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「八葉の栞」第三章 前編


4月2日

第一節

午前9時20分。藤堂茉莉花は事務所の窓辺に立ち、静寂な朝の情景を眺めていた。薄雲に包まれた大きな空から春の雨が降りてきて、窓ガラスに優しいリズムを刻んでいる。町並みに広がる淡いベールが、花々の上に虹色の雫を散りばめていた。

茉莉花はそっとため息を漏らした。その吐息には、憂いの色が滲んでいた。

「ジョシュ」
彼女はまだ半分眠っているハチワレのネコに話しかけた。
「んー、なんだにゃ?」ジョシュは気怠そうに返事する。
茉莉花は一度深呼吸をしてから、言った。
「私、涼介さんのことが好きかもしれない」

一瞬、空気が凝固した。身震いするような寒気がジョシュの背筋を駆け抜けた。遠くで雷鳴が轟いた。

「にゃっ…にゃに、にゃに言ってるにゃすか!!?リョースケにはハルリという婚約者がいるにゃすぞ!!」
「うん。それはわかってるんだけど…」
「わかってるなら寝言はやめるにゃ!!絶対ダメだにゃ!」
「…傷付いた彼を癒せるのは、私だけだと思うの」
「そんなの探偵失格だにゃ!!」
「いや、あんな素敵な人なかなかいないし…」
「マリカ!!それは人の道に悖る行為だにゃ!そんなことは天が許しても、おいどんは許さないにゃすぞ!!」
「ペットの許しは請わん」
「ペットって言うにゃ!おいどんはマリカの相棒だにゃ!」
バディものが好きなジョシュは、『相棒』へのこだわりが人一倍強かった。
茉莉花はそれを無視して、別の角度から話を切り出した。

「あんたも涼介さんのこと大好きでしょ?私と一緒になったら、彼はずっと事務所で働いてくれるかもしれないよ?」
「それはそうにゃすけど、でも違うにゃ!おいどんたちはリョースケの願いを叶えることを最優先に考えるべきにゃのだ!!」
「ふん、ネコの皮を被ったイヌめ」
「にゃんだと!!?おいどんはれっきとしたネコだにゃ!!」
ふたりが言い合っていると、軽快に玄関をノックする音がして、明るい笑顔を湛えた涼介が出勤してきた。

第二節

玲於奈の依頼から4日が経過していた。茉莉花たちはその間に、3件の依頼を解決した。いずれも、真桜からの紹介だ。
茉莉花は、もうあの子を事務所の営業担当に任命した方がいいかもしれないと、半ば本気で思い始めていた。
「真桜ちゃんのあれは才能だと思う」
「すごいっすよね!お店も流行るわけっすよ」
「…私からしたら、涼介さんの社交性も十分すごいよ」
「俺ですか?別に普通っすよ」
そう言って、彼はいつもの笑みを浮かべた。

涼介はあらためて、ジョシュに礼を伝えた。
「龍五郎さんのとき…助けてくれて、本当にありがとうございました」
「どういたしましてにゃす!おいどんも全力出せて、スカッとしたにゃ!」
「暴力ネコめ」茉莉花がひっそりと悪態をつく。
「にゃんだと!…むー、でも確かに暴力は良くないにゃすよね」
ジョシュはそう言いながら、茉莉花に向けて反省のポーズを取った。
「そうかもしれないっすけど、結果的に俺は助けていただいたので、やはり感謝してます」
「リョースケ…」ジョシュが目を潤ませる。
「そういや、あんたあのとき物凄い勢いで飛んでたよね」
火事場のバカ力ってやつ?と茉莉花が言う。
バカって言うにゃとジョシュは怒った。
「でも、あのとき、急にすごい力が湧いてきたんにゃよねー」
ジョシュは首を横に捻った。

涼介がふと気になったことを訊ねる。
「そういえば、『ネコ百裂拳』も『存在の力』を使った技なんですか?」
「そうですにゃ!『存在の力』は攻撃にも使えるんにゃけど、エネルギーをすごく使うにゃすよ」
「なるほど…。能力使うのも色々大変なんっすね」
「うん。使わなければ使わないで厄介なデメリットもある」
涼介は少し驚いて、うんざりとした表情を浮かべる茉莉花を見つめた。
先日、彼女は特殊能力を『そんなに良いものではない』と言っていた。
このデメリットに、その理由があるのかもしれない。
「まあ、自動発動する『うたかた』ほど不便じゃないけど」
茉莉花はそう呟き、ソファから立ち上がった。

