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「八葉の栞」第一章 前編

あらすじ
人の本意を読み解く探偵・藤堂茉莉花と、記憶を書き起こす不思議なネコ・ジョシュは、白桜町の商店街に小さな探偵事務所を営んでいた。
ある日、失踪した婚約者を追う清宮涼介が事務所を訪れる。涼介の婚約者・はるりは結婚式の1ヶ月前に突如姿を消し、彼女を知る人々は皆その記憶を失っていた。依頼の解決には至らなかったが、涼介は彼女の手がかりを得るため探偵アシスタントとして働き始める。
レコード店、食堂、古書店…商店街の様々な依頼を解決する中で、はるりが他者から忘れ去られる能力『うたかた』を持つ存在であることが判明する。
存在の意味を問いかけ、儚い記憶を追い求める、"つながり"の物語。


4月5日

プロローグ

桜舞う川のほとりにひとり、私は佇んでいた。
柔らかな風が吹き抜け、薄紅色の花びらが髪に絡まり流れる。
見上げると、桜並木が歌うように揺れている。
雨のように降り頻る花びらが、辺りを春色に染めていく。

ふと、春の向こうに人の気配を感じた。
目を細めて前を見つめると、遠くにぼんやりとした黒い影が浮かんだ。
名状しがたい不安が胸に芽生える。
影が大きくなるたびに、不安もまた膨らんでいく。

それなのに、暗い不安の真ん中に、微かに輝く懐かしさを感じる。
矛盾した思いが込み上げて、胸が苦しくなる。

影が立ち止まり、それが、大きな男の人なのだとわかる。
太陽のような温かい香りがした。
嗅いだことがある匂い。私が、きっと好きだった匂い。
こんなに近くにいるのに、彼の顔がよく見えない。

私は彼を知っている。知っているはずなのに、思い出せない。
不安が悲しさに代わり、胸を締め上げた。
希望のように感じたはずの懐かしさが、悲しみを一層深くする。
熱い涙が溢れ出た。

不意に強い風が吹き、舞い散る花びらと私の涙を攫って、雲ひとつない空の彼方へと飛ばしていった。

3月25日

第一節

カーテンが開く音がした。
厚い雲の隙間から、穏やかな春の朝日が射し込む。

午前5時57分。清宮涼介きよみや りょうすけはアラームが鳴る前に目を覚まし、広いベッドから起き上がった。
軽くストレッチをしながら、明かりが灯る洗面所へと向かう。
冷たい水で眠気を払い、優しく口をゆすいだ。清潔感ある洗面台の鏡には、引き締まった彼の顔が映っている。眼の下には薄い隈が浮かんでいた。

キッチンに入ると、芳醇なコーヒーの香りが広がっていた。
涼介はマグカップに熱いコーヒーを注ぎ、オートミールにフルーツとナッツを添えて、手際よく朝食を整えた。

涼介の部屋には、ダブルサイズのベッドやソファ、スマート家電がバランスよく配置されていた。
彼は便利な自動化を取り入れながらも、部屋の隅々に置かれた観葉植物への水やりだけは、毎朝欠かさず自らの手で行っていた。

朝のルーティンを済ませ、涼介はランニングウェアに着替えて部屋を出た。ジョギングも彼の日課だった。足音が響かないよう、ゆっくりと階段を降りていく。マンションの外に出ると、春を告げる鳥の鳴き声が聴こえた。

涼介の住む白桜町はくおうちょうは、四季折々の美しい自然に囲まれた静かな町だ。町の中心には大きな商店街があり、地元の人々が集う個性豊かな店舗が軒を連ねている。

彼は商店街の脇道から町を南下した。町の南には区役所があり、その先には『白桜町南』という地下鉄の駅がある。さらに奥には高級住宅街が広がり、そこを抜けると瑞善寺川緑地ずいぜんじかわりょくちという都立公園に出る。

朝の光に包まれた緑地の遊歩道を、涼介は規則正しいペースで駆けた。
澄んだ空気が、肺に心地よく流れ込む。
風に揺れる木々の葉音、川のせせらぎ、鳥のさえずりが耳をくすぐる。
時折、すれ違う人々が涼介に軽く会釈する。彼もそれに笑顔で応じた。
走るたびに心と体が、清々しい活力に満ちていった。

川沿いの遊歩道をしばらく走ると、左手に瑞々しい桜の並木が姿を表した。この季節は桜の花弁が咲き乱れ、澄み渡る川の水面に美しい春の情景を映し出す。桜並木の中でもひときわ大きな千年樹『水鏡桜みかがみざくら』が、その光景の象徴として佇んでいた。

水鏡桜は瑞善寺川緑地を代表する大樹だ。そして、涼介の心に深く刻まれた場所でもある。この桜を見上げるたび、彼はノスタルジックな感傷に、胸が疼いた。

ジョギングを終えた涼介は、白桜町南駅近くのジムに入り、更なるトレーニングを続けた。最後にシャワーを浴びて、新しい職場への初出勤に備える。
背筋にピリッとした緊張感が走った。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、彼は胸に秘めた決意を新たにする。

涼介は、軽やかなスマートカジュアルに身を包み、支度を整えた。
ジムを出て、『白桜商店街はくおうしょうてんがい』へと足を踏み入れる。
白桜商店街は、白桜町の中心に位置する賑やかな通りだ。昔ながらの八百屋や肉屋、魚屋などが立ち並び、新鮮な食材がその存在を主張していた。
近くを歩くと、店主たちの元気な声が響き渡り、人々の楽しげなやり取りが聞こえてきた。涼介はその活気を感じながら、北へと歩を進めた。

