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「八葉の栞」第一章 後編


3月25日

第十節

真也の記録を読み終えた一同は、2杯目のコーヒーを飲んで、息をついた。
「すげえ能力だな、これ」
真也は心底驚いていた。今日だけで何度驚いたことだろうか。

真也から見ても、『記憶の雫』によって書き上げられた内容はほぼ正確だ。
何なら、自分が憶えていることよりも、さらに多くの事柄が記されている。

「ん?でも俺はあの日、灰谷と話してるときにあいつの過去のことなんて、考えてなかったぞ?」
改めて考えるまでもなく、真也の中では常に意識している既知の事実だ。
「そこが『記憶の雫』のミソにゃすよ!」
ジョシュがきりっとした表情を作った。
「どういうことだよ?」
「記憶の海から目的の記憶を掬うときににゃ、その記憶に関連する別の記憶も一緒になってくっついてくるんだにゃ!」
ジョシュは得意げにふんぞり返った。真也と涼介は真逆の反応を示した。
「いや、意味わかんね」
「なるほど、記憶にはクロスリファレンスが付けられてことっすね」

首をひねる真也に、茉莉花が呆れた声を出す。
「要するに、あんたにしかわからない情報が、私たちにもわかるような形で書かれるってこと」
「な、なるほどな!」
真也は少し居心地が悪くなり、コーヒーを一気飲みした。
「便利な能力だねー」と言って、真桜はにっこり笑った。

「これまでの情報をまとめてみましょう」
涼介はそう言うと、ジョシュが書いたノートの横に、タブレットを置いた。ホワイトボードアプリを開き、デジタルペンで次々と情報を記入していく。

  • 『Vinyl Spin Music Store』の営業時間は、10時〜21時。

  • 早番の灰谷が10時〜18時のシフト。真也は13時〜21時勤務。

  • 盗まれたレコードは貴重品である。

  • レコードは、レジ裏の壁に飾られていた。

  • レコードはジャケットに入っていたが、紛失したのはレコード本体だけ。

  • 真也は前夜に、レコードがジャケットに入っていたことを確認している。

  • 真也はこの日、入口から入店した人物をすべて見ている。

  • 彼らがレコードを盗むことは不可能である。

  • 盗難があった当日、お店を訪れたのは、次の5名。

    • 13時40分:タカさん

    • 16時:隼人

    • 16時30分:ミカ

    • 18時15分:女性

    • 18時20分:おっさん

  • 盗難が発覚したのは、閉店後の21時15分頃。

  • 監視カメラはすべてダミーなので録画はない。

  • 非常口のアラームは壊れていた。

  • 非常口の鍵は休憩所に置かれた真也のジャケットの中にあった。

「こんなとこっすかね」
「ああ。これで大体合ってるよ」真也が首肯する。
文字にして書き記すと、杜撰な状況がなおさら目立つ。
「あんた、本当に34歳なの?枯れてるっていうか、青臭いっていうか…」
茉莉花が悪態をついた。
「う、うるせえな!いいだろ、別に」
「別にいいけど」茉莉花は一旦区切って、続ける。
「これって、灰谷さんが犯人だよね」
「バカ言ってんじゃねえよ!あいつはこんなことしねえ!」
真也は拳を握りしめ、歯ぎしりしながら言い返した。
「あんたも疑ってたじゃん。現に、状況証拠はすべて彼を指してる」
「まだわかんねえだろ!お前、本当に探偵かよ!?こんなに簡単に決めつけんなよ!」

立ち上がりかけた真也を、涼介がなだめる。
「落ち着いてください。警察は何て言ってるんですか?」
「警察には…話してねえ」
「は?」茉莉花が目を丸くする。
「自分で犯人見つけたくてさ。まだ届けは出してねえんだよ」
「まだって、これ1ヶ月以上前の話でしょ?マジで腑抜けだな」
茉莉花は肩を竦めた。
「お前、めちゃくちゃ性格悪いな」
真也は肩を怒らせた。
「シンヤ。ごめんにゃ。マリカは本当に口が悪くて…」
ジョシュは眉を下げ、しょんぼりした表情で、肩を諌めた。
そんなジョシュに、涼介が肩を貸した。
「茉莉花さんは毒舌なときもありますが、基本すごくいい人っすよ」
「涼介さん…」茉莉花が頬を赤らめる。嬉しさを感じつつ、平静を装う。
「真也さんは今大変だから、協力し合って、事件を解決していきましょう」
「わかった」茉莉花が素直に頷いた。

