加藤智大『解』(批評社)を読んで

加藤死刑囚は私と同郷で、1つ下の学年で、小学校、中学校と同じだ。私は違う学年の人と関わることはほとんどなかったので直接の面識はないが、1つ下の学年に混ざって良く遊んでいた同級生は「あの事件の顔は、本当にカトウだった」と驚いていた。

事件で傷を負った方、亡くなられた方へ、心よりその傷および心のご快復と、ご冥福をお祈り致します。同時に、それだけで風化させてはいけない内容だと感じ本書を手に取りました。

それを前提で敢えて表現すると、「加藤死刑囚も私も、そんなに変わらない。」である。違ったのは、たぶん3歳くらいまでの環境と、親への思いの力で社会に思いとどまる力が強い、ということくらいで、本当にそれだけだと思う。だから親がこの先他界したら、私もどうなるかわからないようなところもあるといえる。加藤死刑囚は書いている。「私はどうして自分が事件を起こすことになったのか理解しましたし、どうするべきだったのかにも気づきました。それを書き残しておくことで、似たような事件を未然に防ぐことになるものと信じています。」と。帯にもなっているこの文。私の中にも加藤死刑囚と近い心のメカニズムがあると感じたので、同じようにカッとなったり事件を起こしたりしないようにしっかりと読み込む。

2008年あたりって、私達の世代にとって(他の世代もそうかもしれないけど)やりずらい時期だったと、振り返って感じます。社会人になって数年が経ち、社会と自分の繋がり方などを模索するも、何が正しくて間違いなのかの判断基準も自分の中で曖昧なまま、とにかく毎日が日銭稼ぎになりやすく、私も加藤死刑囚と同じようにローンとかサラ金とか、自己肯定感を叩き潰すどろ沼に陥ったりして大変でした。加藤死刑囚は私に比べたら友達も多くコミュ力もあるように本を読んでいて感じました。読めばわかるけど、ほんのちょっとのきっかけで、事件は起こらなかったかもしれないと、本当にそう感じる。加藤死刑囚と私の差はほとんど無い。私は親との繋がりが深かったことと、2005年時点で『I』というもの(講座、コンサート)に出会い定期的に行っていること、その先生から助けられたことが大きいこと等、違いはそのくらいだ。その『I』の中にも社会があり、いろんな人がいて、代表者はあまりに遠い存在のために、嫌な気持ちとなることもしばしば。やっぱり加藤死刑囚との心の差はそんなにないと、私は感じてしまうんだ。

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社会に人との繋がりを見出しにくい

そんな風に私自身と加藤死刑囚を重ねてみても、この先の社会をより豊かにしていく一歩にはなりにくいだろう。私や加藤死刑囚という個人がいて、それと同時に個人が大なり小なり集まって出来る『社会』というものが成り立っていることをすら、私はここ10年たらずで自分の目で確認した。個人は社会の中で成り立っている。だから個人がそれぞれ幸せに生きるために、社会を良くしよう、とみんな活動しているんだとやっとわかった。そこにはもっと複雑にいろんなものが関わり合うけど、とにかくその社会自体が人間らしく優れたものであれば、本来のパイプも繋がりやすいはず。そうでないから、パイプも断たれやすい。

事件から13年の時が経っている。私も40歳になったし、加藤死刑囚は39歳となる。と、いうことは、13年前の私達と同じ年齢の人たちが、現在新しく登場しているということだ。ごく当たり前のことなんだけど、27歳くらいの頃、私は馬鹿だからそんなことを考えもしなかった。思いつきもしなかった。特に私は一人っ子で親戚も年上がほとんどなので、そのくらいの年の頃は「なんかカオの口元に法令線が出てきたな」「なんか最近恋愛の射程距離に年下が入ってきたな」というくらいしかぼんやりと時が経つことを感じていなかった。しっかりものの長女だったり、親戚に年下が多かったりする方であれば、恐らくもっと早くに、自分よりも年下の人たちが登場してきて、社会を構成していくという図がしっかりと見えるのだろう。

年を重ねてきてやっとわかってきたんだけど、今から13年後に私は53歳になる。そうすると今27歳の人は、40歳になる。今14歳の人は、27歳になる。なんか当たり前のことなはずなんだけど、そのイメージがつかめるようになってきたのが本当に最近。その気付きの遅さを嘆いても仕方ない。とにかく年齢のスライドを考えると、先に生まれた方が、後に生まれた人の生きていきやすい世の中をつくる必要があるのではないかと自然と感じてしまう。だからこそ(年齢スライドの件から生じる気持ちではないにしても)加藤死刑囚も、「この先同じような事件が起こらないように」と命が亡くなることと隣り合わせの状態でこの本を書いたはずだ。そのことはひしと感じ取れる。

読んでいて、不器用ではあっても真底に流れる優しさや誠実さを感じ取れてしまうから余計に辛い。幼い頃に転んだ老婆に声をかけて傷つけられた体験を機に、人自分を切り離したという記載があった。その気持ちも私はわかるつもりだ。みんなが助け合おう、良い世の中をつくろう、と簡単にいうけどそれはたやすいことでない。私も幼稚園に上がるころに、社会で生きていくことは周りにいちいち共感しないことだと学んでしまった。

その共感こそが、本当は人間には大切なことなんだけど、なかなかそれを身につけられる社会ではなかった。

こんなに、自分とそれほど違うとも思えない加藤死刑囚が、自分とは違う未来を生きることになったなんて信じられない。(一説には、あの短時間であれだけの人数を殺傷するなんて不可能だから、何か隠されているのではないかという話題もある。そして本人は「自分の言ったことと報道されていることの違い」も本の中で触れている。)

自分だって一歩何か道を違えば加藤死刑囚のようになるかもしれないし、また被害者の側にだって成り得る。とても危うい世界を生きている。


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