商店街の中ほどまで来ると、レトロな佇まいの建物が見えてきた。1階にはカフェがあり、その隣にある階段を登ると、『藤堂探偵事務所とうどうたんていじむしょ』と記された小さな看板が見える。

9時40分。事務所の開始時間までには、まだ少し余裕がある。
涼介は僅かな逡巡の後、新たな職場の扉を開いた。

第二節

「おはようございます」
涼介は事務所に一歩足を踏み入れて、明るい声で挨拶する。

「おはよう」と、透き通る女性の声が応えた。
所長の藤堂茉莉花まりかだ。涼介は会釈して、彼女のデスクへと歩み寄った。

木のぬくもりと自然光が融合したモダンな空間。壁面の棚には資料が並び、観葉植物が安らぎを添える。一角には、ソファとテーブルを配し、相談者を迎える心地よい場所となっていた。

「早いね」
茉莉花は立ち上がりながらそう言うと、重厚な天然木のデスクを回り込み、涼介と向き合った。色素の薄い黒髪が、陽光を受けて淡く輝き、彼女の凛とした顔立ちを一層引き立てている。

「初日なので、少し早めに来てみました」
「うん。偉い」
茉莉花は頷くと、くるりと涼介に背を向けた。長い髪がさらりとなびく。
彼女は簡潔に事務所の案内を始めた。
涼介は無駄のないその説明から、言外にこぼれた情報まで汲み取った。

「…っていう感じ」
「わかりました。ありがとうございます」
涼介は礼を伝え、気になっていたことを訊ねてみた。
「そういえば、ジョシュさんは今日いないんですか?」
「あいつは寝てる」
「えっ?」
「涼介さんが来るの楽しみにしてたんだけどね…」
茉莉花は軽くため息をついた。
「読みかけのミステリー小説の続きが気になって、夜更かししたみたい」
「なるほど」
涼介が口元を綻ばせたそのとき、茉莉花のデスクの横に堆く積み上げられた書籍の山から、ハチワレのネコが姿を現した。
このネコこそが、ジョシュだ。

「おはようございにゃす…」
今にも微睡みそうな瞳で呟くと、彼はすぐに大きな欠伸をした。

ジョシュは、人語を解するネコだ。
普段は冷静な涼介も、初めてジョシュを見たときは、自らの認識を疑った。だが、彼はすぐに現象を受け入れることができた。
それは涼介が、『自分の目で見たものは、たとえ非科学的な現象であっても、信じるべき』という、柔軟な考えの持ち主だったからである。

前足で目を擦るジョシュに、涼介は優しい笑顔を向けた。
「おはようございます」
「リョースケ!ようこそにゃす!汚いとこにゃけど、くつろいでにゃ〜」
整理された事務所の中で、ジョシュの作業スペースだけが散らかっていた。
涼介はそれを稚気に富んだ愛らしさの現れだと感じたが、茉莉花は本の山を一瞥し、静かに舌打ちした。
「涼介さんには、古本屋さんへの荷物運びを頼みたいところだけど、まずは通常業務からにしよう」
ジョシュは身を縮め、本をかばうように前足を広げた。
涼介はそんなジョシュの背中を撫でながら、茉莉花の説明に耳を傾けた。

涼介は探偵アシスタントとして書類のデジタル化を担当することになった。電子機器に疎い茉莉花と、ネコのジョシュには難しい作業だったからだ。
機器やアプリの扱いに馴染んだ涼介にとっては簡単な作業だったが、書類が膨大なため手間がかかった。

作業効率化を試みながらも、時間は矢のように過ぎていった。
気が付くと、時刻は正午を回っていた。

第三節

「お疲れさま」
いつの間にか背後に立っていた茉莉花が言った。
「この短時間でここまで捌くとは…やるな」
「ありがとうございます。でも、まだまだたくさんあります…」
「そうだね。でも、ひとまずお昼食べよ?」
涼介は茉莉花の言葉の端々から、彼女の不器用な心遣いを感じ取った。
彼はその厚意に笑顔で返す。
「はい。お腹空きましたね。おふたりはいつもお昼どうしてるんですか?」
「ここで適当に作るか、デリバリー頼むか、外に食べに行くか…かな」
事務所には備え付けの小さな台所スペースがある。
涼介は水切りの横に置かれた包丁スタンドを見て、そっと目を逸らした。

「せっかくだから商店街で食べたいっすね。おすすめのお店ありますか?」
「何か希望ある?」
「残作業量から考えて…できれば事務所の近くがいいっすね」
「それなら1階のカフェにしよう。行ったことある?」
「あります」涼介は首肯した。
「『カフェいこい』っすよね。高齢のご夫婦が経営してる」
「そうそう。あの人たち、もうお店に立つのきついから事業承継したいって言ってて、最近新しい子が入ったの」
「そうだったんすね」
「うん。3週間くらい前からかな。今はほとんどその子ひとりで回してる」
「マジっすか!」
「その子、結構評判なんだよ。人気ある」
「それは気になりますね。行ってみましょう!」
「私たちも一緒に行くよ。ネコも入れるお店だから」
そう言って、茉莉花はまたぐーすか眠っているジョシュの頬をつついた。