雰囲気が和らいだところで、涼介が真也に訊ねた。
「盗難のこと、灰谷さんは何って言ってるんすか?」
「あいつにも…まだこの件は話してねえ」
「え?」今度は涼介が目を点にした。
「いや、なんかあいつに借金があるから疑うみたいな感じになるだろ?それが嫌でさ。俺は灰谷を信じてるし、あいつとは長い付き合いだから、疑うなんてありえねえんだ。でも、こんな状況じゃ、あいつに誤解されるかもしれねえじゃん?だから、まだ言えねえんだ...」
真也は葛藤を打ち明けた。
「うーん、ちゃんと話した方がいいと思うけど…」
真桜が困った顔を作った。
「わかってる。わかってんだけどさ…」
真也が必死で真桜に言い訳する間、茉莉花は苦々しい表情を浮かべていた。

「…チキン野郎め」
彼女はぼそっと毒舌を吐いた。

第十一節

涼介には、真也の心情を理解することができた。
人間は矛盾を内包する生き物だ。
涼介とて、常に一貫した行動を取り続けることは難しい。

真也は、貴重なレコードよりも、灰谷との友情を大切にしようとしている。だからこそ、彼は盗まれたレコードの行方ではなく、誰がレコードを盗んだのかを突き止めてほしいと依頼したのだ。
不器用だし、不効率であることは否めない。それでも真也は、理想と現実の狭間で、灰谷を信じようと必死に抗っている。
涼介はそんな真也を助けたいと思い、考えを巡らせた。

「ひとつ気になっていることがあります」
「なんだにゃ?」
「犯人はなんで、レコードだけを持ち去ったんっすかね」
「あっ!」真也は意表を突かれた。
「金銭目的で盗難を働いたんだったら、ジャケットも一緒に盗むはずです。俺はレコードに詳しくないっすけど、売るときにジャケットがなかったら、価値が下がるんじゃないっすか?」
「ああ、間違いなく下がる。ありゃ音源も貴重だが、ジャケットのデザインも限定もんなんだ」
「ふーむ、レコードだけ盗むのも、ジャケットごと持っていくのも、手間は変わらないはずだにゃ」
ジョシュがふむふむと同意する。
「犯行手口はまだ不明なので断言はできませんが、これは単純なお金目当てじゃない可能性も考えられますね」
「と、にゃると…」ジョシュが勢いよく飛び上がる。
「次はハイタニの記憶を確認するにゃすな!」
「ええ、行きましょう」
涼介はタブレットの画面を切り、出掛け支度を始めた。

「ちょ、待ってくれ!俺はまだ…」
焦る真也に、茉莉花が言い放つ。
「まだ心の準備できてないとか言うつもり?」
「うっ…」
「でも、そう言うと思ってた」
茉莉花はソファから腰を上げ、両手を広げた。彼女の掌から、淡い光の粒子が舞い上がった。
「次は私の番」

「私の能力は、『八葉はちようの栞』。物語の因果を変える力…」
「因果を変える…力…だと…?」
真也が恐れ慄く。雰囲気に呑まれただけで、能力の意味はわかっていない。涼介はそれを察して、彼のために言葉を添える。
「記録の中で起こる事象の、原因に変化を与えることで結果を変える能力…でしたよね」

茉莉花の能力は、物語の中で原因と結果が明確に結びついている事象に対して、その因果関係を操作し、結果を変えることができる特殊な能力だ。
彼女の持つ八種類の栞はそれぞれ異なる力を持ち、特定の状況に応じて使い分けることができる。

ただし、変化を起こすことができるのは、記憶の中の物語に限定される。
その変化は現実世界には反映されない。

「ダメだ。やっぱ意味わかんね」
真也が降参のポーズを取る。無理もない。この能力は複雑だ。
茉莉花はジョシュが書いたノートを手に取り、ぱらぱらとページを捲った。ジョシュを膝に乗せた真桜がそれを見守る。

