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幸せに圧倒された話➀

医療従事者として,外出自粛,たびたび出張や東京などに行く人と会うのも自粛,自粛すると何を連絡したらいいかわからない。連絡したとて,向こうも自粛者。お互い躊躇いつつ空虚な慰めの言葉を交わし,仕事に疲れて連絡を交わすのもむつかしい。


元々別にそこまで動き回るタイプの人間ではない。バーンと旅行を連発するわけでもないし,コロナ前も基本は人の少ない,1店舗に2,3人程度くらいしかいないようなお店にいた。自分一人だと止まらぬ考えに惑わされ,飲み込まれ,そして非合理的な考えの合理的証明や,「正しくない」考えを「正しい」考えに合理的に証明してしまい,虚無,もとい諦念に至る。そのため一人でいないこと,雑音がある場所,顔見知り程度の人がいることは私にとってゆとりを生ませる空間であり,新しい考えを生ませる場であり,また自分が見ていない自分を作るすき間を生ませる,そんなささやかで大切なことであった。


人が何かをしている空間に自分があるということが,恐らく境界が作られて自己を守ることにつながっていたのだと思う。


さて表題の話に戻るが,そんなわけでコロナのおかげで,どうやら制限に苦しみ続けてさらに自身に制限をかけた。考えにすべて0をかけるようになり,ただのエゴと他者が存在することについての考えが格闘し,疲れ果てた。

ようやくワクチンの接種が終わり,そして自身が限界に達して何もできない状態から,少し何かをする状態になった私は,本当に偶然,「行ってもいいですか?」という許可をお店の人に貰い,そして久しぶりに移転してもなお大好きであった店に向かった。

一番人の入りが少ない曜日に,暖簾をくぐって入ると,「お,こんにちは,あはは!」と笑われた。

「まさか今日に。」 

本当に申し訳ないことに,当日,何なら40分前に電話した。たまたま近場にいて,たまたま思い至って,そしてその思いを0にかける前に電話をしたのだ。「行ってもいいですか」「全然。人いないんで」「でも,まんぼう(蔓延防止)ですよね」「酒,提供してますよ」「いや,今日はお酒飲まないですよ」「まさか」

昔から取り交わされた会話が,今も当たり前のようにできた。そして久しぶりに乗りと勢いで向かった。責め立てる考えを押しとどめ,椅子に座った。有り難いことにその日お客は最後まで私だけであった。

カウンターに座って,客対応をする店主の,なんでもない会話をして場を温めてもらった。そりゃもちろんコロナの話だ。緊急事態宣言,蔓延防止,給付金の減少,オリンピック,メディアの取り上げ方,海外のニュースとNHKの報道,政治…

そんなに知識がなくてもなんとなく話せる,たわいもない会話だ。頭をほぼ無にして,どこかで拾った知識や人の考えを使って言葉にする。「嫌ですねえ」という共有をしつつも,意外と店主は「この規模の店は,正直そこまで被害はないですよ」とゆとりを持たせてくれた。(1/n)


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