3人は階段を降りて、『カフェ憩』に入った。
しかし、予想以上の混雑を目にし、退散を余儀なくされた。

一同は一旦、事務所に戻ることにした。
涼介は再び書類と格闘し、ジョシュは再び眠りに落ちた。
豪快ないびきを掻いて眠るジョシュの身体から、不思議な光が放たれた。
その光の秘密を、涼介は知っている。

茉莉花とジョシュには、事件解決に役立つ特殊な力がある。
彼らはその能力で、普通は見破ることができない謎を解明することができるのだ。今、ジョシュから漏れ出ている光は、その力の断片だ。

14時に再度『カフェ憩』を訪ねると、いくつかの空席があった。
噂の店員が、カウンター席の男性客と熱心に話し込んでいる。

涼介は店内を見回した。白を基調とした壁面が開放感をもたらし、磨かれた重厚な木の床が洗練された雰囲気を演出していた。席にはアンティーク調の家具が使われ、座り心地の良さそうなクッションが置かれている。
客席数は控えめだが、その分ゆったりとした空間が確保されていて、景色を眺めながら美味しいコーヒーを堪能できる癒しの空間となっている。

入口で待っていると、店員が涼介たちに気付き、声をかけてくれた。
可愛らしい雰囲気の女性だった。20代半ばだろうか。茉莉花と同じくらい、涼介より少し若いと思われた。
「おふたりさまとネコさまでよろしいですか?」
「うん」茉莉花が短く返事する。
「カウンター席でもよろしいですか?」
「うん」
「ふふっ、茉莉花ちゃんってほんと淡々としてるよね」
店員が微笑む。どうやら、ふたりは顔馴染みのようだ。

カウンター席に案内されると、話題が涼介に向けられた。
「こちらが例のアシスタントの方?」
「うん」
「へえ、涼介さんって言うんだよね?確かにかっこいい…」
そう言いかけた店員を、茉莉花が鋭い眼差しで睨みつけた。
涼介は、こうした状況に慣れた様子で、彼女たちの会話に参加した。
「清宮涼介です。今日から藤堂探偵事務所のアシスタントをやっています」
そして、茉莉花に視線を向けて続けた。
「俺も紹介してもらっていいっすか?」
茉莉花が応じようとすると、店員がにっこりと笑いながら自己紹介した。
瑞木みずきです。瑞木真桜まお。今後ともよろしくねー」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」涼介は明るく返事した。

しかし、彼の内面には、微かな戸惑いが生まれていた。彼女…真桜を間近で見ていると、彼の親しい人によく似ていることに気付いたからだ。
目元の感じ、声も、仕草すらも、とても良く似ている。

涼介はそっと目を閉じた。
はるり。
心の中で、彼はその名を呟く。

第四節

「にゃー」
それまで大人しくしていたジョシュが声を上げた。
彼は事務所の外では普通のネコを演じている。

「なんだ、腹減ってんのか、お前」
そう言ったのは、先程まで店員と話し込んでいた男性客だった。
どうやら、洗面所に寄った帰りらしい。
我が意を得たりと喜んだジョシュは、男性の足元にすり寄り、好奇心たっぷりの眼差しで見上げた。男性は一瞬戸惑ったが、すぐに優しい声で応じた。
「なんだよ、可愛いヤツだな、お前」

痩身の男だった。色褪せた金髪が鋭く天を指している。
首元には南京錠が垂れ下がり、手首には刺々しい腕輪が巻かれていた。
所々に装着されたチェーンも大いに人目を引いた。

「ネコって何食べんだ?」
男はぶっきらぼうな口調で涼介に訊ねる。
「俺、ネコ飼ったことないからわからないっす…」
彼が申し訳なさそうに答えると、一同の視線は茉莉花に向いた。
彼女は淡々と応える。
「こいつ何でも食べるよ」
「にゃっ!?」ジョシュは目を丸くし、ひげを震わせた。
「お前、雑食なのか!」男は愉快そうに笑う。

ジョシュは反論したかった。
自分は雑食なのではない、ただ好き嫌いがないだけなのだと。
しかし、今は普通のネコのふりをしなければならない。ジョシュは歯を食いしばり、必死に不満を隠そうとした。普通のネコを演じ続けることは、時にこんなにも困難なのだ。

男はその反応に、「なんか人間臭いヤツだな、お前」と言って、ジョシュの頭を撫でた。人懐っこいジョシュは、先程の悔しさなどすぐに忘れ、ニコニコしながらボールのように転がり始めた。

和やかな雰囲気のテーブルに、真桜が料理を運んでくれる。
彼女の笑顔もまた、周囲を明るく照らしていた。
その表情からは、他者をもてなすことへの喜びが伝わってくるようだった。
涼介はカレーライス、茉莉花とジョシュはサンドイッチを注文していた。
このお店のフードメニューには、カレーとサンドイッチしかないのだ。

男は涼介の前で湯気を立てるカレーを見て、にやりと片頬を上げた。
「ここのカレーうめえよな。俺は、週に3回は必ず食いに来てんだ」
「マジっすか!大ファンじゃないっすか!」
涼介が驚くと、男はふっと息を吐き、真桜の背中をちらりと見た。そして、まあなと呟いた。

