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女神と、右手をひいてくれた人

12歳の冬、札幌の地下鉄の中で。

小学校の最終学年を迎えるころ、知人の紹介でフィギュアスケートを習い始めた。ちょうど「14歳の新星:真央ちゃん」の放つきらきらが全国に届いた時期で、お誘いを受けた親友と私は頬を薄桃にしてときめいた。北の地生まれとはいえ、スケートはほとんど初めて。譲っていただいた靴とコスチュームだけは一丁前、両膝のサポーターを心の頼りに銀盤の上をぎこちなく滑った。

ほどなくしてトリノオリンピックが開幕。テレビの先のトゥーランドット、青と水色のドレス、スタンディングオベーション。たぶん、「スポーツを観て胸が震える」初めての経験だった。覚えたての”ミーハー”という言葉は今の私を指すのかも、と子どもながらに薄っすら思った。それでもいい、この「東洋の女神」を憧れに、私はこれから頑張るのだから!

『荒川静香さん出るよ、どうする?』
感動の余韻が残るうちに、なんと、女神が出演するショーのチケットを手に入れた。きゃあきゃあ騒いで興奮して、親友とぴょんぴょん跳ねた。会場はいつも練習で使っている大きな体育館、座席は一番後ろの一番端っこだったけれど、声を張り上げ「しーちゃーーん」と叫んだ。
楕円状の銀色の世界、沢山のスケーター。月並みだけれど、夢をくれた。心を湧き立たせる経験、私もいつか誰かに与えられるかな。

胸をじゅわじゅわさせたまま、小学生2人は帰路につく。レッスンの時と同じ市営地下鉄東豊線。いつもと違うのは華やいだ気持ちと、ホームの人口密度。混んでるねえ、いっぱい観に来てたもんねえ。女の子たちの声は電車到着のアナウンスにかき消され、そのまま急かされるように扉の中に押し込まれた。びっくりした、12年の人生で一番ぎゅうぎゅうだった。

上背が30センチも高いような人たちに隙間なくぴったりくっつかれ、2人は目をまんまるにした。それでもぎりぎり腕を組んでじっと立つ。
急に嫌な音をしてブレーキがかかり、私たちは背中側へ大きく揺れた。焦った瞬間、親友の左手と私の右手を誰かがぎゅっと引いてくれた。

すべすべの、ふわふわの手をした女の人だった。お母さんよりは年上、おばあちゃんよりは若い、色白の穏やかな顔した人たちが子どもの手を握ってくれていた。
「大丈夫だよ、おばちゃんたちにつかまってなさい」大きな笑顔だった。大きな、としか言いようのない、あの空間でなによりも信用できる笑顔だった。ハリのない柔らかな手は不思議なくらい力強く、その手に守られていると、実は自分がとても心細い気持ちでいたことに気がつく。「はい」とだけ答えて、そのまま数駅揺られていった。女の人たちは何も言わず、私たちもただ手を握ってもらっていた。大勢の人と共に駅を降り、一言だけのお礼を伝えて、おばちゃんたちとはそのまま別れた。

親友とは「いい人たちだったね」としか言葉を交わさなかったけれど、生のしーちゃんを見たときとは違うどきどきを覚えたのは私だけじゃないと思う。"見知らぬ人から守られた"という経験は、子どもの胸に小さな感動を残した。あのふわふわの手と、白い蛍光灯の車内で見たおばちゃんの顔は、ショーの思い出といつもセットで蘇る。

「気づかぬうちに守られていた」ということを、子ども時代に実は山ほど経験しているのだと思う。その視線を、やさしさを知らず、平和に通り過ぎてきているのだろう。
そして同じくらい、「曝される」ということも経験しているのだと思う。幼さゆえの限られた世界、知っている危険も数少ない。あの日私たちは、子ども2人で夜20:30の満員電車に乗っていた。もしかしたらの事態も隣り合わせであったかもしれない。

けれどショーの記憶は光るままに持ち帰られた。安心を行動で与えてくれた人がいたからだ。手を引いてもらわなくとも、転ばずに済んでいたかもしれない。でもあの手がなければ、心に生まれたきらきらは熱量を落としていたのではないかと今でも思う。
おばちゃんのやさしさは伝導した、
私の右手をつたって。

小学校卒業と同時に関西への引っ越しが決まり、必然的にスケートはやめることになった。女神への道は残念ながらそこで絶たれたけれど、憧れは消えない。滲んだやさしさもあの頃のまま。


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