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京のうつくし図鑑‐8〖子育て幽霊〗

お盆だからというわけではないが、全国に子育て幽霊の民話が伝えられ、古典落語の「飴買い幽霊」にもなっている。そもそもこのストーリーはインドや中国から伝わったという説もある。以前このシリーズで「京のうつくし図鑑‐2【京のゆうれい話】」をお届けした。これは続編というより、以前より間口を広げて、こうした物語が語り継がれる意味を考えてみたい。これらは単に悲しい物語を語り継ぐというより、日本文化のもののあわれ、能や狂言、文学や日本映画にも現われる「幽玄」の世界につながっていると思えるのである。

全国の子育て幽霊話を語り継ぐ、もののあわれの心情


語り継がれる共通の物語

全国に分布する「子育て幽霊」の物語は、場所によって異なるところがあるが、物語はおおむね類似している。日本文化は、無常で儚いものの美しさや、悲しさに対する深い理解と感性を尊んできた。子育て幽霊ものがたりもそうした幽玄の世界として伝えられてきたのかもしれない。

ある夜、すでに店じまいした飴屋の雨戸を叩く音が者がいる。店主が外に出てみると、髪が乱れ、青白い顔をした若い女性だった。が立っていた。かぼそい声で「飴をください」と一文銭を差し出した。店主はその姿に疑いを抱くが、悲しげな声で頼むので、飴を売ったのだった。

翌晩も同じ女性がやってきて、「飴をください」と一文銭を差し出した。店主は再び飴を売り、「どこに住んでいるのか」と聞くが、女性は答えず、静かに姿を消す。その後も毎晩、女性は飴を買いに来た。7日目の晩に「もうお金がないので、これで飴を売ってほしい」と女物の羽織を差し出した。店主はその女性を気の毒に思い、羽織と引き換えに飴を渡した。

翌日、女性の羽織を店先に干していると、通りがかりのお大尽が店に入ってきた。お大尽は「この羽織は先日亡くなった娘の棺桶に入れたものだが、どこで手に入れたのか」と尋ねた。店主は、女性が飴を買いに来た経緯を話した。お大尽は驚き、娘が葬られた墓地へ行った。すると新しい土饅頭の中から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こしてみると、娘の亡骸が生まれたばかりの赤ん坊を抱いており、娘に持たせた三途川を渡るための六文銭がなくなっていた。そして、赤ん坊は店主の渡した飴を食べていた。

お大尽は「娘は墓の中で赤ん坊を育てるために幽霊となったのだろう」と言い、「この子は必ず立派に育てる」と約束した。すると、娘の亡骸は頷くように頭を少し落とした。この赤ん坊は後に菩提寺に引き取られ、高徳の名僧になったという。

京都の六道の辻にある石碑
みなとや幽霊子育本舗


飴屋の「みなとや幽霊子育本舗」と立本寺の「幽霊子育て飴」


死んで埋葬された女が赤ん坊を産んで飴で赤ん坊を養っていたという話や、その子供が長じて高僧になったという話は日本各地に伝えられている。その物語を受けて、京都市東山区松原通の「六道の辻」近くに、飴屋「みなとや幽霊子育飴本舗」がある。六道の辻は京都の葬送の地の1つ、鳥辺野の入り口にあたる場所である。古来より“あの世とこの世の分かれ目、”冥界の入口”といわれたところだから、この「子育て幽霊」の伝説が伝わったともいわれている。
また、京都上京区七本松通りの「立本寺」でも「幽霊子育て飴」を売っている。立本寺に伝わるのは、ある女性が毎夜1文銭を持って飴屋「みなとや」に飴を買いに来た。しかし7夜目の1文銭は「しきみの葉」に変わってしまった。不審に思った飴屋が女性の後を追っていくと、女性はある寺の墓地で姿を消した。そこには泣いている赤ん坊がいた。助けられた子どもはのちに出家して、立本寺第二十世・霊鷲院日審上人となったと伝えられている。