彼の頬に微細な熱が走った瞬間を、涼介は見逃さなかった。彼の情熱の矛先は、オーナーの手作りカレーだけに向いているわけではないようだ。

複雑なスパイスの香りが鼻腔を刺激し、涼介の意識をカレーに引き戻した。
温かな香りが食欲を誘う。

彼は絶妙な配分でカレーとライスをスプーンに乗せた。
ゆっくりと、口へと運ぶ。
ガラムマサラやクミンに加え、ほんのり甘いシナモン、爽やかなカルダモン、そしてどこか不思議な隠し味が巧妙に絡み合い、一口ごとに新たな風味が広がる。
多彩なスパイスから生まれる深みある味わいが、幾重にも重なって味蕾の上で豊かに広がる。カレーのピリリとした辛味を、ライスがふんわりと包み込む。まさに絶品だ。涼介は思わず舌鼓を打った。

ジョシュは早くもサンドイッチを平らげていた。早食いしたせいか、具材が喉に詰まって呻いている。
一方、茉莉花は黙々とサンドイッチを頬張っていた。
彼女の冷淡な視線を感じ取った男は、「邪魔したな」と言って、自分の席に戻ろうとした。

「おっと、すまねえ」
男はジョシュのために水を持ってきてくれた真桜とぶつかりそうになった。愛らしさが凝縮された大きな瞳に、男の気恥ずかしそうな顔が映り込む。
他の常連客がわざとらしく咳払いをした。

「あ、えっと、そういえば、さっきの話だけどさ…」
男がしどろもどろに何か言いかけると、真桜は彼の言葉を遮るような大きな声を上げた。
「あ、そうだ!」
「な、なんだ?」
「あの事件の話ね、茉莉花ちゃんたちに相談してみたらどうかな?」
名案を思いついたかのように、真桜は両手を叩いて、目を輝かせる。
「茉莉花ちゃんたちはね、どんな事件も解決する凄腕の名探偵なんだよ!」
「こいつらが名探偵…?」男は訝しげな表情を浮かべた。
だが、期待に輝く真桜の笑顔を見て、すぐに気持ちを改めた。

「そうだな。悪いけど、メシ食ったら俺の相談に乗ってくれ」

第五節

男は高岡真也と名乗った。
喫煙所に向かう真也を見送り、涼介たちは事務所へと戻った。

カフェをオーナー夫婦に任せ、真桜も少し後から合流した。
彼女はかねてより、カフェを訪れる客から藤堂探偵事務所の評判を耳にしていた。人々の満足げな様子が事務所への信頼を物語っていると思っていた。
しかし、真桜自身は茉莉花たちに何かを依頼したことはない。今回、真也を紹介したからには、成り行きを見守る責任があると感じていた。

涼介と真桜がコーヒーを淹れ始めたとき、階段を上る真也の足音が聞こえてきた。ドアをノックする音が、静寂な事務所に響き渡る。
涼介が扉を開けると、濃厚な煙草の香りが漂った。
茉莉花が小さく顔をしかめた。

そんなことは露知らず、よおと言いながら真也が入ってきた。
その手には、『ハーモニー食堂』の保冷バッグが握られていた。

来客用のテーブルに、人数分のコーヒーとケーキが並んだ。
『ハーモニー食堂』はその名が示すとおり食堂だが、スイーツも販売していて、そちらも大変好評だ。真っ白なクリームを巧みに使った新作ケーキを、茉莉花は恋する乙女の瞳で見つめた。彼女はスイーツを心から愛していた。

真也は美味しそうにコーヒーを飲みながら、本題を切り出した。
「実は、俺の店からレコードが盗まれたんだ」
「レコード?」
「ああ、俺は中古レコード店を経営してんだ。そっから、貴重なレコードが盗られっちまったんだよ」
真也は拳を握りしめて、続けた。
「俺は誰がそのレコードを盗ったのか知りてえ。力を貸してくれ」
真也の表情は真剣そのものだった。
空気が震えるような強い気迫が周囲に伝播する。
涼介はごくりと唾を飲み込んだ。彼にとっては初めての依頼対応だ。
微かな緊張が全身を駆け巡った。

「わかりました。協力させてください」涼介は真摯に答えた。
「任せろ。ケーキの恩は返す」茉莉花はケーキを口に含んだ。
「おいどんたちは決して悪を許さない、正義の味方にゃす!」ジョシュは息を巻いた。
「うえっ、ネコが喋った!?」真也は仰天して目を見開いた。
「おー、ほんとに喋ったー!」真桜はなぜかパチパチと拍手した。

真也は現実を確かめるように、頬をつねったり目をこすったりしている。
その様子を見て、茉莉花は軽くため息をついた。
「そう。こいつは喋るネコ」
茉莉花がジョシュを指差すと、ジョシュは声を張り上げた。
「探偵助手のジョシュにゃす!」
「えっ…あ…はい、よろしくお願い…いたします」
あまりの出来事に、真也は自分を見失っていた。
茉莉花は話が込み入る前に、この流れを変えることにした。
「そんなことどうでもいいから、依頼の話を聞かせて」
「あ、ああ。よし!俺の話を聞いてくれ」

盗難事件が起こったのは、2月22日。
盗まれたレコードは、有名パンクバンド『The Crimson Royalsザ・クリムゾン・ロイヤルズ』の代表作『Scarlet Revolutionスカーレット・レボリューション』の初回プレス盤だ。売れば、300万円程度になる。

