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観る者によって色を変えるキャラクターの魅力、そして「肯定」の物語【映画『街の上で』】

※このnoteは映画『街の上で』本編のネタバレを含む感想文です。


映画『街の上で』に出てくるキャラクターは皆、すごくリアリティがありながら、現実ではそうそうお目にかかれないような、絶妙な魅力を持つ人たちばかりだ。
中でも私が好きなのは、主人公・荒川青と、作中で青が出会う大学生・城定イハ。特にイハは、作品を繰り返し観ているうちに印象がガラリと変わった、私の『街の上で』体験を語る上で欠かせないキャラクターである。

初見では単純に、イハちゃんは掴みどころがない女の子だなと思っていた。
まだよく知りもしない青のことを突然部屋に誘うし、回収されていない謎ゼリフが結構あるし、何考えてるかわからないかと思えば素直な発言もあったりする。自主映画で全出演シーンをカットされた青に対して最後に言う「(映画に)出てましたよ」というセリフも、初見では意図がよくわからなかった。

でも、「イハは青をどう思っていたのか」という問いを携えた上で何度か観ているうちに、私の中でイハちゃんは色を変えた。
たとえば映画の打ち上げシーン。居酒屋で監督の町子がスタッフの男と言い争いをしているところを、青がじっと見つめている。別の席にイハ。町子たちを見つめる青を、青の視線の先を、イハは見つめている。青の隣に座った後に、町子のことを「タイプですか?」と聞く。さらにたとえば、イハの部屋での青との恋バナ長回しシーン。延々と雪と自分の話を繰り広げる青に相対するイハの態勢は結構な前のめりで、その目はきらきらと輝いて見えた。
そんなイハの様子に気づいた時、私は、イハをよく知るためのひとつのスコープを手に入れたような気がした。

誰かの視線の先を追ってしまうのは、その人のことが好き、まではいかなくても、少なくとも気になっているからでは? 興味ない人の話を聞く時、果たして前のめりになるだろうか? 興味がある、好意があるからきらきらとした、生命力を感じさせる目で、相手の話を聞けるのではないだろうか? 
そう思った時から私は、イハがとてもまっすぐに、シンプルに青に好意を抱いているのではないかと思うようになったのだ。

そういう前提に立ってイハを見ていると、たとえば「私たちは付き合ったりしない方が良さそうやね」と言ったのも、「友達になってほしいかも。私、友達おらんし」と言ったのも、翌朝の路上での雪とマスターとの鉢合わせシーンで「雪さんのこと、まだ好きやって」と言ったのも、なんだか腑に落ちるような気がした。
サバサバとしていて、言いにくいこともバッサリ言ってしまう人でありながら、恋愛感情らしきものに触れた途端に防衛線のようなものを張って本音とは違うことを言ってしまったりする。そういう人なんだとスッと受け入れられた。自分が青に抱いている好意も、その青が大好きな雪とヨリを戻せるといいなと思っていることも、一見矛盾する二つの感情がイハの中に両立しているのだろうとも思えた。

どのキャラクターにも言えることだけれど、とても多面的で、類型化されていない、複雑で人間味のある人物になっていると感じた。言ってみればその「雑味」が、その人物の「奥行き」であり、「魅力」なんだと思う。

余談だが、『街の上で』を観た友人数人でオンライン感想会を行ったところ、「イハちゃんが青くんを家に呼んだのは、翌朝元彼が家に来るのをわかっていた上で、鉢合わせさせて元彼とうまく別れるためで、今後もイハちゃんは青くんを都合よく利用すると思う」という意見が出たので、私は目ん玉が飛び出そうなほど驚いた。それまで私はすっかり答えを見つけたような気になって、自分が腹落ちした見方だけにとらわれていたのだ。
作品の受け取り方は本当に人それぞれで、人によってこんなにも解釈が異なるのだということを、改めて感じた出来事だった。

『街の上で』の好きなところは、キャラクターの他にもいろいろある。
好きなシーンは挙げればキリがなくて、観た人全員好きなのではと言っても過言ではない警官とのシーンや、後半の四人(+一人)の鉢合わせシーン、『チーズケーキの唄』、その後の雪との玄関のシーンなど、すべて言わずもがな大好きなのだが(それらがあったから初見であんなに「この映画好き!」と思ったのだが)、それはもう観てもらえれば一発で「良さ」がわかるシーンなので野暮なことは言わない。代わりにここでは、作品の主題(と私が考えるもの)にも触れながら、他のいくつかのシーンについて書いておきたい。

『街の上で』には、ながら見をしていたら見落としてしまいそうな、でも本筋にはそれほど関係ないのでまあいいかと思ってしまうような、何気ないシーンがたくさんある。
特に印象に残っていて、かつ好きだったのは、自主映画の控え室で青がイハに渡された衣装に着替えるシーンだ。「いつもの感じで座って本を読んでいてもらえれば(撮影は)それでいいので」と監督の町子に言われていた青に用意されていたのは、その日の青の私服と上下ほとんど同じ、青いTシャツと白のパンツだった。まさに「いつもの感じ」。誰もいない部屋で着替えようとしてそのことに気がついた青の驚きと困惑が、引きの画で、ほぼ後ろ姿のみで映し出されている。セリフはないにも関わらず、「え? これ? これ着替えるの? ほぼおんなじなんだけどw 意味あるのこれw」という心の声が聞こえてきそうで、可笑しくて可笑しくてたまらなかった。