『うたかた』。涼介にとっては、初めて聞く能力の名称だった。
茉莉花とジョシュ以外にも、能力の使い手がいるのだろうか。
世界は広いなと、涼介は今更ながらに唸った。

「やっぱり能力のこととか興味ある?」
茉莉花は冷蔵庫からクレームブリュレを取り出しながら、涼介に訊ねた。
「はい。今まで全然知らずに来たことなので、色々知りたいっす」
「もうほとんど話したけど、あとは『裏返し』くらいかな」
茉莉花は3人分のコーヒーとクレームブリュレをテーブルに置いていった。
「裏返し…?」涼介が疑問符を浮かべる。

茉莉花の説明によると、各能力には『裏返し』という、通常とは別の強力な効果を発揮する能力の使い方があるらしい。
その分デメリットの大きさも凄まじく、一生に一回、本当に追い詰められたときだけ、それでも使うかどうか迷うレベルのやばさ…とのことだ。

そんな大きなリスクがある力を、彼女たちに使わせてはいけない。
『裏返し』は、依頼解決に用いることができる有効な手段として考えるのではなく、逆に、このような方法を使うことなく目的を達成できるようにしていかなくてはいけない。もっとふたりの力になりたい。涼介はそう思った。

涼介はずっと、大切な誰かを守れる人間になりたいと願ってきた。
知識を磨き、身体を鍛え、いかなる状況にも対応できる精神力を培うため、人並みならぬ努力を続けてきた。

そんな彼をもってしても、はるりの失踪には無力だった。
何もできなかった。気付くことすらできなかった。
涼介は己を恥じたが、それは彼の向上心に更なる炎を点けた。

涼介は今、ひたすらにはるりを求めている。
隠し切れない彼の熱意に、茉莉花の胸は焦がれていく。

第三節

「これ、めっちゃ美味いっすね!」
「美味しいにゃす〜!」
涼介とジョシュが、クレームブリュレを絶賛した。
このブリュレは、『ハーモニー食堂』の試作品だ。茉莉花が玲於奈に提案という名の懇願を繰り出し、お店の新商品候補に加わることになった。

試作品は『カフェ憩』にも届けられ、その美味に刺激を受けたオーナーは、なぜかお店のメニューにパスタを加えたいと言い出した。
昨日からパスタ探求の旅を始めたと聞いている。

「真也くんの音楽も気に入っててね、最近オーナー夫婦がすごーくやる気を出してるの。私、嬉しいんだ」と言っていた真桜の笑顔を思い出す。
はるりに似た笑顔。はるりと似た優しさ。
その笑顔に、涼介は思い出の残響を重ねてしまう。

不意に、茉莉花のスマホが通知音を奏でた。
「真桜ちゃんから。オーナーがパスタの試作品を食べに来いって」
一同は14時に『カフェ憩』を訪問すると返事をし、溜まっていた事務仕事を片付けていった。
涼介が悪戦苦闘していた書類の山も、残すところ僅かだ。
彼は迫りくる開放感と同時に、一抹の寂しさを感じていた。

『カフェ憩』に向かう頃には、朝来の雨が上がり、雨音に代わって清々しい静寂が訪れていた。
白桜商店街に張り巡らされたアーケードが、雨上がりの景色を包み込む。
風に運ばれた雨雫が床を濡らし、その空気は独特の湿り気を帯びていた。

「いらっしゃいませー」
涼介たちが『憩』の扉を開くと、真桜が笑顔で出迎えてくれた。
「ちょうどいいところに来てくれたね!」という彼女の言葉は、次の依頼の到来を予感させた。

涼介たちを席に通した後、真桜はひとりの女性客と話し込んでいた。
しばらく待っていると、オーナーが試作品のパスタを運んできてくれた。
カルボナーラだ。礼を伝えながら、熱いうちにありがたくいただく。
「美味いっすね!」
「にゃ〜!」
「うーん…」茉莉花だけが神妙な顔をしていた。
「どうしたんすか?」
「美味しいんだけど、インパクトが足りない。味に個性がない」
涼介はハッとした。
言われてみれば、こだわり抜いたカレーと比べて、このパスタからは独自性が感じられない。味は確かに美味しいのだが…。