「あの日、俺は…」
「ちょっと待って」茉莉花が真也の発言を制した。
「私たちは特殊な能力を使って調査するから、もう話さなくても大丈夫」
「は?どういうことだよ?」
真也は明らかに混乱していたが、茉莉花は構わず続ける。
「こいつはただのネコじゃない」
「まあ、喋るしな…」
「このネコには人の記憶を読んで、記録として書き起こす能力を持ってる」
「は、はい?」
「百聞は一見に如かずだにゃ。シンヤの記憶を見せてもらってもいいにゃすか?」
「ど、どうぞ…」
「そんじゃ、失礼しますにゃ」
ジョシュはトコトコと真也に近付くと、ソファに飛び乗り、彼の右腿に前足を乗せた。

次の瞬間、ジョシュの身体が青みを帯びた光の粒を放ち始めた。
真也は息を呑んだ。説明などなくとも、それがジョシュの体内に宿るエネルギーの一端であることを、彼は直感的に理解した。
蛍のように舞う淡い光の粒子が、午後の日差しの中へゆっくりと溶け込んでいく。

「ここだにゃ!」
ジョシュは真也に触れていた前足を持ち上げた。
彼の右足は、巨大なシャボン玉のような光球を掬っていた。
「マリカ!」
ジョシュが茉莉花の方に駆け寄っていく。
茉莉花はノートブックと万年筆をテーブルの上に置いた。
ジョシュは前足で器用に万年筆を握りしめると、一瞬のうちにノートに文字を書き込んでいった。

「ネコが…ペンを持って…文字を書いた…」
ブツブツと呟く真也に、涼介は優しく微笑んだ。
ふたりは目を合わせ、小さく頷き合う。
「これはもう、こういうものだと思ってください。考えてわかるようなことじゃないっす」
「あ、ああ…。そうだな。俺は、もう考えるのをやめるよ」

「できたにゃす!」
ジョシュは一息ついて、万年筆を置いた。
彼の足元のノートには、幾ページにも渡り、文字がびっしりと書き込まれていた。
「こりゃいったい何なんだ?」真也がもっともな疑問を口にする。
「おいどんの能力、『記憶の雫』だにゃ!」

『記憶の雫』は、ジョシュが触れた人間の記憶の中から、必要な情報だけを抜き出して、文章にまとめる能力だ。
ジョシュはこれを『記憶の海から目的の情報を掬い取る』と表現している。

「マジかよ…」真也は目を見開き、ノートを凝視した。
「このノートには、事件当日の真也さんの記憶が綴られてる」
茉莉花はノートを広げ、全員が見えるようにテーブルの中央に置いた。
「この記録を読むことで、事件当時の様子を追体験することができる」

ジョシュは茉莉花の膝の上に飛び乗って、右足を掲げた。
先程の光の玉は、もう消えていた。
「さあ、シンヤの記憶の世界にレッツゴーだにゃ!」

真也の記憶

第六節

2月22日 木曜日。
俺はいつもどおり11時頃に起床した。昨夜の酒がまだ抜けねえ。
熱いシャワーを浴びながら、頭の重さを振り払った。
苦いコーヒーを飲み干して、ようやく目が覚めた。

『ハーモニー食堂』で昼飯を食べた後、商店街の喫煙スペースで一服する。身体に悪いことくらいわかっちゃいるが、ガツンとくるハードな煙草だけはやめられねえ。

一服を終えて、店に向かった。音楽好きに人気の老舗レコード店。俺が店長を務める、『Vinyl Spin Music Storeヴァイナル・スピン・ミュージックストア』だ。

食堂と店の間には、でっかい薬局がいくつもある。つーか、商店街ってやつは、どこもドラッグストアが乱立してやがる。あいつらの競争は苛烈だ。
客の奪い合いも、価格競争も、もはや血で血を洗う抗争みてえだ。
薬局なのにおっかねえぜ。

「へっくしょい!」ちょっと派手めなクシャミをかました。
自慢じゃねえが、俺は花粉症だ。この町は結構スギ花粉が多い。幸いにも、今日は大したことねえが、やつらが本気を出したときは、さすがの俺も戦々恐々とするってもんだ。

鼻を噛みながら歩いてると、すぐに我が愛しの城が見えてきた。商店街の中でもかなりしっかりした店構えだが、作ったのは俺じゃねえ。
『Vinyl Spin Music Store』は代々熱い魂を持った音楽野郎が店長を務めてきた。俺も10年前に先代からこの店を引き継いだ。重い責務を双肩に担ってるってわけだ。

腕時計に目をやると、時計の針はちょうど13時を指してた。
こう見えて、俺は時間には正確だ。遅刻するときはわざとやってる。

店に入ると、灰谷がこっちを見て、軽く片手を上げた。
あいつなりのよくわからん挨拶だ。俺はイカしたサムズアップで返した。

灰谷は俺のソウルメイトだ。
学生時代からの古い付き合いで、一時期はバンドを組んでたこともある。
俺がベースで、あいつはドラム。
俺たちの熱いリズムセクションが、バンドのサウンドを派手に色付けてたのは言うまでもねえ。

裏の休憩所に荷物を置いた俺は、休憩に入る灰谷と代わり、レジに立った。
灰谷は昨年、事故で右腕を負傷した。
あいつは俺と違って腕が良かった。スタジオミュージシャンとしてすっげえ活躍してたのにさ、怪我のせいで廃業しっちまったんだ。ドラム一筋だったあいつは、仕事に窮した。
だから、この店で働いてもらうことにしたんだ。
おかげで今すげえ助かってる。

