じゃ?」
 請われるままに中庭に出向くと、若者が平伏させられている。傍らには村役の左兵衛が控えていた。
「落ち着いて話せ」

 さすがに宗悦は、ただならぬ出来事が起こったことを感じ取った。
「へえ」
 若者は六助といい、背が高く気のよさそうな男だった。昨夜から今朝にかけて破船の見張り当番だった、という。
 見張り番は、明け方がいちばん辛かった。夜を通した緊張が解け、眠気がもっとも強くなる。
 交代の平次はなにをしておる。早く来ぬか。六助は苛立っていたという。

「余計なことは良い。肝心なことをば話せ」宗悦が諫めた。
「へえ」
 六助は恐縮しながら、続けた。
 朝方、遠くでは雷鳴が鳴っていた。風が強く、粗末な見張り小屋は飛ばされてしまいそうだった。
 そのとき、すぐ近くの対面にある崖の上で鋭い、ターンという音がし、赤い火の玉が飛んだように見えた。

 鬼火じゃ。
 同時に破船のほうで、ぎしり、という音がした。気づくと、ただ一本だけ折れずに残っていた中央の帆柱が、徐々に傾いでいくのが見えた。
「昨日まではなんともなかったのじゃが」
「風が強くなったで、折れたのではなか?」
 宗悦は不審げな面持ちで言う。
「そうかもしれませぬが」
「見てみましょうぞ」
 十兵衛が口を出し、一同でぞろぞろと屋敷の浜側へ赴いた。

 波が高く、破船のぎしぎしという音が強くなっている。
 よく見ると、たしかに昨日まで屹立していた中央の帆柱が、両脇と同じように傾いでいる。
「あれは、人ではないか?」十兵衛が指さして言った。「いま、帆柱の影に人が吊されているように見えたが」
「遠目が効くのか?」田原宗悦が、うらやましげに言った。「いくさ場では、役に立つ技じゃの」

 昨夜の張り番だった六助を振り返って尋ねた。
「夜半に、破船へと漕ぎ出したものはおるか?」
 おりませぬ。
 ひょろりとした若者は、眠気が飛んだかのように必死で首を振った。そのような不審者を見逃したとなれば、己の瑕疵になる。

「一瞬たりとも、目を放したことがないとは言えまい」
 宗悦は念を押すように詰問し、六助は困惑した体で答えた。
「たしかに、一時たりとも目を放さなかったとは申せませぬが」
「用を足しにいくこともあったであろう?」
 へえ、と若者は頷いた。
 賢明にも、我を張ると却って嘘つきと言われると考えたようだ。

「泳いでいけば、密かに南蛮船に近づくことができたであろうに」
「したが、お代官さま」左兵衛が言い足した。「かような波が高い夜に、あの根の近くに泳ぎ出すような者は、島にはおりませぬで」
 島の人間は、なにが危険かよく知っている、という。

「やはり、舟でなくば近づくのは難しいやに存じまする」
 己が説を論破された宗悦は、不機嫌そうに確認した。
「相違ないか?」
 六助が応じる前に、十兵衛が気軽に言った。
「舟を出せば、よいではございませぬか」
 それが嫌なのだ、とも言えず、宗悦は黙り込んだ。

 再度の検分をたれが行うかで、宗右衛門屋敷の三人の田原が顔を見合わせた。そして、いつものように年若の田原信濃守が、貧乏くじを引かされることとなった。
「儂が相伴しよう」
 もっとも若いとはいえ、一回りは歳上の信濃に向かって十兵衛はぞんざいに言った。

「また、わぬしか」
「いやなら、よいのだが」
「いやとは言っておらぬ」田原信濃は慌てて言った。この物好きが案外に頼りになることは、よく知っている。「酔狂よ、と感心しておるに」

 波が高く、大きく上下する舟のなかで、田原信濃は嘔吐をこらえていた。「大丈夫か?」
 脇を漕ぐもう一艘に分乗した十兵衛が声を掛けてきたが、信濃は答える気力もないようだった。検分吏からはたれも同行したがらなかったため、島の若衆を募って、短艇を仕立てたのだ。

 十兵衛自身は自ら一丁櫓を漕いでいた。
 好奇心の強いこの若侍は櫓の扱い方を学び、今では漁師にならぬか、と誘われるまでになっている。
 二艘の舟は、巨大な南蛮船が不気味に揺れている側まで近づいたが、波が高いため前回以上に接舷は難しかった。
「しばし、待たれよ」
 十兵衛は自分の舟を反対側に回した。
 しばらくして、田原信濃が乗船を諦めかけた頃、甲板に十兵衛の姿が見えて、するすると縄梯子を降ろしてきた。

 信濃は高波に揺れる甲板にやっとたどり着くと、
「遅いわ」と文句を言った。
 十兵衛は逆らうでもなく、
「申し訳ございませぬ。あれが吊されておるのを、そのままにも出来ませぬゆえ」

 甲板上には帆の断片、葡萄牙の商船旗、と共にぼろ布が置かれており、よく見るとそれは汚い水干姿の白蓮のなれの果てだった。
 帆柱から伸びた縄が首に巻き付けられた遺骸である。
 田原信濃は、さすがに青ざめてはいたものの、なんとか持ちこたえて言った。
「形相が変わって見ゆるが、あの乞食坊主かの」

 白蓮の遺骸は干からびて、もともと貧相な顔つきが骸骨のように変貌していた。「いつ、どうやって吊したのじゃ?」
「これが吊された重みにて、帆柱が傾いだのでございましょうか」
 うむ、信濃は帆柱を見上げた。
「であれば、吊されたるは六助が見ておった早朝の刻限か」
 遺骸は硬直し、血が抜かれたのか干物のようになっている。

 不安定な状態で沖側に傾いた中央の帆柱は風でぎしぎしと揺れ、今にも倒れるのではないか、と不安を抱かせた。
 田原信濃は風に揺れる帆柱を気にし、遺骸を収容するやすぐに引き返そう、と言った。
 十兵衛は白蓮の首に巻き付いた縄を外すとき、見覚えのあるくるすが袖の中にあることに気づいて、そっと懐に入れた。
【ホラー小説】黒衣聖母の棺(8)に続く)

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