「まだ作り始めたばかりの試作品。個性の欠如を残したまま、妥協することは許されない」
茉莉花は強い意志を込めた眼差しで、湯気立つパスタを睨んでいた。
彼女はクレームブリュレに対しても、同様の厳しい批評を下していた。
茉莉花は、自分が興味あることに関しては、こだわり派なのだ。

オーナーは茉莉花のコメントを真摯に受け止め、この歳になってまた修行の日々だなんてわくわくするねえと漫画のような台詞を残して、厨房に帰っていった。心なしか、彼の瞳は微かな光を帯びていた。

涼介ははるりのカルボナーラを思い出していた。彼女は料理上手だったが、その豊富なレシピ集の中でも、カルボナーラは白眉と言えた。
もし、はるりがこの場にいてくれたなら、オーナーに実用的なアドバイスができたかもしれない。涼介は彼女の不在に殊更な虚無感を覚えた。

食後のコーヒーを二口ほど飲んだとき、真桜が先程の女性客と共に、彼らに同席した。

優雅な佇まいの50代前後の女性だった。髪型や服装に細かく気を遣うタイプには見受けられなかったが、その立ち姿には純白の花弁のように清らかさと静謐な気品が宿っていた。
彼女は茉莉花たちに相談したいことがあると告げた。

一同は事務所に移動し、静かな緊張感の中、依頼人の話に耳を傾けた。

第四節

依頼人は森川文乃ふみのと名乗った。
彼女は商店街で古書店「Libro Ventoリブロ・ヴェント」を経営している。
文乃は「どこから話したらいいのかな」と少し考え込んでから、依頼内容を話し始めた。

文乃は35年前、彼女が15歳のときに、交通事故に遭った。彼女は救急外来に運ばれ、緊急手術が行われた。担当医師は文乃の容態を診て、手術をしても助かる可能性は低いことを彼女の両親に伝えた。
だが、文乃は一命を取り留めた。医師たちは口を揃えて、奇跡だと言った。
その後、長い入院生活を経て、彼女は無事に退院することができた。

生死の狭間を見た衝撃からか、彼女には事故前後の記憶がなかった。
身体は順調に回復していったが、彼女はずっと、心の一部が欠けてしまったかのような、言い知れぬ虚無感を抱えていた。せっかく助かった命なのに、人生を前向きに生きていく気力が、どうしても湧かなかった。

事故の後、彼女は時々同じ夢を見るようになった。
その夢では、生死の境を彷徨う彼女に誰かが救いの手を差し伸べてくれる。目覚めると夢の詳細は霞んでしまうが、その誰かの温もりだけは、鮮明に心に刻まれていた。

十年、二十年と月日が流れていき、半年前に文乃の父が他界した。
彼女は父が興した古書店を受け継ぐことにした。初めての店舗経営に不安はあったが、長年お店を手伝っていた母のサポートもあり、何とかお店を切り盛りしていくことができた。

数ヶ月前、文乃は父の遺品整理中に見覚えのない古本を見つけた。
本のタイトルは、『水鏡桜とうたかたの少女』。
出版された本ではないらしく、出版社名やバーコードは見当たらなかった。代わりに、本には古い付箋が貼られていた。
付箋には『水沢匡貴まさき』と記されていた。
この本の持ち主なのかもしれないと、彼女は思った。

「水沢…?」涼介が思わず、呟く。
「水沢さんをご存知なんですか?」文乃の瞳が期待に光る。
「あ、いえ。ごめんなさい。俺、同じ苗字の人、探してて」
話の腰を折ってしまってすみませんと涼介は詫びた。
文乃は一瞬、失望を露わにしたが、すぐに切り替えて、話を続けた。

文乃はその本に興味を惹かれて、一読した。それは水鏡桜の伝承と、大切な人を救うために水鏡桜と契約し、他者から忘れ去られる運命を背負った少女の物語だった。

この物語を読んだとき、文乃の中に何か確信めいたものが生まれた。
もしかしたら、あの事故のとき、誰かが自分を救ってくれたのかもしれない。文乃はあのときの記憶を失っているが、壊れた記憶の断片を、夢で見ているのではないか。