30分ほどぼんやりしてると、タカさんがやってきた。
タカさんは、『Vinyl Spin Music Store』の三代目店長、つまり先代だ。
俺にこの店を託した男だ。

「よう、まだこんなところで燻ってんのか、お前」
開口一番、これだ。またお説教か。
「タカさん…俺はほんと、今のままで十分幸せなんだよ」
「いつまでそんなこと言ってんだよ。年食ってから後悔したって遅えんだぞ?」
うんざりする。最近ずっとこうだ。

俺は『The Crimson Royals』のベーシスト、ルーカス・レッドに憧れてる。あいつと同じベースを手にして、バンドが生まれ育ったロンドンで、あいつみてえに生きてみんのが俺の夢だ。

『Vinyl Spin Music Store』の売上は、ここ5年で下がり続けてる。
灰谷が入ってくれてからは、あいつの人気で持ち直してきた。
それでも全盛期と比べたら、落ちぶれたと言われても何も返せねえ。
要するに、俺には店長としての器がなかったと思われてんだ。

俺は店を辞めて、夢を追うべきだ。
タカさんの言いてえことは要するにそういうことだ。

「俺も34だしさ、現実を見なきゃいけねえんだよ。夢追っかけるには、もう遅えんだ」
バカヤロー!とタカさんが吠える。
「まだ若かったお前に歴史ある店を任せっちまったのは俺の責任だと思ってるよ。マジで悪かった。でもよ、あの頃のお前は熱いスピリットに溢れてた!今見てえに惰性と言い訳で生きてるだけのボロ雑巾じゃなかった!俺はよ、あの頃のお前のギラギラした輝きをまた見てえんだよ!」
タカさんは顔を真っ赤にしながら続ける。
「憶えてるか?お前が必死に新しい音源を探しまわってよ、気に入った曲が見つかりゃ店中に響き渡るような大音量で流してた、あの頃を!客が来ねえ日も、お前は店番すんのが楽しくてしょうがなかったんだ。あのときのお前はどこいったんだよ!」

ため息がこぼれ出た。
「…それさ、この間も聞いたよ。何度言われても、俺は変わらねえよ」

かつての情熱はどこにいったのかって?そんなの俺が知りてえよ。
あの頃あったはずの日々の眩しさが、今の俺にはもう見えねえんだ。
こんな寂れた人間が、夢なんて追えるわけねえだろ。
つらいやり取りだ。こんなの客が聞いたらドン引きするだろうが、店には今俺とタカさんしかいねえってのがまたつれえ。

タカさんが帰った後も、俺はぼんやりとレジに立ち尽くしてた。
俺は希望を見失ってるんだろうか。
人の夢はどこから生まれて、どこに消えてくんだろうな。

わかんねえ。俺は考えるのをやめた。

第七節

14時ぴったしに、灰谷が休憩所から戻ってきた。
「タカさん、来てたのか?」
「ああ、来てた」
「また発破かけられたのか?」
「おう。もううんざりだよ」
「タカさんはお前のこと心配してんだよ」
「そう…なんだろうな」
タカさんは良い人だ。それはわかってる。

俺たちは雑談しながら、品出しをした。
「俺はさ、今のままの人生でもそこそこ楽しいんだよ。あえて、変える理由はねえんだ」
「お前は変なやつだよ。日々の生活の中では、プレミアムが付いてるレコードを平気で壁に飾るし、店の裏口のアラームが壊れてるのに放置しとくほどの…大胆さがある」
灰谷がわざわざ言葉を選んでくれたのが、少し癪だった。仕入れたばかりのレコードに、小さな傷を見つけたときのような気分だ。

「その反面、人生を変えるような大きな変化については、及び腰になってばかりだ」
「なんだよ、お前まで説教してくれんのか?」
「いや、説教するつもりはない。お前の人生は、お前が決めることだ。タカさんは心配してるが、最終的にはお前自身が納得の行く選択をすればいい」

灰谷はレコードの陳列を整えながら、続ける。
「俺はお前の友人として、お前の決定を尊重するし、応援もする。でも、もしお前が今の状況に満足していないなら、変化を恐れる必要はないと思う。人生において、時には大胆な一歩を踏み出すことも必要だ」
そして、少し笑みを浮かべながら、こう付け加えた。
「お前にはあのタカさんを心配させるほどの才能があるんだ。もっと自分を信じてみても、損はないと思うぜ」
マジかよ…。
俺はレジ裏の壁に飾った、『Scarlet Revolution』の初期プレス盤ジャケットを見つめた。もしパンクの神様が降りてきたら、俺はいったいどんな決断をするんだろうとか、訳わかんねえことを考えた。

「なあ、お前はどうなんだよ?」
相変わらず陳列を続けている灰谷に声をかけた。
「俺か?俺にはやらなくちゃいけないことがある。それはお前もわかってるはずだ」
「そうだな…」
中古レコードが詰め込まれていた段ボールを叩き潰すと、カビみてえな何かが宙を舞った。

灰谷は借金を抱えてる。
ドラマーとしての灰谷に惚れ込んでた奥さんが、ミュージシャンを続けらんなくなったあいつに失望して、荒んだ生活を送った結果らしい。
灰谷は連帯保証人になってた。
あいつは奥さんが拵えた借金を返すのに必死だ。なんでそこまですんのか、俺にはわからねえ。

