野村克也監督のもとで野球できることの価値

コブ山田です。

ようこそいらっしゃいました。

今回は、一緒に働けることは価値になることについて、記します。

Twitterを見ていて、何回か"○○と一緒に働けることは福利厚生のひとつ"というフレーズがありました。
私は、(但し書きはつきますが)これに肯定的な立場です。

給与面は大きな要素ではありながら、一緒に働く人というものも影響度が大きい要素であり、新天地を選ぶ要素になるからです。
もちろん給与で生活を成立させないといけませんし、金銭面での優位性を最大要因として決断することは誤りどころか立派な選択です。否定する方がおかしな話です。
ただ、目先の金銭報酬より、将来にわたる価値獲得の可能性を選んだプロ野球選手がいました。

1995年オフの辻発彦(西武ライオンズ)です。

辻は37歳になっていましたが、この時に初めてのセ・リーグのチームであるヤクルトへの移籍を選びます。
このくだりは、Wikipediaに簡単な記述があるほか、以前ご紹介した辻の自著『プロ野球 勝ち続ける意識改革』に詳細な記述があります。
自著の方が信憑性が増しますので、それに基づいて記載します。48ページ以降です。

1995年オフに西武を戦力外になった辻は、前監督の森祇晶に今後の進路を相談します。すると森は、それ、野村に言ってみよう、親交があったヤクルト監督の野村克也に連絡を入れ、辻獲得を働きかけます。これが事の始まりです。
野村克也にとって別リーグで主力だった辻は魅力的な人材でしたし、逆に辻もセ・リーグでプレーする機会を望んでいました。
本当にお互いの需要と供給がピタッと合った例です。

ここでの辻の考え方・決断を詳細に見ていきます。私は、本当に素晴らしい、価値観押し付けたらダメだがこれはぜひ見習ってほしいと感じています。
辻はパ・リーグで10年以上プレーしたわけであり、当時37歳と引退している同学年選手の方が多い状態です。そうなると、自分の能力に伸びしろは少なく、できるだけ似た環境で最後の一花をと考えがちです。私も会社員として考えて、50歳以降になるといくらヘッドハンティングされても異業種に転職はさすがにハードルが高いと感じると思います。
実際、千葉ロッテも辻獲得を考えていました。当時のGMが、かつて西武監督であった廣岡達朗でした。廣岡、森と歴代の西武監督との関係が良好だったことがわかるエピソードです。
千葉ロッテなら同じパ・リーグであり指名打者制もある。他球団のピッチャーもわかる人が多く、その方が自身も好成績収めやすく年俸にも反映される可能性が高い。
こう考えそうです。

しかし、辻はこう言って千葉ロッテではなくヤクルトに移籍することを決断します。

「セ・リーグの野球を勉強したい」

と、指名打者がなくほぼ初顔合わせのピッチャーだらけのセ・リーグへの移籍を選んだのです。

憶測ですが、辻は高卒社会人でのプロ入りとは言え25歳と遅い部類に入る年齢でした。日本通運でプレーするも腰を痛めてプロ入りが遅れる。
悔しい思いをしていたかと思いますし、プロ野球選手になれた時の喜びはひとしおだったのでしょう。実際、後年の埼玉西武監督オファーも、快諾と言っていいリアクションでした。それだけにプロ野球界で長く生きていきたい、それに必要なのは別リーグでのプレー経験だとも考えた。

キャリアも晩年と言っていい状況の中、成長したい思いが出ているとしか言えないものだと考えます。

加えて、ヤクルトより千葉ロッテの方が高い年俸を提示していました。しかし、辻は、
「(給料安いぞという言葉に対し)それでも構いませんよ」
と答え、お金より経験(別リーグでプレー)を選びました。

この結果、辻は野村克也監督のもとさらに野球を学びます。ヤクルトの3番セカンドを務めた時期もあり、41歳までプレーすることができ、1999年に引退となりました。

引退後はそのままヤクルト、横浜のコーチを務めます。
ヤクルトに移籍したことによって、廣岡達朗・森祇晶・野村克也のもとで主力選手としてプレーしたというレアな経験ができました。

田端信太郎さんがライブドアとZOZOで勤務したことにより堀江貴文と前澤友作のもとで働いたという、多くの人がうらやむレア経験が積めています。
それに近いものがあります。

2004年限りで一度コーチ職から離れて2005年は解説業を務め、翌年のWBCでは王ジャパンのコーチを務めます。結果、世界一となりました。
WBCで王貞治のもとでコーチをしたことで仕えた名将はさらに増え、魅力的な経歴となったのでした。
そんな辻を引き抜こうと考えた人物が、中日ドラゴンズ監督の落合博満です。

なにせ、落合博満は、

「辻のいうことは絶対だから、辻に従ってやってくれ」

と発言しており、高く評価していることがわかります(『プロ野球 勝ち続ける意識改革』62ページ)。

落合のもと、2007年~2009年(2軍)、2010年~2011年(1軍)、2014年~2016年(1軍)に中日で指導者を務めます。

そうして2016年オフ。埼玉西武ライオンズの次期監督オファーが出て、辻もそのオファーを快諾したのでした。

私は、1995年のオフにヤクルト移籍を選んだことが本当に正解だと感じています。
千葉ロッテで廣岡達朗GM、江尻亮監督のもとでプレーすることも悪いことではありません。しかし、野村克也という南海での三冠王+ヤクルト日本一の名将のもと、自身の野球の幅を広げにいったことで、複数の名将に仕えてプレーしたという客観的事実ができました。
そして、この事実はレア経験として、長く有効なものとなります。2020年、野村克也死去の際、辻は教え子として報道各社からコメントを求められていました。

北野唯我さん『このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法』にも、

「転職の際に一番気になるのは、やはり給料だろう。だがいいか。迷ったら、未来のマーケットバリューをとれ」

と記述があります(182~183ページ)。

辻は、これを体現し、退団した西武ライオンズに監督として戻ってくるようにオファーを受けるまでになったのでした。
そのうちの、野村克也のもとでプレーできる、一緒に働けるということは、下がった金銭報酬を補う福利厚生機能を果たし、辻のマーケットバリュー向上につながったと私は感じています。

この辻の決断とその先を多くの人に知ってほしい。一般企業勤めの私たちにも大いに参考になる例だと思います。
ただ、"○○と一緒に働けることは福利厚生のひとつ"は、求人する企業側から直接大々的に言うことには反対です。
あくまでも定量的で価値の比較が容易な金銭報酬を第一にすべきで、"○○と一緒に働けることは福利厚生のひとつ"は、雰囲気を作って応募者にそう思ってもらうことが大事です。そうでないとやりがい搾取になってしまいかねません。

物理的な福利厚生の提供がどうしても劣りがちになる中小・ベンチャーだとそういった面をアピールしがちにはなりますが、金銭報酬の低さを正当化するためにこれを言うようになってしまうと、残念だなと感じます。

2020年以降の社会情勢激変でさらに転職が増える世の中となりました。どこで働いたかもですが、誰と一緒に働いたかも大きな要素になってきます。
人事担当者には幅広い経験を積んでいる人材をレア経験者として表立たせてほしいですし、私は金銭報酬も大事ですが長きにわたって有効になりそうな価値が得られるように日々考え過ごしていきたいです。

ありがとうございました。

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