一度そんな仮説を立てると、もうそれが事実だとしか思えなくなってしまった。しかし、文乃にはそれを確かめる術がない。思い悩んだ彼女は、真桜に相談した。真桜は、茉莉花たちならこの謎を解明してくれるかもしれないと思い、文乃に彼女たちを紹介した。

「35年前、死の淵にいた私を助けてくれた人がいたのか、調べてほしい」

それが文乃からの依頼だった。
彼女の目には、強い決意が宿っていた。
茉莉花たちは、文乃の眼差しに応えるように、彼女の依頼を引き受けた。

第五節

一同は、ジョシュが喋るネコであることや、特殊能力の説明など、いつものやり取りを経て、文乃の記録を確認した。しかし、事故の恐怖を追体験することはできたものの、彼女が助かった経緯については情報を得ることができなかった。

考えてみれば、何も不思議はない。
文乃は事故当時、重傷により意識がなかった。
つまり、彼女には手術から入院までの記憶がそもそも存在しないのだ。

『八葉の栞』の使用は、慎重を要した。
『栞』の変化で最も起こり得るのは、文乃が事故に遭わず、その後の人生を平穏に送るというものだ。そこから得られる情報もあるかもしれない。
だが、それを文乃に見せるのは、あまりにも酷なことに思えた。
結果、彼女を救った人物がいたのか、確認することはできなかった。

玲於奈のときと同じように、現状では手元にない情報、特に交通事故以外の情報を集める必要がある。
涼介は、本件のきっかけを作った『水鏡桜とうたかたの少女』に着目した。
彼は、先程茉莉花が口にしていた『うたかた』という能力と関係があるのではないかと考え、彼女に訊ねた。
「茉莉花さん、『うたかた』という能力のことですが...」
「ん?『うたかた』って何?」
「え?さっき、自動発動する『うたかた』ほど不便じゃないって…」
「私、そんなこと言ったっけ?」
きょとんとした茉莉花の声からは、純粋な戸惑いが感じられた。
涼介も困惑したが、茉莉花に顔に嘘や誤魔化しは見られなかった。
「俺の聞き間違えだったのかもしれません。すみません」
「リョースケ、気にするにゃ!マリカの記憶力はネコ以下にゃすからな!」
にゃふふと笑うジョシュの額を、茉莉花が軽く小突いた。

涼介は気を取り直して、文乃に問いかけた。
「本の具体的な内容を教えていただけますか?」
「ええ。それなら、直接ご覧になった方が良いかと思います」
件の本は『Libro Vento』で店番をしている文乃の母が持っているという。
ご足労おかけしますと、文乃が申し訳なさそうに言った。
彼女が悪いわけではない。
彼女は今日、元々依頼をしに来る予定ではなかったのだ。
本を持参していなかったのは至極当然のことだった。

一同は事務所を出て、『Libro Vento』に向かった。
雨の影響か、人通りが少ないので、ジョシュも今日は徒歩だ。
真桜だけは、オーナーを気遣って、お店に帰っていった。
「世話焼きな子だね」と茉莉花が言った。
「マリカも見習ってほしいにゃ」とジョシュが呆れ顔で呟いた。
「御主人様にそういうこと言わない」と茉莉花が返す。
ジョシュがプンプンし始めたそのとき、商店街を駆ける自転車が、前カゴに傘を刺した状態で彼に突進してきた。ジョシュは咄嗟に反応した。
「ひらりにゃす!」
くるりと身体を回転させて自転車を躱す。
自転車に乗ったおっさんは、「なんだ、ネコか」と舌打ちした。

涼介がおっさんに注意しようとすると、茉莉花が彼を止めた。
「ああいう◯◯◯野郎には何言っても無駄。◯◯◯◯だから、人の言葉通じない」
「そうかもしれないっすけど…」涼介はすっきりしない。
「今は急ぎでしょ?」
涼介は茉莉花の言葉に含まれた気遣いを察した。
『水鏡桜とうたかたの少女』は、はるりを追う有力な手がかりとなる可能性がある。それが今、目と鼻の先にあるのだ。
釈然としないものはあったが、急がざるを得なかった。