多分、灰谷から見りゃ、俺はまだ何でもできる立場にいる人間なんだろうと思う。人生ってのなんだかんだうまくいかないようにできてんだよな。

時計の針が16時を回った頃、隼人が遊びに来た。
隼人はうちの元バイトメンバーだ。
灰谷と入れ替わりで辞めて、今はどこぞの企業で営業職をやってるらしい。
「アニキ!調子はどうっすか!」
こいつは俺をアニキと呼ぶ。可愛いやつだ。
「何も変わんねえよ。お前の方はどうだ?」
「いやあ、もう毎日退屈っすよ。代わり映えしねえ日々にうんざりっす」
へへへと笑いながら、隼人が愚痴った。代わり映えしない日々に退屈か。
今日…いや、最近はこんな話ばっかだ。

「お前はまだ若えんだから、本当に好きなことやりゃいいんだよ」
背後から灰谷の視線を感じた。
あいつ、お前が言うのか?って思ってるに違いない。
老婆心なんてもんは若輩者でも持っちまうんだから、しょうがねえよ。

「アニキの方は変わらねえってことっすけど、店も変わらずっすか?」
隼人は入口近くの棚を見ながら、そう聞いてきた。
「ああ、相変わらず客入りはボチボチ。週末は繁盛すんのも今までどおり」
ふーんと隼人が生返事した。
我が店は平日がらんとしてて、週末はめっちゃ賑わう。
俺が店長になったばかりの頃は平日もたくさんの人が来てた。今日だって、まだタカさんと隼人しか来客はねえ。いや、ふたりとも客じゃねえけどな。
俺が悪いのか、時代によるもんなのか、やっぱりわからねえ。

隼人が足音も立てず、ぐいっと顔を近づけてきた。
こいつは抜き足が得意技だ。
「なんだよ、近えぞ」
「アニキ…店のセキュリティのガバガバさもまだ変わらないんっすか?」
「変わらねえよ」
俺はセキュリティシステムに意味があるなんて思わねえ。
パンクロッカーは刹那的に生きてなんぼだ。そうだろう?
だから、カメラはダミーで何も監視してねえし、その他も適当だ。

「ルーカス・レッドが生きてたなら、きっとセキュリティなんて気にすんなって言ったはずだぜ」
「ルーカス・レッドなら、時計の針なんて気にすんなって言うっすよ」
隼人は俺が遅刻に厳しかったことを未だにチクチク言ってきやがる。
あれは、こいつが遅れてきたことバレねえようにこっそり非常口から入ってきたのが悪いんだ。ガミガミ言うに決まってんだろ。

しばらく話した後、隼人はトイレを借りて、帰っていった。
こんだけサボタージュできんだから、別に悪くない仕事なんじゃねえか?と思ったりした。

第八節

隼人が帰ってから間もなく、今度はミカが来た。
こいつも顔馴染みだが、れっきとした客だ。灰谷目当ての客だ。
「いらっしゃい」
笑顔を振りまく俺をガン無視して、ミカは灰谷に話しかける。
「新しいレコード入った?」
「さっき陳列したばかりだ。ミカさんが好きそうなジャズのコレクションが…」

俺はつまらなくなって、ふたりの会話から耳を逸らした。
灰谷はモテる。あいつは、長身で翳のあるイケメンってやつだ。
ミカをはじめ、あいつのファンは多い。男からも人気ある。
俺にはそういうのはねえ。だけど、灰谷に僻むほど、腐ってもねえぞ?
俺は俺で気になってる人がいるんだ。たくさんの人々から愛されるよりも、俺はたったひとりと魂を震え合わせられたら、それでいい。
ミカはレコードを3枚買ってった。正直、助かる。

18時になった。灰谷が帰る時間だ。
あいつは毎日10時から働いてくれてる。俺はその時間起きるのつれえから、マジ助かってる。

灰谷が店を出て、俺はひとり天井を仰いだ。あと3時間だ。頑張ろう。
煙草が欲しくなったけど、勤務中は吸わねえことにしてる。
正確には、最近は吸わねえようにしてる。
そして、その理由が、今まさに俺の前に現れた。

女性がひとり、入店してきた。
彼女は時々、店の前を通り過ぎていく女性だ。
思い詰めた顔して歩いてることが結構あって、最初はそれが気になってた。
でも、何度か目で追ううちに、すげえ可愛い人だなって思うようになった。

先月くれえから、ちょくちょく店に立ち寄ってくれるようになった。
近くで見るとさ、マジ可愛くて、すげえいい匂いすんだよ。
そっからはもう、ぞっこんだ。

そんな彼女が、今日も店にやってきた。
18時15分。彼女はよく、この時間帯にやってくる。仕事帰りなんだと思う。雰囲気的には、美容師とかっぽいんだけどな。
ゆったりした服装に、いつも桃の香りをまとってる。

「こんばんは」と女性が挨拶してきた。
心臓が飛び跳ねた。
彼女から声をかけられるのは初めてだ。
蕩けてしまうような、甘い声だった。

こほんと、ひとつ咳払いをする。喉の調子は悪くねえ。
今日は引きこもってくれてた花粉たちに感謝だぜ。
「こ、こんばんは」
噛みそうになりながら、あらためて彼女を見た。