時刻は16時を回っていた。太陽が西に傾いて、暖かな光が町を優しく包む。
「これにしよう」
茉莉花がノートを広げて、皆に見せる。真也が女性客相手に甘いバラードを流して失敗したくだりだ。
「チキン…じゃなくて、真也さんがこの女性に見下されたのは、勘違いして変な曲をかけたからという明確な原因がある」
「おまっ…おい、説明がひどくねえか?」
「つまり、この『原因』となる要素を変えれば、ちょっとはマシな『結果』になるかもしれない」
いや、と茉莉花は首を振った。
「もしかしたら、もっと悲惨なことになるかもしれない」
少し打たれ慣れたのか、真也は茉莉花の軽口を意にも介さず、状況の理解に努めようとした。
「どうやったらそんなことができる?」
「『八葉の栞』のひとつに、『音の栞』がある。これは『音』に関する事象を変化させることができるの」
「うーん?」
「まあ、見てて」

茉莉花が右手に意識を集中させると、光が栞の形に姿を変える。
彼女はその栞をノートに挟み、ページを閉じた。静かに目を閉じて、栞の力を呼び起こす。
真也は身体を強張らせ、真桜は期待に目を輝かせた。涼介は真剣な眼差しを茉莉花に向けている。
静寂の中、時計の音だけが、やけに大きく響いた。

やがて、茉莉花がゆっくりとノートを開いた。
ページを捲るたび、淡い光が放たれ、文字が浮かび上がる。
そこには、先程までとは異なる物語が綴られていた。
「どういう原理だよ、こりゃ…」
「どうせ言ってもわからないでしょ?それより、内容を確認しよう」
「『栞』で変化したところから読むにゃす」
ジョシュが光る文字を指差した。

一同は再び、真也の記憶を追った。

真也の記憶(音の栞)

第十二節

『音の栞』使用の前の記憶

俺は意を決して、レジ裏に飾られたレコードに手を伸ばした。
言葉じゃ伝えらんなくても、音楽でなら伝えられる。
俺という人間を知ってもらうには、これしかねえ!

プレイヤーのスイッチを入れて、勢いよくレコードを乗せる。
針を落とした瞬間、『Scarlet Revolution』が店内に鳴り響く。
彼女は目を大きく開き、しばらく呆然としていたが、やがて暴れ狂う音の波に身を委ねていった。

そうだ。それでいいんだ。俺が心酔する『The Crimson Royals』は、決して演奏が上手いバンドじゃねえ。
つーか、下手くそだ。技術なんてありゃしねえ。
録音だって、ノイズだらけだ。だけどよ、そこには魂がある!
血潮滾らすパンクスピリットがあるんだ!!

レコードはその情熱の炎を蘇らせてくれる。
確かにさ、圧縮音源のデジタルデータみたいに便利じゃなきゃ、クリアな音でもねえよ。だが、音楽ってのは耳で聴く音だけじゃねえ。
聴覚を超えて、触覚を刺激する振動だ。振動こそが、心を震わせるんだ!!
『Scarlet Revolution』には、すべてが詰まってる。
魂の叫びが込められてるんだ!

そう、反抗と解放の叫びだ。この曲を聴けば、誰だって自由を感じられる。束縛から解き放たれ、新しい自分に出会えるんだ。
少なくとも、俺はそう信じてる。
だからこそ、この曲を彼女に聴かせたかった。
この音楽を通して、俺という人間を知って欲しかった。
俺の魂の在り方、俺の生き方、俺の考え方…。
それらすべてが、この曲に詰まってるんだ!!

「すっごい、かっこいい曲だね!」
まるで初夏の夜空に咲く花火のように、鮮やかに弾ける最高の笑顔が、そこにはあった。
「そりゃ良かった。聴いてほしいなって、ずっと思ってたんだ」
「そうなの?どうして?」
「いや、女はあんまこういう音楽聴かねえと思うんだけどよ、時々困った顔して歩いてたから、その…元気出るかな…と思って」
今更気付いたが、これじゃ俺なんかあやしいヤツじゃねえか?
だが、不安とは裏腹に、女性は歓喜の声を上げてくれた。
「ありがとうー!元気出たよ!」
目頭が熱くなった。年取ると、涙腺がやばくなるもんだな。

「友達がね、好きだったんだ。このバンド」
「え?」
「パンクとかメタルとか、そういうの好きだったみたい」
ふふっと彼女は微笑む。奥行きのある、桃の香りが揺らめいた。
「だから、一度聴いてみたかったんだ」
「こいつはプレミアム付いてっからな。簡単に聴けるもんじゃねえか」
意外な巡り合わせに、運命を感じるのは愚直だろうか?
いや、何も悪くねえ。シンプル・イズ・ベストっていうもんな。