「白桜町は治安が良い町だけど、自転車のマナーだけはダメね」
文乃がため息交じりに言った。
白桜商店街では、自転車の押し歩きを推進している。自転車と歩行者の接触事故が後を絶たないからだ。
文乃はごめんなさいねと謝りながら、ジョシュを優しく抱き上げた。
ジョシュは嬉しそう目を細めた。

「ふにゃ〜ん!フミノの腕の中、すごく気持ちいいにゃす〜!お日様みたいなポカポカした匂いがしますにゃ。リョースケと同じなんだにゃ!」

第六節

『Libro Vento』は、古き良き時代の雰囲気を感じさせる洋風の小さなお店だった。ガラス張りの外観に手書き風の看板が温かみを添え、周りには緑の植物が飾られている。

店内に一歩入ると、木製の棚に整然と並んだ古書と新書が来店者を迎え入れてくれる。アンティークの装飾品が重厚感と安らぎを与えていた。

お店のレジには、ひとりの女性が立っていた。
母の佳乃よしのですと文乃が紹介してくれた。

森川佳乃は、一同を歓迎してくれた。
涼介たちは道中、文乃から『最近、母の物忘れが目立つようになってきた』と聞いていたのだが、受け答えはとてもしっかりしていて、そのような様子は感じられなかった。ひとりで店番をこなしていることからも、症状はまだ初期段階なのだろうと察することができた。

挨拶を交わした後、文乃は早速本題に入った。
しかし、文乃が『水鏡桜とうたかたの少女』の所在を訊ねると、佳乃からは数ヶ月前に紛失してしまったという答えが返ってきた。
一同は目を見合わせた。

涼介は動揺を抑え、現状を整理しようと深呼吸した。
佳乃は、いつどのように本を紛失したか記憶しておらず、心当たりもないという。これは本人に質問を繰り返すよりも、『記憶の雫』に頼るべきだろう。ただ、『記憶の雫』を使う前に、手がかりとなる情報を集めておくのもまた大切なことだ。

涼介はふたりに話しかけた。
「おふたりが憶えている限りの『水鏡桜とうたかたの少女』の内容を教えていただけますか?」
「わかりました」
涼介の問いに、文乃が答えてくれた。

『水鏡桜とうたかたの少女』は、三章構成で綴られている。

第一章では、水鏡桜は記憶と成長を司る霊樹であり、白桜町を見守る存在であるという伝承が語られる。

第二章は、病魔に襲われた白桜町の町民が、ひとりの少女の献身によって救われる物語だ。少女は水鏡桜と『うたかたの契約』を交わし、自身の『存在の力』で大切な人々を救う。しかし、その代償として彼女は人々の記憶から消え去り、誰からも忘れ去られる存在となってしまう。

最終章では、救われた町民たちが、自分たちがなぜ助かったのかを、必死に考える。やがて、彼らは少女の存在を思い出す。そして物語の結末では、満開の水鏡桜の下で、桜の精となった少女の姿が水鏡に映る様子が描かれる。

文乃が語ってくれた概要を聞いて、彼女が自身の奇跡的な生還とこの物語の少女の献身を重ね合わせたのだと理解できた。文乃は、彼女を救ってくれた誰かの存在を、この物語に投影したのだろう。

第七節

「ありがとうございます。次に、水沢匡貴さんのこと、彼と本の繋がりについて、教えていただけますか?」
涼介は、本の持ち主と思われる人物について訊ねた。匡貴を知らない文乃に代わり、佳乃が回答してくれた。

水沢匡貴は、かつて白桜町に住んでいた本好きの男性だ。彼は幼い頃から『Libro Vento』に通い詰め、当時の店主、森川まことと深い親交があった。
誠は、佳乃の夫であり、文乃の父だ。

匡貴は18年前、誘拐事件の容疑で逮捕された。
しかし、その1年後に証拠不十分で無事釈放された。
取り調べの期間中、匡貴は誠に『自宅にある一冊の本を預かってほしい』と頼んできた。誠はそれを引き受けた。彼は匡貴の家の鍵の隠し場所を知っていた。誠は匡貴の家に入り、目的の本を回収した。

