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ヨーロッパ旅行記、23年8月

 この夏、約2週間、ドイツ、スウェーデン、そしてデンマークへと鉄道と飛行機で旅をした。海外旅行は人生で2度目、約十年ぶりのことだった。その間、いくつか作家とゆかりのある場所に立ち寄った。自ら訪ねた場所もあれば、意図していなかったところで偶然出くわしたものもある。今回はそうした場所を紹介するつもりで、少し旅の思い出を書いてみたい。
 ぼくたちは、成田を経ち、フランクフルト国際空港に到着した後、鉄道でマンハイムへ、マンハイムで乗り換えてまずはハイデルベルクへと向かった。
 ハイデルベルクには有名な大学もあり、学生のような若い人たちも多く、川沿いに集まって音楽を流したりしている。観光地として有名なので、色んな国の人が来ているし、日本人も結構見かける。
 朝食後、ネッカー川沿いをハイデルベルク城方面へと散歩した。城とは川を挟んで向かい側にある山の中腹まで登る。ここには「哲学者の道」と呼ばれる通りがあり、過去にヘルダーリンやゲーテが散策したという。途中、ヘルダーリンに関する石碑を発見した。
 ハイデルベルク城の敷地内にはゲーテの像があるほか、ゲーテがいかにこの場所からインスピレーションを受けたかという説明書きなどがある。

ヘルダーリンに関する記念碑
ゲーテ像


 ハイデルベルクで2泊した後、高速鉄道に乗り、ヴュルツブルクを経由してバンベルクへと向かった。バンベルクは歴史的な建造物の残る町で、旧市街は世界遺産に指定されている。ハイデルベルクと同じで観光地として賑わっている。この町にはE.T.A.ホフマンが、1809年から1813年まで暮らしたという家がある。ホフマンはバンベルク劇場で指揮者を務めながら、作曲活動を行った。作家として売れる前のことだという。後にホフマンが発表した『牡猫ムルの人生観』は夏目漱石の『吾輩は猫である』の元ネタと言われることもある。

バンベルクの街並み
E.T.A.ホフマンが住んだ家


 バンベルクで1泊した後は、ベルリンへ向かった。ベルリンは大都会ということもあるが、はっきり言って汚い街で、人も多くて騒がしい。ロンドンに行った時も感じたが、都会の雰囲気はどこも一緒で、東京ともさほど変わらない。
 ぼくたちは公園を散策しながら戦勝記念塔へと向かった。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』で天使が舞い降りる場所だ。検索していれば一発でわかることなのだが、ぼくは映画を観ただけでカラー写真を見たことがなかったので、まさか頂上にある女神像が金ピカだとは思っておらず度肝を抜かれた。それからカフェによって軽食をとるなどし、電車でアレクサンダー広場へと向かった。
 ここは、アルフレート・デーブリーンの小説のタイトル(そしてその舞台)にもなっている。いくつかの大きなショッピングモールがあり、どこの店も人で溢れている。ガード下には路上生活者がいて、辺りは排泄物の臭いがする。女の子ふたりがアコースティックギターを抱え、道端でホワイト・ストライプスのカバーを演奏している。日陰となる場所が少ないうえに、この日は32度を超える暑さだったこともあり、疲れ果てたぼくたちは再び鉄道に乗り、都会の喧騒を脱出した。

戦勝記念塔
アレクサンダー広場駅


 ベルリン中央駅から電車で約30分、ヴァンゼーという湖に向かった。その湖畔にハインリヒ・フォン・クライストの墓がある。数カ月前に『ミヒャエル・コールハース』を読んで感動したばかりだったので、散歩がてら墓参りしたいと思ったのだ。
 クライストが『ミヒャエル・コールハース』を書いたのは今から200年以上も前のことだ。フランスではナポレオンが皇帝として在位しており、日本では伊能忠敬が測量を行っていたような時代だが、今読んでも充分面白いのだからすごい。『ミヒャエル・コールハース』は、その序盤と中盤以降で語りのトーンが大きく変化する。物語の序盤、コールハースが領主の不正に耐え忍ぶあいだ、語り手はコールハースの心理および思考を追跡するのだが、そのコールハースが妻を殺されてからは、もはや内面描写など不要とばかりに、復讐へと邁進するコールハースの行動のみをジャーナリズム的に記述していく。この極端さが笑える。決起してから、武装、襲撃までの展開が早すぎるのだ。それだけにコールハースがぶちギレていることは一目瞭然、とにかく一刻も早く領主をぶち殺すという意志を読者は感じ取る。
 作品に作者が現れると考えるなら、クライストがとにかく曲がったことが許せない性格だったということは、一読して推察できる。
 クライストはその最期、ヴァンゼーのほとりで人妻ヘンリエッテと共に拳銃自殺した。石碑にはこんな風なことが書かれている。「陰惨で困難な時代を経験し、歌い、苦しんだ姿がここに輝いた」(グーグル翻訳)