「今度その友達も連れてこいよ。いつでもまた聴かせてやるからさ」
「うーん、それは難しいかも」
「あん?」
「昔のね、文通相手なの。彼女」
文通…相手?随分と古風な趣味に少し驚いた。
彼女の年齢は俺より4、5歳下って感じに見える。30手前ってとこか?
自慢じゃねえが、俺は手紙を書いたことなんて一度もねえぞ。

「私、子供のとき友達いなかったんだ」
俺の心を見透かしたみてえに、彼女は語り始めた。
「母は早くに亡くなって、父は刑事だったから、ほとんど家にいなくて」
「そりゃきついな」
「うん。寂しかったから、文通を始めたの」
「今はもうやってねえのか?」
「やってない。その人もね、いなくなっちゃったから」
「そうか…」
何だろうな…彼女は目の前にいるってのに、俺じゃない誰かに話しかけてるみてえな気がする。彼女の心はもうここにはねえんだって感じがする。
俺のパンクエナジーがまだ足りてねえってのか?

また来るねと言って、女性は笑顔で店を後にした。
顔は笑ってたけど、その瞳には何かを隠すような翳りがあった。
心の一部が欠けっちまったみてえな、寂しげな表情に見えた。
俺はそれを見て、胸が締め付けられた。

彼女の心には、計り知れねえ闇が巣食ってる。直感でそうわかった。
彼女は諦めてんだ。自分の人生に希望を抱くことを捨ててる。
夢を追うことを辞めっちまった俺も、人のこと言えたもんじゃねえけどよ、そんな俺だからこそ、感じ取れた感覚だ。

でも、今日はでけえ一歩を踏み出せたんだ。
これから互いを知ってきゃいい。そう思った。

気付いたら、もうそろそろ閉店の時間だ。
気合い入れて、片付けを始めた。

3月25日

第十三節

「…意外とうまくいったね」
茉莉花が拍子抜けした顔で呟く。真也は唸った。
「あー、こりゃつまりあれか。『もしも、こうなっていたら』って想像の話の結果を確認できる能力ってことだな」
「え…」茉莉花が唖然とする。
「シンヤ!すごい理解力だにゃ!」
ジョシュが真也の肩に飛び乗って、彼の頭を撫でる。
真也は照れくさそうな顔で、にやけた。

「まっ、そんな感じ。IFの展開から情報を得られるの。今回は事件の解決に繋がる情報なかったけど」
茉莉花がそう言うと、涼介が思慮深げに言葉を返した。
「いや、そんなことないっすよ」
「ん?」
「あの『Scarlet Revolution』って、盗まれたレコードっすよね?」
「おう。レジ裏の壁に飾ってたヤツだから、間違いねえ」
「それなら、18時15分までレコードはお店にあったということになります」
「はにゃ!ハイタニはもうお店にいない時間だにゃ!!」
涼介は頷いた。
「そうです。真也さんが盗難に気づいたのは閉店後なので、18時15分から21時15分の間にレコードは盗まれた…と考えるのが妥当っすね」
「マジか…」
真也の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。涼介も、その顔を見て安心する。

「ここからが本番っすよ。女性の後に来店したお客さんはひとりだけです」
「あのおっさんか!」
「はい。彼は真也さんと女性が話し込んだ場合、お店には来ないんすよね。これは違和感あります」
「お店に入ってきたのに、浮かれてて気付いてなかったんじゃない?」
茉莉花が怒気を含んだ視線を真也に投げる。
「いや、気付くに決まってんだろ。ってか、お前、何で怒ってんだよ?」
「別に。ただ、あんた真桜ちゃん一筋だと思ってたのに軽薄だなと思って」
「いや、実はすげえ言いづらいんだけどよ…俺、あの記録の中の女性のことさ、憶えてねえんだわ」

衝撃の一言だった。
「あれだけうざい話ぶっこんどいて、憶えてないってどういうこと?」
「お前は口の利き方ってモンを覚えろ!マジで!」
真也は一度深呼吸して、冷静さを取り戻した。
「すまん、言い過ぎた。俺がもっと早くに話すべきだったな」

茉莉花に散々馬鹿にされていた真也は、自分から弱みを晒すことを躊躇い、これまで女性のことを黙っていたのだろうと、涼介は察しを付けた。
依頼の解決において、真也がその女性のことを憶えていないことは然程問題ではない。『八葉の栞』による記録の変化で、既に彼女が犯人ではないことを確認できているからだ。
それに、涼介は多分、その女性の正体を知っている。
はるり…。
涼介は逸る気持ちを必死に抑え、今は事件の解決を優先する。