他にもたとえば、撮影の練習として部屋で一人で本を読む様子を自分のスマホで撮影してみる(ガチガチの)青のシーンや、映画の冒頭で雪と別れた後、ライブに行ったりバーに行ったりしてから帰宅した青が、ふと雪の不在に耐えかねたように「ゆきー」と言いながら床に倒れ込むシーンなど、誤解を恐れず言えば、観た人に「それ、いるか?」と言われてもおかしくないシーンが、この作品にはふんだんに盛り込まれている。
ちなみに本作の尺は120分超えで、映画としてはそれなりに長い部類に入るだろう。そういう尺になったのはもしかしたら、ここまでに書いたような「本筋には一見関係のない、いるかいらないかわからないようなあまりに何気ないシーン」を、削らず、むしろそれこそが「主」であると言わんばかりに、丁寧に拾い上げ積み重ねて描いているからなのではないだろうか。
それは町子の言うところの「映画ってそういうもんなんで」という論理で容易にカットされてしまうような、取るに足らない日常の一場面。それを大事にしているのが『街の上で』という作品であり、今泉力哉監督作品なのだろうと思った。

そこで思い出したいのが、映画の冒頭に古川琴音さん演じる田辺さんの声で流れるナレーションである。

これは、とある映画に存在していたはずの映像
誰も見ることはないけど、たしかにここに存在してる
街の上で

冒頭ナレーションより

上記に挙げたシーンはどれも、青ひとりのシーンだ。誰にも見られていない。「この映画に記録されていなければ誰も見ることはなかった」と言える場面ばかりである。
つまり現実だとしたらそれはどこにも残らない一場面であるということ。どこにも残らないけれど私たちの日常はたしかに存在しているし、そこには映画になり得るような非日常も起こり得る。でもそれは誰かに目撃されるようなものじゃない。私たちはそれを人知れず経験し、そして忘れながら生きている。
平凡で、ドラマティック。そういう日常の尊さを切り取って残した作品なんじゃないかということ。

「変わってもなくなっても、あったってことは事実だから」

荒川青のセリフより

行きつけのカフェで、店主と移り変わる「街」について話す青のセリフが、ここへ来て効いてくる。変わりゆく街。大切な人の不在と変わりゆく関係。そして変わりゆく自分。それでもその時、「あった」ことは事実であり決して消えないということ。変わったもの、なくなったものへの肯定が、やさしく背中を包み込んでくれるようだと思った。

そういえば、この作品の「見せ場」の一つと言ってもいい若葉竜也さんが歌う『チーズケーキの唄』のシーンも、誰も見ていない。部屋に青ひとりである。大事なことは、実はだいたい誰も見ていない時に起こっているのかもしれない。青が言うところの、「センシティブな」ことが。

(カットされた青のシーンは)誰も見ることができないってことですか」
「そうですね」
「存在の否定じゃんか」
「でも映画ってそういうもんだから」

田辺さんと町子の会話より

これは完成した自主映画の上映会後に、観に来ていた田辺さんと監督の町子が交わした会話である。
田辺さんにとっては、映画のために青が一生懸命練習して、それを間近で見て手伝ったあの日があった上でのこの上映会だった。自分にとって「センシティブ」であった店長のことに関して、引っかかっていた胸のつっかえを、取り去るまではいかずとも少なくとも揺さぶって形を変えてくれたことも含めて、あの練習の日もそれを頑張っていた青も、きっと大事だったんだろう。

あんなに頑張っていたのに、なかったことにされる。「存在の否定」に憤る田辺さん。「映画だから」と突っぱねる町子。なかなかヒリヒリする場面だったが、何度目かにこのシーンを見た時、私は、この感想文の冒頭でも触れた、ラスト近くでイハが古着屋で青に「(カットされずに)出てましたよ」と言った意味がわかったような気がした。
それはつまり「存在の肯定」。イハにとってヘタクソな青のお芝居は「あったこと」であり、イハの中にそれが存在するということ。イハの「出てましたよ」は、田辺さんの「存在の否定じゃんか」に対するアンサーになっているのだと思った。

誰も見ることはないけど、たしかにここに存在してる

こうして考察してみると、映画冒頭のこのナレーションが、作品の主題であると疑いようがないように思えてくる。監督ご本人に聞かなければ本当のところはわからないし、聞いたとて「どう取ってもらっても構わない」と仰るような気もするけれど。
どの場面を切り取ってもこのナレーションがハマる。作品全体にこの言葉が響いている。そしてそれは、この作品を観た私の日常にも同様に。
作品とそれを観た人たちを包み込むこの「やさしさ」に気がついてから、私は一層、『街の上で』が大好きになった。

おまけ

こんな熱い感想を持って、たくさんある聞きたいこと、一つくらい聞いてやるぞ! という気持ちで、先日今泉監督のトークライブに行ってきた。
想像通り観客ととても距離の近い監督で、どんな質問にも気さくに、真剣に答えてくれていた。希望者はイベント終了後に交流会にも参加できた。もちろん参加した。なのに! コミュ力の足りない私は大勢の中で一音も発語できず、聞きたいことをまったく聞けないまま帰路に着いたのだった。
「イハちゃんに関するエピソードを教えてください!」というざっくりした質問だけは読んでいただくことができ、答えていただくこともできたのだが、質問が悪かった。こんな、4000字以上も書いてしまうほどに『街の上で』について考えていたのに。
でも、他にもたくさん興味深い質問やそれに対する回答、参加者の方々のお話も聞けて、監督にサインもいただいて、楽しい夜だったことに間違いはありません!(問題は私のコミュ力だけ)

再販でゲットした青くんTシャツ(洗濯後なのでしわしわ…)、そしてパンフに書いていただいた監督のサイン!!


#映画 #邦画 #街の上で #映画レビュー #映画感想文

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