クライストの石碑
ピストル自殺の地、ヴァンゼー


 翌朝、ベルリンの空港から飛行機に乗り、ストックホルムのアーランダ国際空港へ移動した。
 スウェーデンといえば、ぼくは半年ほど前にスウェーデンの映画を観たばかりだった。パルム・ドールを受賞したリューベン・オストルンド監督の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』である。この映画では、世に溢れる数多の偽善が描かれるのだが、ぼくが感じたのはスウェーデン国民のモラルがまったく日本国民のそれとは別次元にあるということだった。偽善が偽善として見破られるためには、その中心軸となる善悪の基準が、広く観客の中に共有されていなければならない。日本においては、もはやその前提が通用しないので、この映画に描かれるブラック・ユーモアはユーモアとして機能しないのではないか、とぼくは思った。つまるところ、あの映画は、人間の未熟な部分を抉り出しているようでいて、こちら側からみれば、むしろスウェーデン社会の成熟度を表すものになっていたということだ。ストックホルムに到着し、ぼくはその映画を観た後の複雑な劣等感を思い出した。
 ストックホルムにいる4日間の内、1日は博物館と美術館を巡った。中でもティールスカ・ギャラリーは素晴らしい(そしてちょっと奇妙な)美術館で、展示されている作品や部屋など、何もかもが面白かった。ここには地元スウェーデンの有名画家の作品のほか、多くのムンクのコレクションがある。ムンク部屋の中でも一際目をひいたのがニーチェを描いた巨大な油絵だった。他のムンクの代表作──『叫び』、『不安』、『接吻』などと比べると妙な色彩の明るさがあるが、ニーチェの視線はその風景の外に向いているように見える。
 美術コレクターであったアーネスト・ティールは熱心なムンク作品の蒐集家だったらしい。パトロンと呼んでも良いのかもしれない。別の部屋にはムンクがティールの妻(?)を描いたというスケッチも飾られていた。

“フリードリヒ・ニーチェの肖像”  エドヴァルド・ムンク


 ストックホルムから鉄道でルンドへ。ルンドからマルメを経由してコペンハーゲンへと移動した。
 コペンハーゲンにも4日ほど滞在したが、2日目にルイジアナ近代美術館へ足を伸ばした。ニコ・ピロスマニの企画展が開かれており、それを目当てに出向いたのだが、なんと当日はLouisiana Literatureという文学祭が開催されており、村上春樹のサイン会があるということで大変な賑わいを見せていた。
 この文学祭は4日に渡って続き、複数あるブースで朗読やライブや公開インタビューなどが行われる。村上春樹のほかに招待されている作家たちも世界的な人気作家ばかりで、ノーベル賞受賞者でもあるウォーレ・ショインカや、アリ・スミス、ジョイス・キャロル・オーツ、イアン・マキューアンなど。どれも名前を知っていたり、学生時代に講義で読まされたりした作家たちだった。イアン・マキューアンについては、二十歳頃に短篇集『最初の恋、最後の儀式』を読み、その中の『夏の終わり』("Last Day of Summer")という短篇に感動したことを覚えている。その頃、ぼくは三島や川端をよく読んでいて、そうしたものを文学だと思い込んでいた節があるので、同じように残酷で耽美なマキューアンの作品に感動したのかもしれず、今読んでどう思うかはわからない。
 ぼくが行った日は午前中に村上春樹のサイン会、午後にはアリ・スミスとジョイス・キャロル・オーツの公開インタビューが予定されていた。インタビューはテントの中に作られたステージ上で行われる。観客席の整理券を配っていた様子だが、テントの中の様子は外に設置されたスクリーンで同時中継されており、会場の後ろの丘の上からインタビューを聞くことができた。ジョイス・キャロル・オーツはオーストリアの作家・ジャーナリストのエヴァ・メナッセと共に壇上に上がっていた。印象に残っているのは最後の質問だ。
 インタビュアーは「文学は政治的なものだと思うか」とふたりに質問を投げかけた。メナッセが「どうしても政治的にならざるを得ない」というような旨の発言をし、オーツはそれに同意したうえで、「しかし、文学というのは政治的である前に人間的なものだと思う」というようなことを答えた。「なぜなら、文学は人間の欲望(Desire)を扱うものだから」※と彼女は言った。
 ※ぼくの乏しい英語力によるヒアリングのため不正確であるかもしれません。公式サイトを見ると、過去のインタビュー音声がPodcastにあげられているようなので、今回のインタビューも後々聞けるようになるかもしれませんので、気になった方はぜひ探してみてください。

