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なんにも持っていなくて、なんでも持っている

『おかえりモネ』をみている。
朝ドラは子どもの頃から私の生活の一部。タイミングの合わなかった幾つかの作品を除いて、20年近く連続でみている。

作品で取り扱う要素が少し変わってきたなと感じる。個人的には良い方の変化。モネは特に、今っぽいなと思う。「声を上げられなかったけれど心に潜んでいた想い」や「本当はもやもやするのに平気で済ましているようにみせたこと」に焦点が当たるようになっている。世の中で素通りされてきた感情が、きちんと拾われていく。救われる気がするのは私だけじゃないと思う。

以下、内容に少し触れます。

前後の文脈を含めて意訳をするけれど、「ちやほやされる側の、何も持たない私のような人間は、ただにこにこ笑ってればいい、そう思ってるんでしょう」という怒りの言葉があった。返されたのは、「自分を貶めるのはやめなさい。自分の実力で勝負できると、信じられるくらいになりなさい」という声だった。
そして、「傷ついた経験がある人は、強い。ハッピーに生きてきてしまった私にはそれがない」という言葉もあった。
「人は傷つく必要なんて、絶対にない。なにもなくても、どんな人も、そこにいてくれるだけでいいじゃない」と力強い言葉が返っていった。
そのまま私の中に落ちてくる。4つの言葉、どれも私の中に見覚えのあるものだったから。

悲しんだり切なくなったりしながらも、それがすべてではないと本当はわかっている。白か黒かで説明できるものは世の中実際少ない。視点が変われば思うことも変わる。誰かを癒す立場にも傷つける立場になり得る、自分に対してもまた然り。
私ってなんにも持っていない、と思う。でもそんなことないとも思う。傷つきやすい自分に凹む。でも大した傷ではないようにも感じる。何度でも繰り返している。頂点を、もしくは底辺を決めることなんてできないし、そもそもそんなことに意味はない。でも、ふとしたときに見えない何かと自分を天秤にかけている。沈む秤の差を埋めたくて、持ち物を増やそうとするのが私のいつものパターン。それはそれでいいのだけれど、虚しさのループは舞い戻ってくるので根本の解決にはならない。ああ、私、ずっと中途半端。

下り坂の気分になる出来事があり、そんな思いにまた囚われていたところにこの場面。そうか、自分の立ち位置や気持ちのやり場にざわめきを感じている人は私だけじゃないよなと思えた。柔らかな寛容さが、私たちには必要なんだよなとも思った。誰かから見た姿が自分の本当だと、紐づけてしまう必要もない。求めるばかりが充足ではないよね。足りていないように見えていても、そこにやさしさが宿ったりするよね。

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言葉に起こしたそのあとで。
子どもたちについて、だいすきな人たちと話す時間があった。ひっかかりを感じずに想いのままを口にできる存在。いろんな話をした、共有した、そして流れていって、残った。家に帰って眠って起きて、憑き物が落ちたような感覚になっている。大げさかな、でもそのくらいすっきりしている。思考の矢印が自分に向きすぎるときは、信じられる誰かと言葉を交わすのがいい。張りつめた糸が緩んで、偏りをばらけさせてくれる。

やさしくなった。
昨日の私より、今の私のほうがやさしい。
言葉に出会い、人に出会い、ほぐされていく。許して許されて、そうして織りなされた自分の心をまた受け止められたら良い。なあんにも持っていなくて、なんでも持っている。みんなそうだから、そのままでいいのだから。





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