「18時20分に最後のお客さんが来たときの真也さんの行動に変化を起こしたいっすね」
「他の『栞』も使ってみよう」

『八葉の栞』は、花、月、水、香、音、陽、夢、終の八種類がある。
先程の『音の栞』の例のように、物語の中で起こる出来事の原因に対して、有効な栞を使用する必要がある。

「真也さんの記憶には、『夢』という言葉がよく出てきますね」
「うーん、効果あるかわからないけど、やってみる」

茉莉花は『夢の栞』を使ってみた。だが、結果は真也が夢を追いかける決意をしてロンドンに旅立つだけだった。
前向きな変化ではあるが、肝心な盗難事件の真相究明に寄与する情報を得ることはできなかった。また、あくまで記録の中での変化であるため、現実の真也が前向きになったわけではない。

次に、女性がまとっていた桃の香りに対して、『香の栞』を使用してみた。
しかし、大きな変化は見られなかった。

時計の針が17時を指そうとしていた。
今日はもう無理かもしれないと思われたそのとき、意外な『栞』が、大きな成果を生み出した。

第十四節

「花粉って、花に関連してますよね?」
きっかけは、涼介のこの一言だった。

窓の外に、夕闇が舞い降りる。
真桜が事務所の明かりを灯し、無機質な光が部屋を照らす。

「うん。『花の栞』使えるよ」
「真也さんの花粉症を悪化させて、会話を短くしたりできないっすかね」
涼介の衝撃的な提案に、真也は身震いした。
「てめえ、なんってこと言いやがる!?」
「『八葉の栞』で変えられるのは、記録の中で結果が明確になってることだけだから、花粉症自体を脈絡なく悪化させることはできないよ」
「ほっ…」

「それなら花粉の方はどうっすか?こっちは『喉の調子は悪くねえ。今日は引きこもってくれてた花粉たちに感謝だぜ』って文言あるので、いけるんじゃないっすかね」
「よし、花粉を爆散させよう」
茉莉花はそう言うと、『花の栞』を発動させた。

記録の中の出来事とはいえ、花粉症を持つ人間にしか知り得ない、身も凍る恐怖に、真也は身体の奥底から戦慄した。

真也の記憶(花の栞)

第十五節

『花の栞』使用前の記憶

「ぶえっくしょーい!!」
思いっきり派手めなクシャミをかました。
鼻水が止まらず、目は痒くてたまらない。
自慢じゃねえが、俺は花粉症だ。この町はヤバいほどスギ花粉が多い。
今日なんてマジでヤバい。あいつら、ついに本気出してきやがった。
できるもんなら、もう白旗を上げて楽になりてえ。ひと思いにやってくれ。

鼻をこすりながら歩いてると、ようやく我が愛しの城が見えてきた。
商店街の中でもしっかりした店構えだが、花粉の侵入は防ぎきれねえ。

店に入ると、灰谷がこっちを見て、軽く片手を上げた。花粉症がねえやつは気楽なもんだ。目をこすりながら、なんとか挨拶を返した。

裏の休憩所に荷物を置いた俺は、休憩に入る灰谷と代わり、レジに立った。ヤバい。昨晩飲んだクスリが切れてきた。
ここからはさらに過酷な戦いが始まる。

今日は休めばよかった。そう思えてくるくれえ、マジでしんどいぜ。
店内の空気清浄機を最大パワーにしても、やつらの猛攻を食い止めることはできなかった。

30分ほど苦しんでいると、タカさんがやってきた。
「よう、まだこんなところで燻ってんのか、お前」
「うるせえ!今、それどころじゃねえんだよ!!」
「お、おう…」
タカさんは豆鉄砲を百発食らったような顔をした。
「悪いけど帰ってくれ。今は誰とも話したくねえんだ」
「…わかった。すまん!」
タカさんは俯き、俺はお前をこんなにも追い詰めちまっていたのかよ…と、悔恨の情を漏らしながら、しょんぼりとした足取りで店を出て行った。
すまねえ、タカさん…。鼻水たらしながら、あんたの話を聞くことなんて、俺にはできねえんだ。

