見出し画像

貧富の差による差別

私は小さい頃自分の友達がお金持ちかお金持ちじゃないかなんて
考えたことはほとんどなかった。友達と遊ぶのにそんなことはどうでも良かった。

でも大人になった途端、相手の裕福の度合いで人付き合いを判断する。
私の実家は特に貧しくもなく、裕福でもないいわゆる中流階級だ。
そのおかげか裕福さで差別された経験は日本では一度もない。

しかしアンティグアでは差別された経験が数回ある。
最初はなぜ差別されたのか分からなかった。相当ショックだった。

まずは長男と同級生のお母さんとのお話。
私はアンティグアの学校制度について無知であり、旦那の方がよく知っているので
どこのプリスクールに行くのかは旦那が決めた。
アンティグアでおそらく1番保育料の高いプリスクールを選んだ。

そこに子供を通わせる人は経営者が多く、みんなどこかお高くとまっている雰囲気があった。アンティグアに来たばかりで、知り合いもいない私に気軽に声をかけてくる人なんていなかった。
そんな中、唯一気さくに声をかけてくれる人が一人だけいた。息子と同じクラスにいる子のお母さん(以後Tさんとする)だ。Tさんとは連絡先も交換したし、誕生日パーティーにも数回呼ばれた。やっと気の合う人と出会えたと思うと嬉しかった。

息子がそのプリスクールに2年目に突入する時、義母との同居生活が上手くいかなくなり一軒家を借りて住むことになった。そうすると、長女の私立小学校の学費、家賃、お店の家賃など出費が重なり、息子をプリスクールへ預けることを断念せねばならなくなった。

ある日、旦那に「息子はもっと男友達と遊ぶ必要があるからTさんに電話して遊びに行く日を決めたら」と言われた。旦那の親戚の子供は女の子が多くて、息子は断然女の子と遊ぶ回数が多い。それを懸念した旦那の提案だった。
最初はずっとしぶっていたのだが、何回も頼まれると断れなくなった。Tさんに電話をかけるといつものように気さくに電話に出た。「あの〜ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と用件を伝えようとした直前に「あ、今からちょっと出かけるから後で掛け直していい?」と言われ、私もなんの疑いもなく、「そっか、いいよ〜」と言って電話を切った。それから電話がかかってくることは一切なかった。

最初はなんで掛け直してこないんだ?私何か悪いことしたっけ?とずっと考えていた。悪いことをした覚えは一切ない。よ〜く考えると以前whatsappでのやり取りで思い当たる節があった。まだ義母と同居をしている時にTさんに「どこに住んでるの?」って聞かれたことがあり、その義母の住んでいる地名を教えたことがある。アンティグアでは住んでいる場所でだいたいどの程度の身分か分かる。というか勝手に判断される。義母の住むエリアはローカルの人が住む場所で特別貧しいわけではないが、裕福なエリアでもない。つまりその地名と、息子が同じプリスクールから抜けたことを判断材料に、私たち一家は一緒に遊ぶ身分の人ではないと思われたのだ。以前はあれだけ親しくしてくれていたのに、裕福でないと分かると掌を返すように拒絶された。身分で差別をされたことのない私にとってはかなりショックな出来事だった。


2回目は今年の3月末。コロナがアンティグアに上陸したぐらいの時だ。
バーブーダ島とアンティグアのすぐ側にあるモントセラトで撮影されたハリウッド映画の試写会のイベントがアンティグアで開催されることになった。
旦那が主催者と知り合いだったため、イベント用の絵の作成を頼まれ、旦那と私は試写会に招待された。
試写会は招待者のみ参加できるシステムで、招待者は総理大臣や政治家などアンティグアではお金持ちとして名を馳せている人ばかりだった。
その中の一人に銀行を所有している夫妻がいた。奥さんの方は何回も会ったことがあるし、会えば普通に会話できる人だ。しかし向こうが私たちに気がついても自ら話しかけてくることはなかった。お互いに距離が近くなった時、私から一応挨拶だけした。"How are you?"ってね。そしたら"good"と返事をしただけで会話を続ける素ぶりは一切なかった。以前の経験からあ、またか。と気付いた。お金持ちが集まるパーティーの最中にお金持ちでない私たちと話すことを恥じているのだ。きっとスーパーや街中で会えば普通に話をするのだろう。もちろんそんなこと関係なしに話しかけてくれる知人もいたし、みんながみんなそうであるわけではないが、そんな表面だけの関係なんてこっちから願い下げだ。

アンティグアでは全てのものが身分の判断材料となる。どこに住んでいるか、何の車に乗っているか、家はどれくらい大きいか、子供はどこの学校に通っているか、移住した最初の頃は現地の友達を作りたいなと思っていたが、今なんて作る気もなくなってしまった。いつどこで何を理由に輪の中から外されるかは分からない。「人を簡単に信用しないこと」はここで生活していく上でとても大事だ。

差別されて良い思いは決してしないが、この経験はあってよかったと思っている。
嫌な思いをした側の気持ちなんて経験してみないと一生分からない。旦那が黒人だという理由で嫌な思いをしたことも沢山ある。でも結局そういう経験が私を弱者目線で物事を見るようにし、世界の様々な社会問題に目を向けさせた。もし私が裕福な白人と結婚していたら、私も私を差別した人と同じように弱者を差別していたかもしれない。貧乏になること、差別されること、社会的に弱者であることは辛い。でもその辛さから学ぶことは沢山あって、その分心は鍛えられる。お金持ちになって見返してやろうと思う人もいるだろうけど、私は自分よりもさらに下の立場の人に何ができるかを考えたい。


最後に貧富の差という話題にピッタリの映画を紹介したい。
Netflixの"The Platform(ザ・プラットフォーム)"という映画だ。

ざっくり説明すると最上階である0階から333階まであるタワー施設があって、
自分がどの階に配属されるかは運だ。0階に近ければ近いほど美味しいご飯をたらふく食べることができる。しかし下に行けば行くほど食べ物は残っておらず、空腹に苦しむ人は生き延びるためルームメイトを襲い食べるという異常行為をし始める。

この映画は今の人間の状況を表していると思う。
自分が裕福な家庭に生まれるか、貧乏な家庭に生まれるかはサイコロを振ることと同じ。金持ちの人は自分を満足させることに必死で貧しい人には目もくれない。一方貧しい人たちはその日の食べ物を確保するのにも精一杯で、盗みや殺人といった犯罪を犯してしまうこともある。映画の中で言えば、もし上の階の人が下の階の人のことを考えて自分に必要な分だけ取れば、下の階の人にも食料が行き渡るのだ。つまり、もし運よく裕福な家庭に生まれたのならばその運を分け合う。そうすれば貧しく生まれた人の苦労もきっと軽減されるだろう。
とは言ってもこの世の金持ちはそんなことを考えることさえしないので、こうして現実に貧富の差というものが生まれてしまっているのだ。

人を苦しませるのも人であり、人を救えるのもまた人である。
人を救う人がもっともっと増える世界になってほしいと思う毎日だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?