南宋に伝わる、よく似た怪奇物語「餅を買う女」

ある民家で妻が妊娠中に死亡し、埋葬された。その後、町に近い餅屋へ、赤ちゃんを抱えた女が毎日餅を買いに来るようになった。餅屋の者は怪しく思い、こっそり女の服のすそに赤い糸を縫いつけ、彼女が帰ったあとその糸をたどってゆくと、糸は草むらの墓の上にかかっていた。知らせを聞いた遺族が墓を掘り返してみると、棺のなかで赤ちゃんが生きており、死んだ女は顔色はまだ生きているように見えた。女の死後、お腹の中の胎児が死後出産で生まれたものとわかった。遺族は女の死体を火葬にし、その赤児を養育した。

ガンダーラに伝わる仏教の説話に通じる類似の物語

死女が子供を生む話はガンダーラの仏教遺跡のレリーフにもある。日本に伝わるで物語の原型は「旃陀越国王経」にあるといわれている。物語は幽霊があらわれ、7日目に赤ちゃんが発見される。この逸話は釈迦を生んで7日目に亡くなった摩耶夫人のエピソードとの関連と指摘する説もある。また、ガンダーラに限らず、日本に伝わる物語も飴屋が坂の上にあるということから、古事記の黄泉比良坂との関連をうかがわせる説もあるそうだ。

このエピソードは、落語「幽霊飴」として、米朝ばなしに収録されている

桂米朝によると、上方落語の2代目、桂文之助の落語に『幽霊飴』という話があるという。夜、女が六道あたりの飴屋に飴を買いに来るというあらすじはほぼおなじだが、落語では女が姿を消した墓の場所が「高台寺」
「コオダイジ(子を大事=高台寺)」が落ちとなっている。
(米朝ばなし『上方落語地図』講談社文庫より)

水木しげる作・紙芝居「ハカバキタロー」のイメージ

水木しげる作「ハカバキタロー」の紙芝居に生かされた「子育て幽霊」の物語


かつて紙芝居が一世風靡した頃、最初に公開される時は今の映画のように「封切り」と呼ばれたと聞いた。昭和8年に封切られた紙芝居に「ハカバキタロー」という紙芝居があった。その作品は子供相手の物語なのに、かなりグロテスクな表現だったが、人気が出てシリーズ化され、次第にヒーロー物語になっていった。20年も前に流行した「ハカバキタロー」の筋を聞いた水木しげるは、古臭いと思い、「ハカバキタロー」を今風の筋に変えようと思いついた。名前も「墓場の鬼太郎」にして、「ハカバキタロー」の母が幽霊という元のストーリーや、「子育て幽霊(飴屋の幽霊)」を受け継ぎながら紙芝居作品を発表。昭和8年~10年頃に大流行した。けれど当時の紙芝居の原画は一点もので、保管していた倉庫が戦争中に空襲で焼失し、当時の作品は残念ながら残っていない。しかし戦後になって、空前の貸本屋ブーム時代がやってくる。水木しげるは「墓場鬼太郎」を漫画化するのである。また、その後、少年漫画誌で「ゲゲゲの鬼太郎」が連載されると空前の大ヒットとなり、TV番組としてアニメ化して国民的作品となった。

全国に広がった子育て幽霊。南宋やガンダーラの原型らしきものは、お釈迦さまの生誕のエピソード、さらには古事記を連想させる各国と日本との文化のつながりを思わせる。「子育て幽霊」は、全国に広がり、いつしか古典落語の話しにも生かされていく。この子育て幽霊物語は日本が世界に誇る名漫画家、水木しげる氏のデビュー作ともいえる「ハカバキタロー」として生きていく。水木氏の漫画の連載にはじまり、TVアニメやNHKのドラマとなり、水木氏が幼年期を過ごした鳥取県境港市は町おこしとして「水木しげるロード」や「水木しげる記念館」ができるほどの功績をたたえられている。


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