14時ぴったしに、灰谷が休憩所から戻ってきた。
「タカさん、来てたのか?」
「ああ、ちょっとだけな」
「追い返したのか?」
「タイミングが悪かったんだ」
「お前は花粉症だったよな。今日はそんなにひどいのか?」
「ひどいなんて生ぬるい言葉じゃ語れねえ。地獄の入口から漏れてくる瘴気みてえなもんだよ、こいつは」
話していると、また身の毛もよだつような不快感が全身を駆け抜けた。
「フェックション!」
俺はまたひとつ雄々しいクシャミを解き放った。
そんな俺を見る灰谷の目には、同情の光が宿っていた。

店頭に出てるのはきつかったが、怪我してる灰谷ひとりに品出しさせるわけにはいかねえ。
黙々と作業をこなす。涙で視界が滲んで、検品ができねえぜ。
灰谷と作業を代わってもらって、久々にレコードの陳列をした。

16時になると、隼人が遊びに来た。
「アニキ!調子はどうっすか!」
「最悪だ!」
「また花粉に負けてんっすか?」
「うるせえ。人類の天敵なんだよ、こいつはよ」
「大変っすね…」
隼人が入口近くの棚を見ながら、そう呟いた。
「そういや、ミカさんもダウンしてたっすよ」
「あいつも重症だからな…。俺たちはさ、繊細なんだよ」
ガラスのハートを持つデリケートな天才なのさと、無理してキメ顔を作ってやると、隼人はなんと鼻で笑いやがった。

「アニキがデリケートって...。ルーカス・レッドが聞いたら、ガッカリするっすよ」
「ルーカスだって花粉症だったかもしれねえだろ。最強のパンクスにも弱点のひとつやふたつあるってもんだぜ」

しばらく話していると、隼人はトイレを借りて、帰っていった。

第十六節

18時になった。灰谷が店を出て、俺はひとり天井を仰いだ。
あと3時間だ。頑張ろう。
煙草とクスリが欲しくなったが、今はもう、動くことすら困難だ。
この世の平和は思えばよ、もう人類か花粉のどっちかが、滅亡するしかねえ気がする。やつらとの共存なんて、最初から無理な話なんだよ。

女性がひとり、入店してきた。
彼女は時々、店の前を通り過ぎていく女性だ。
ヤバい。嬉しいけど、嬉しくねえ。大ピンチだ。
彼女がレジに近付いてくる。
いつも彼女が放ってる甘い桃の芳香も、今の俺の鼻には届かねえ。

「こんばんは」
なんと、女性が話しかけてきた。
今日という日の、このタイミングに、彼女から話しかけてきたんだ。
俺は己の運命を呪った。

めっちゃ苦しいけど、ここで返事のひとつでもしねえと、俺は偏屈オヤジになっちまう。彼女はもう二度と声をかけてはくれないだろう。
渾身の力を振り絞る。

「うぐ…お、おぐっ…ううう…こ、こんばんは…」
かろうじて言葉を紡ぎ出すが、声は掠れて、息も絶え絶えだ。泣かずとも、涙がぽとりと零れ落ちる。
女性の瞳には、憐憫の光が宿ってた。
情けなくて、今度は本当に泣けてくる。

「あの…えーと、お大事にね〜」
女性はにっこり笑って、そそくさと退店した。

女性とほぼすれ違いで、今度は見知らぬおっさんが現れた。
おっさんは探してるレコードがあるって、メモを見せてきた。しんどいが、やるしかねえ。俺はヘロヘロになりながらも、入口近くの棚まで移動した。
「ほらよ、これだぜ」
レコードを3枚おっさんに手渡す。すると、おっさんは高速でスマホを弄り始めた。おいおい、まだなんかあんのかよ…。

そう思っていると、誰かが店に入ってくる。
灰谷だ。

「どうしたんだ?」
忘れ物でもしたんかと思って聞いてみたが、灰谷は俺の背後を凝視してる。何かあったかと振り返ると同時に、灰谷が叫んだ。

「誰かいるぞ!」

涙でぼやけた視界で何かが揺れた。レジの中に誰かいやがる!
灰谷が走り出した。逃げ出す影を、灰谷が押さえつけた。

その影の正体に、俺は目を疑った。花粉がついに幻覚を見せてきやがったかと思ったが、それは紛れもない現実だった。

「お前…何やってんだよ!?」
そこには、『Scarlet Revolution』を両手に抱えた隼人の姿があった。

3月25日

第十七節

「やっぱりあいつが犯人だったか」
真也の記録を読み終えた茉莉花が、ぽつりと呟いた。
真也は、まだ信じられないという顔をしている。
「お前…わかってたのか?」
「まあね」茉莉花が適当に返事する。

