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The Emulator - ザ・エミュレータ - #41

5.6 シキソクゼクウ

 この学園で行う授業は基本的に様式化された学術データのインストールとその定着前後のフォローがほとんどだった。学園ではロストを起こさないことを指標としているため、インストールの順序やプロセスを重要視していた。様式化されたデータは重複部分も多く定着に非常に時間がかかる構造だった。そんなことは自分でやればいいだけのことで、みんなでそろってやるようなことではないとシンタロウは思っていた。しかし、インストールやそのフォローの授業とは別に、エミュレータの実習や様式化がまだ至らない部分の座学の授業は信じられないほど高度なものだった。

 例えば、エミュレータの基礎となっている物質の最小粒度についてだ。俺たちが知っている物理学のそれとは比べ物にならない粒度まで解析されている。そして、ここでは俺たちは全てマテリアル上の座標で表現されていることを再確認させられた。座標の位置を見れば、演算装置側の本体である自分が視認したことになるし、座標の位置が交われば演算装置側の自分の触覚として反応する。全てはマテリアル上で粒度と密度を変えているだけだ。俺たちを表現するフィジカルは『依り代』であり、結局のところグエンのようなポインタと変わりがない。演算装置と蓄積データの実態の位置とは何ら関係のない別の場所にポインタの座標が示されているだけだ。

 実際にはその座標にはマテリアルがあるだけで何もないのだろうか。『物質的なものは本質においてみな実態がなく移ろいゆく空である』ふと曽祖父が信仰していた極東の国の宗教の教理を思い出した。いや、そうであるならば、その教理はその逆もまた真だという。それならば、何もないはずのマテリアル上に見えているもの全てが現実で、結局それが俺たちの真実だということにもなる。どちらも同じことを言っていると聞いたことがあるがシンタロウにはよく理解できないことだった。

 もしかしたら、スカイラーが不安だと言っていたのは、そのことに関連があることだったのかもしれない。彼女が話す断片的な情報を聞いていたが、あの時は何のことかよくわからなかった。だが、要するに彼女が信じていた、人間が依って立つような価値観が『あの日』崩れてしまった、ということに不安を見いだしたのかもしれない。それは意味のない追及だ。どこかで人知の及ばないところの話だと割り切らなければならない。神の思し召しとしてそれ以上不用意に立ち入らずに思考を止めるのが正しい。神に祈りを捧げ、過ちを神に告白し赦しを乞い今日に感謝して生きるのは人間が生き続けるためには都合がよく効果が高いからだ。

 彼女は確か、拠り所になるような信仰や教理をもっていなかったはずだ。それが関係する可能性はないだろうか。価値観を再構築するために何かヒントになるようなものを見つけられれば、スカイラーが立ち直ることができるかもしれない。シンタロウはソフィアのPAに要約したこのことを送るとソフィアは、スカイラーは意外と繊細なのであり得るかもしれないといい、どう伝えるか考えておくという返答があった。そこからはソフィアの意思は見えなかった。アールシュやエヴァンス教授と異なり、ソフィアもまた宗教を持たなかったので意図を正しく伝えられたのか分からなかった。

 サンドボックス空間でベースフレームのみのエミュレータ空間を実体験することができた。この世界ではベースフレームの上にユニークとなるようにスキンを当てそのうえで人間として生活している。普段意識することはないが、このリージョンでは全ての人間が、その原理原則を理解した上でこの世界を生きている。そして、UCLー1や他の住居リージョンではエミュレータ外部とコンタクトがとられており、その共通の前提を元に新しいエミュレーションテクノロジーが次々にリリースされていた。

 最新の大型バージョンアップでリリースされる新機能はオリジナルの外観スキンと世界観つまり、パースペクティブをカスタマイズできるという。そしてそれは、他人がどんなスキンを当てているか、どんなパースペクティブを持っているかは関係がなく、パースペクティブが異なっているもの同士のコミュニケーションの場合、そのコミュニュケーションの内容自体が緩衝されるという。例えば、中世をベースとした剣と魔法のファンタジーのスキンとそれを肯定するためのパースペクティブを当てている人と、近代のサイバーパンクの世界を模したスキンとパーススペクティブを当てた人が会話しても不整合は起きずに緩衝され、相手も自分と同じスキンを当てているように見ることができるというのだ。

 そこでは表面上の事実も現実さえも抽象化される。目的がドラゴン退治なのか、暴走したAIとのデジタル戦争なのか、それとも物理学の講義なのか、そんなことはどうでもよいことになるということだ。大型バージョンアップのリリースは1週間後、UCLー1の本大陸の北エリアから順次展開される。

 他人とのコミュニケーションを緩衝すると聞いてシンタロウは違和感を覚えた。それはコミュニケーションとは逆だ。行きつく先はさらに細分化されて、いずれ分解できない個になる。そしてシンタロウが感じたそれは、以前サクラを自分自身だと感じたことと同じことのような気がした。だとしたら結局、コミュニュケーションとは他人を見て自分を認識しているに過ぎないのではないかと妙に腑に落ちて納得することが出来た。

次話:5.7 ワンフレーズ
前話:5.5 ネイティブとヴィノ

目次:The Emulator - ザ・エミュレータ -

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