ルイジアナ文学祭
文学祭の様子


 最後に、まったく関係ないのだが、トイレの話をしたい。ぼくは小さい頃から下痢と腹痛に悩まされてきたので、トイレに関しては日本に暮らしていても困ることが多かったし、正直、大人になってからも何度も漏らしかけたことがある。
 その点、ドイツもデンマークもスウェーデンもトイレが有料なのは最悪だった(行く前からわかっていたことではあるけれど)。特にドイツは酷かった。ぼくが初めて公共のトイレを利用したのはハイデルベルク駅が最初だった。小銭を入れるとゲートバーが回転して中に入れる仕組みになっていた。
 利用者から金を取るからには、労働者には適正かつ充分な賃金が支払われており、さぞかしトイレも清潔に保たれているのだろうと思ったら大間違いで、4つあった個室の便器のうち3つは、水が流れず詰まったままで全部糞が残ったまま、ゴミも至るところに散乱しており、とてもじゃないが使えたものではなかった。残りの1つも便器には汚れがこびりついており、ぼくは必死に腰を浮かせたまま用を足した。
 また、ベルリンのティーアガルテンを歩いていた時にどうにも小便を我慢できなくなり、公衆トイレに入ったところ(ここは無料だった)、また衝撃的なトイレに出くわす。そこには小学校にある手洗い場みたいなシンクが備えつけてあった。シンク台は少し傾いていて、そこに向かって横に並んで小便をすると、排水口に向けて尿が流れていく仕組み(仕組みというほどのものでもない)になっていた。こうした経験が衝撃的だったので、その後は極力公共のトイレは使わないことに決めた。
 海外に行くと、翻って誰しもが自分の暮らす社会とその環境について考えることになろうかと思う。ぼくもそうだった。10年前にイギリスに行ったっきり国外旅行をしてこなかったこともあり、今回の経験は色々と新鮮だった。そこでひとつ、ぼくはある感想を持った。それは、西欧社会のシステムは別に日本人が憧れるようなものではないということだ。
 ヨーロッパで働いたことがあるわけではないし、2週間ほど旅行しただけで何がわかるのかと言われればその通りだが、少なくとも目に見える生活の部分では日本の方がはるかに多くの人が豊かさを享受できているという気がした。(その豊かさは現在徐々に失われようとしているのだが。)
 ベルリンにも──そしてコペンハーゲンやストックホルムにさえも──路上生活者はいた。日本の場合、かれらは公共のトイレを使用することができる。しかし、向こうの場合は小銭かクレジットカードがなければ便座に座ってすることさえできない。かれらは道行く人々の前で小銭をくれと握りしめた紙コップを降っているが、キャッシュレス化した社会ではもはや小銭を持ち合わせている人の方が少ない。(このくだりは前述したオストルンドの『ザ・スクエア』にも登場する。)実際、どこの都市も(特にベルリンは)街中を歩いていて排泄物の臭いを感じる瞬間が(東京よりもはるかに!)多くあった。
 ホテルに泊まっている間、エレベーターで居合わせたおばさんがあくびをし、その後こちらに「失礼」と挨拶してきたことがあった。こうしたマナーにも表れていると思ったのだが、ヨーロッパ社会というものは、長い年月をかけて、排泄のみならずありとあらゆる生理現象を目に見えるところから排除してきたのである。
 しかし、目に見えなくしたからといって、それが無くなるわけではない。トイレに金を取る社会のどこが先進的なのか、とぼくは文句を言いたくなった。

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