小柄な女性だ。
はっきりした顔立ちに、ピンクベージュのふんわりボブが似合ってる。
以前にも一度だけ、言葉を交わしたことはあったんだ。だけど、そのときは俺の煙草の臭いを嫌そうにしてて…まあ、つまりそういうこった。
あの日から俺は店に立ってるときは煙草吸わねえし、ブレスケアもちゃんとしてる。夜以外の時間に来るかもわかんねえから、最近はトイレにも行かねえでレジに立ってる。
このひたむきな努力に、運命の女神が微笑んでくれたんだと思う。

だが、しかし…気の利いたセリフが出てこねえ。
彼女の視線を感じて、俺は言葉を探すのに必死になった。
頭の中は真っ白で、まともな言葉が浮かんでこねえ。
ひたすらに鼓動だけが耳の奥で高鳴る。
しどろもどろになった俺を、彼女が不思議そうに見つめてくる。
くっ、可愛い…!

俺は慌てて、レジの下に隠していたレコードを取り出した。
プレイヤーのスイッチを入れ、そっとレコードを乗せる。
針を落とした瞬間、甘いバラードが店内に響き渡った。
女性ウケ抜群の逸曲だ。まずはムードを作り込む!

…だが、彼女は眉をひそめ、視線を床に落とした。明らかに困惑してんのが俺にもわかった。
「こういうの、あんまり好きじゃないな」

突然の甘ったるいバラードは、彼女を不快にさせっちまったようだ。
店の雰囲気とは明らかにミスマッチだし、居心地の悪さを感じさせちまったらしい…。女性は無言で店を去り、俺の恋は儚く散った。

第九節

終わった。マジ、そう思った。
俺の魂は、失意の底を彷徨っていた。
だから、声をかけられるまで、目の前の客に気付かなかった。

「君…だ、大丈夫かい?」
心配そうに話しかけてくれたのは、見たことないおっさんだった。
一見さんだ。最近じゃめずらしい。
「ああ、すまねえ。もう大丈夫だ」
「そうか。思い詰めた顔で放心してたから、何事かと思ったよ」
おっさんは人の良さそうな顔で笑う。
なんか、いいおっさんだ。

「実は探してるレコードがあってね」
おっさんは、まだ2月だってのに額の汗を拭ってから、メモを取り出した。
「見せてくれ」
メモを覗き込むと、一世を風靡したオルタナロックバンドの曲が、ズラリと並んでた。このおっさん、なかなか良い趣味してやがる。
「ちょっと待ってな」
俺は嬉しくなって、入り口の棚からレコードを探した。
「あ、そういえば…」
おっさんがスマホで調べ物を始めた。
見た目に似合わず高速なスワイプ操作だ。俺にはとても真似できねえ。

おっさんが頑張ってる間に、目的のレコードを3枚見つけた。
割引してえ気持ちはやまやまだが、店の経営状況が厳しいのも事実だ。
すまねえなと心の中で呟くと、おっさんは「ああ、これだよ」と、にっこりしてスマホの画面を見せてきた。
今度はカントリー系だ。なかなか趣味の幅が広いじゃねえか。
「それもあるぜ」
右手を奥に伸ばして、目的のレコードを掴んだ。
おっさんの質問に何点か答えて、ちょっとダベった。

おっさんは結局レコードを6枚買ってくれた。
俺は心から礼を言って、おっさんを見送った。
なんだかんだ、今日は結構いい日だったかもしれねえな。

・・・

最悪だ。
21時過ぎ。俺は店を閉めて、レジの金を数えた。金はなくなってなかったが、レジの裏に飾ってた『Scarlet Revolution』がなくなってた。
いや、正確には、ジャケットはあるが、中身のレコードが消えちまってた。
「そんな…バカな」
全身が震え、冷たい汗が背中を伝う。
どういうことだ?いつなくなったっていうんだ??

レコードはずっとレジの裏にあった。レジは店の奥にある。
入り口はレジの正面だ。俺はほとんどレジに立ってたし、入り口から入ってきた客は全員見てる。俺に気付かれずにレジに入ることは不可能だ。
今日は店に来てから、トイレにも煙草にも行ってねえ。
レコードの存在は毎晩確認してる。昨日の閉店時は確かにあった。
夜中に盗まれたか?いや、それなら灰谷が何か言ってきてるはずだ。

灰谷…。
午前に客は来なかったと言ってた。それは本当だろうか?
灰谷は抜け目ない男だ。盗難があって、あいつが気付かないとは思えねえ。つまり、あいつは午前ずっとひとりでいたってことだ…。
猛烈な勢いで頭を振った。

あいつなわけがねえ。あいつはせこい盗みなんてする男じゃねえ。
俺は灰谷を信じる。


第一章

後編:https://note.com/cloudavenue/n/n11fd01cf7be1

第二章

前編:https://note.com/cloudavenue/n/nd62b89698a8b
後編:https://note.com/cloudavenue/n/nc2c117397588

第三章

前編:https://note.com/cloudavenue/n/n88634a2cc188
後編:https://note.com/cloudavenue/n/n110a5b35e33e

第四章


前編:https://note.com/cloudavenue/n/n0924866a62c4
後編:https://note.com/cloudavenue/n/nb6b93cf681b9

第五章

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後編:https://note.com/cloudavenue/n/n084e96151dca

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