こうして、『水鏡桜とうたかたの少女』は、森川誠の手に渡った。
誠は、本書を専用の棚に収め、大切に保管した。

匡貴は釈放後、誠に一切連絡をよこさず、忽然と姿を消した。
彼の突然の失踪に、誠は戸惑った。
誠は匡貴との再会を切願していたが、それが果たされることはなかった。

「そういえば…」不意に、文乃が呟いた。
「あの本には古い手紙が挟まれていました」
「手紙ですか?」
「ええ。付箋はボロボロで、文字は滲んでいたので、断片的にしか読めない状態でしたが」
彼女はここで一度、呼吸を整えた。
「手紙は女の子の字で書かれていて、おそらくはるりという名前の子が書いたものです。その、読み取れた範囲では、彼女が学校で…いじめに遭って、苦しんでいたようです」

文乃はそっと目を伏せた。
「手紙の相手に教えてもらった水鏡桜に行ったこと。そこで、少し心が落ち着いたこと。そして、大人になったら…その相手と一緒にカフェを開きたいと思っていること。そういったことが、記されていました」

涼介の心臓がどくんと跳ねた。
その反応を見て、文乃は手紙の女の子こそが、彼の探し人なのだと察した。だからこそ、彼女はできる限りの情報を彼に伝えようとした。
「文字が欠けていてうまく読めなかったんだけど、多分彼女みたいにいじめを受けた子たちが、心の底からリラックスできる空間を作ること…それが、彼女の夢だったんだと思います」

手紙を読んだとき、文乃は胸が苦しくなった。
彼女はいじめを受けてこそいなかったが、ずっと友達を作ることができず、孤独のまま大人になったのだと言った。
そのため、手紙の少女の心情に、少なからず共感するものがあったようだ。

文乃の話を聞き終えると、涼介は感情の波が押し寄せてくる気配を感じた。その波は、彼の理性という強固な堤を越流するほどの激しさをもって、彼の心を揺さぶった。涼介は必死に嗚咽を堪えた。

第八節

「大丈夫かい?」
佳乃が心配げに涼介に話しかけた。穏やかで、優しい声だった。
「はい…すみません」
「何も謝ることはないよ。彼女はあなたの…?」
涼介は、佳乃の言葉の続きを受け止めるように、顔を上げた。
「大切な人です。俺にとって、誰よりも大切な人です」

そうか、つらいねと佳乃は涼介の背中を優しく擦った。
彼女は涼介の言葉の内に潜んだ疑念の影を敏感に感じ取っていた。
「あなたは彼女を信じようとしてるんだね」

「え…?」涼介の目が僅かに見開かれる。
佳乃は静かに、しかし力強く言葉を紡いだ。
「信じることとは、疑わないことだ」

涼介は言葉を失った。佳乃の言葉が、彼の心の奥底まで沁みこんでいく。
彼の中で、複雑な感情が渦を巻いていた。はるりへの信頼と、知らなかった事実への戸惑い。そして、自分自身への歯がゆさ。
それらが混ざり合い、胸の中でうねっている。

佳乃は涼介の表情を見つめながら、静かに続けた。
「あなたはきっと、彼女がいじめられていたことも、密かに抱いていた夢も、本人から聞いたことがなかったんだね。だから、自分を信じて、すべて話して欲しかった。そう思っているんでしょう?」
「俺は…」涼介は言葉を詰まらせた。
「いえ、そうかもしれません」

涼介は心の中で頷いた。婚約者だからといって、相手の領域のすべてに足を踏み入れるべきだとは思わない。だけど、話して欲しかった。
両親のことも、いじめのことも、レターナイフの少年のことも、将来の夢も全部…直接、はるりの口から聞きたかった。

これは自分のエゴだと、涼介は自覚している。自覚しているのに、その思いが疑念に転じて、また心の奥底に沈んでいく。

「大丈夫だよ」
佳乃が再び涼介に声をかける。自信に満ちた、心強い声音だった。
「大切な人を信じることができないときほど、悲しくてつらいことないよ」
だけどねと、彼女はより力強く続けた。
「あなたほどの男がそれほどまでに気にかけてる子なんだ。きっと彼女なりの理由があるんだよ」

佳乃の目には涼介への信頼が浮かんでいる。
彼女は涼介の背中に触れたとき、彼が歩んできたこれまでの人生の深みを、そして刻まれた努力の痕跡を感じ取っていた。
これは特殊な能力などによるものではない。ただの勘だ。
積み重ねた経験によって磨き上げられた、鋭敏な勘の力だ。

