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自分の気持ちを「よきところ」に

この間年明けを迎えた気がするのに、天気予報の最高気温欄に「30度」が現れるようになってしまった。薄暗さに心まで引っ張られてしまう私は、日の長いこの季節が嬉しいのだけれど、あっという間に2021を終えてしまいそうで少し震える。

いつもいつも考える。「やっていることは身になっているのかな」とか「今の自分でいいのかな」とかそういうことを。日々を慈しんで生活することと同じくらい、留まらず変化し続けていく自分の姿を求めている。吸収してはかたちにする、ということをどんどんしていかなければと思っている。振り返ってみると実感以上に良い変化が起きているし、そもそも変わらないこと自体人間難しいんだなということも思ったりする。だから、焦ったり落ち込んだりする必要はきっとないのに、何度も問い直してしまう。
「ちゃんと次へと進めてる?」

餅井アンナさんの日々がお手紙の形式で綴られている『へんしん不要』という本を読んだ。その中にこんな言葉があった。

私はこのひと月、とにかく必死に仕事をしていました。というか、まだ終わっていないので今も必死にやっているところです。(中略)
こういう状況で、自分に気持ちよく仕事をさせてあげるのはけっこう大変です。何かしらの進捗が滞っているときって、妙に自罰的な気持ちになったりしませんか?私はすごくなります。ご飯をお腹いっぱい食べたり、お風呂にゆっくり入ったり、睡眠をたっぷりとったり、気晴らしに外へ出かけたりの「よき行為」に対して、無用な罪悪感を抱いてしまう。(中略)
なので最近は歯を食いしばって、自分の気持ちをよきところに押し止めておく努力をしています。

無用な罪悪感を抱いてしまう。読みながら思わず「わかります…」と声に出してしまった。
細かな作業にしろ人生の道のりにしろ、確実に進めている手応えのようなものがないと、段々自分を責める方向に頭が動いてしまう。こんなことしてる場合なの…?と思ってしまうと、心身を満たす行いより、”がんばってる”時間を増やそうとしてしまう。わかりやすく無理がたたるので、そのうちうるさい頭痛や眩暈に再会し、休まざるを得なくなる。
そこまでいけば却って諦めがついて、何もしない休みをつくったりするのだけれど、いつも「自分を許そう」「甘やかそう」「だらだらしよう」という言葉を伴わせてきた。休む時のポジティブなキーワードとして使ってきたつもりだったが、冷静に考えると、なんだか聞こえが悪い。休むということは別に許可が必要なものではないし、怠惰だから休息をとるわけではない。ただ休みたいから休む、心地よさがほしいから癒す、それでよいはずなのにね。だから、「自分の気持ちをよきところに置いておく」という餅井さんの言葉に、今後は置き換えることにした。気づかぬうちに心をひとところに縛っているような表現は、やさしさを織り合わせて変換していきたいな。

会社員としての仕事、子どもを取り巻く社会との関わり、そして書くこと。どれも、ここからもう少し、新しい次元に足を踏み出したいと思っている。「学ぶ」をやった、「考える」をやった、「動く」をやった。どれもまだまだ十分ではないし、続けていくことに意味がある。そのうえで、ここからは「生みだす」ために両手を温めたい。気持ちが膨らむ今、なおさらよく寝てよく食べてよく笑いなさいよ、と自分に言い聞かせている。私が渇いていては、誰かの心を潤すことは難しい。そうよね?

頭は枕に、片手にエッセイ集を、心はよきところにおいて、5月最終週末を閉じていくことにする。



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