佳乃は少し遠くを見るような目をして、懐かしそうに微笑んだ。
「私だって、誠さんと色々あったんだよ。あの人、遊び人だったからね。時々ね、ふと思い出したりするんだよ」
文乃が顔を赤らめながら佳乃を制した。
「ちょっと、お母さん!やめてよ、人様の前でそんな話…」
涼介は思わず微笑んだ。文乃は困った顔で説明を加えた。
「お母さん、突然色んなこと忘れたり思い出したりして、とんでもないことバラしたりするんです」

確かに、家族のプライバシーに関わる会話が出てきたら気まずいだろう。
しかし、涼介の頭には文乃の依頼が思い浮かんでいた。
35年前に起こった彼女の奇跡の回復。佳乃の記憶は、それを解明するための鍵となるかもしれない。

涼介は深呼吸し、意を決して口を開いた。
「この流れでちょっと言いづらいんですけど…佳乃さんの記憶を見せていただきたいんです」

涼介は事情を説明し、佳乃に了承を求めた。
彼女は穏やかな表情で、ゆっくりと頷いた。

第九節

佳乃は文乃の事故当日、誠と共に病院の待合室にいた。彼女の記憶からは、医師の言葉に絶望を憶えながらも文乃の回復を祈る、つらい心情が伝わってきた。だが、文乃が回復を果たした理由はわからずじまいだった。

彼らは試行錯誤を重ねたが、解決の端緒を開くことはできなかった。
ジョシュは能力の使い過ぎにより、文乃の腕の中でぐったりしていた。

涼介は思案した。
手元にある情報だけでは、真相究明に至ることはできない。
彼は『水鏡桜とうたかたの少女』の行方から追っていくことを考えた。
しかし、こちらも同様に難航した。
どの角度から挑んでも、手がかりを掴むことはできなかった。

涼介と茉莉花は一旦お店の外に出た。
空はまだ曇っていて、雨上がりの湿った匂いが漂っていた。
佳乃たちとの話に熱中している間に、またひと降りあったのかもしれない。
ふたりは並んで歩きながら、現状について話し合った。

ジョシュによると、佳乃の記憶は個々の繋がりが見えづらく、目的の情報を探り当てることが難しいらしい。
先程の様子からは想像が難しいが、文乃から聞いた症状から考えると、認知機能の低下により、記憶のネットワークが乱れているのかもしれない。時々、無作為に記憶を思い出して発言することがあるのも、この影響だろうと涼介は推測した。

茉莉花は考え込むように言った。
「それなら別の情報から本のことを喚起させるとか?」
「それはありっすね!」
いい考えだと思ったものの、どの情報からあたるべきか見当がつかない。
涼介の迷いに気付いたのか、茉莉花は彼の目をじっと見つめた。

「はるりさんのことを聞いてみるのがいいと思う」
「はるりのこと…ですか?」
「うん。本には彼女の手紙が挟まっていた。彼女の名字は匡貴さんと同じ。無関係とは思えない」
それに、と茉莉花は続ける。
「ずっと気になってるんでしょ?」
「…はい」涼介は認めた。
「だったら、他に案あるわけじゃないし、気になってること訊くのがいい」
茉莉花はぷいっとそっぽ向いた。

「Libro Vento」に戻ると、涼介は佳乃にはるりの特徴を伝えた。
外見にピンと来るところはなかったようだが、桃の香りの話になったとき、彼女の表情が明るく変わった。
「その人なら、数ヶ月前にお店に来た気がするね。文乃は出かけてて、私が店番をしていたんだよ。今日みたいにね」
彼女はそう言うと、安堵の表情を浮かべた。
自分の記憶から事態が進展していかないことを気にしていたのだ。

涼介は佳乃に負担をかけてしまったことに申し訳なさを感じながらも、彼女の協力に心の底から感謝した。

ジョシュは目を煌めかせ、前足を佳乃に伸ばした。
『記憶の雫』の力が静かに発動する。そして、「あったにゃす!」と叫ぶと、佳乃の記憶をノートに書き起こしていった。

「こりゃ驚いたね!」と佳乃が目を丸くした。


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