レコード盗難事件の犯人は隼人…フルネーム、連城隼人だった。
彼は常々、真也の煮え切らなさ、セキュリティ意識の低さを懸念していた。隼人は真也を尊敬していた。
しかし、彼がいくら助言を繰り返しても、真也は聞く耳を持たなかった。
レコードを盗み出すことで、セキュリティの重要性を認識させるとともに、また新しい音源を探すきっかけを作りたかったのだと、彼は吐露した。

犯行の手口は、至ってシンプルなものだった。店の裏手には非常口があり、その鍵は休憩所に放置されている。
これは隼人がバイトしていた頃からずっと同じだった。
隼人は16時に店を訪れ、目的のレコードがレジ裏の壁に飾られていることを確認した。そしてトイレを借りるふりをして、休憩所に忍び込み、非常口の鍵を盗んだ。

18時20分に来店した一見の客は、隼人の友人であり、彼の共犯者だった。
彼は隼人との手筈どおりに、灰谷が退店する18時より後に店に入り、真也をレジから引き離した。その間に、隼人は非常口から店内に忍び込む。
そして、共犯者はスマホで調べものをするふりをして、チャットで隼人にGOサインを送った。
通知を受け取った隼人は得意の抜き足でレジ裏に回り込み、レコードをバッグにしまい込んで、逃走した。共犯者は頃合いを見計らい、精算を済ませ、退店する。

灰谷が店に戻ってきたのは、ドラッグストアで購入した花粉症の薬や目薬を真也に届けるためだった。結果、彼は盗難を未然に防いだのだ。
真也は、少しでも灰谷を疑った自分の愚かさを激しく恥じた。

「隼人が犯人だったのかよ…ちくしょう!」
真也はすぐに戻ると言い残して、早足に事務所を飛び出した。
隼人に電話をかけてくるようだ。ついでに、紫煙を燻らせるのだろう。

涼介たちが食器の片付けを済ませた頃、真也が戻ってきた。
「すまねえが、ちょっとこの場所を貸してくれねえか」
「いいけど、なんで?」
「灰谷と隼人を呼んだ。あと15分くれえしたら来るはずだ」
「勝手に呼ぶな」
茉莉花は文句を言ったが、ジョシュが助け舟を出す。
「シンヤにはケーキ買ってもらったにゃろ?恩返しするにゃすよ!」
「ちっ。仕方ない」
真也はふたりのやり取りを聞いて、ありがとよと礼を告げた。

灰谷たちを待つ間、真也は隼人と話した内容を語ってくれた。
隼人はレコードのことを聞かれると、即座にすべてを白状した。
彼は真也がすぐに自分の犯行だと気付くと思っていた。
だから、責められる心積りも、謝罪する準備も、最初からできていた。

しかし、いつまで待っても真也からの連絡は来なかった。
隼人は、まさか真也が灰谷を疑うとは予想もしていなかった。
盗難から1ヶ月が経ったとき、自分の良心を試されているのかもしれないと思った。隼人は何度もレコードを返しに行こうとした。
「アニキは俺を信じてくれてたのに、俺はアニキを裏切っちまった。俺は、最低だ...」
隼人は、自己嫌悪に苛まれながら、毎日を過ごしていた。
思い詰めすぎて、最近は体調まで崩していた。
今日、真也から連絡を受けて、ほっとしたそうだ。
これから盗んだレコードを持ってくることになっている。

真也が説明を終えた頃、灰谷と隼人が藤堂探偵事務所に到着した。
灰谷は、本日ずっとひとりで店番をさせられていたからか、少し不機嫌そうだった。彼は大きな段ボール箱を抱えていた。その中身が明かされる前に、隼人が全員の前で謝罪した。

「本当にすみませんでした!申し訳ございません!!」
深く頭を下げる彼の声には、誠実な謝意が込められていた。

真也は隼人の前に立つと、彼と同じように頭を下げた。
「俺の方こそ、すまなかった。お前にこんなことさせっちまったのは、俺の不甲斐なさだよな。マジですまねえ!」
「アニキ…!!」
男たちは熱い抱擁を交わした。
茉莉花は気味が悪いものを見たかのように顔を背けたが、ジョシュは素直に感動し、目を潤ませた。

「いったい何があったんだ?」
完全に蚊帳の外だった灰谷に、真桜がこれまでの経緯を説明する。
話を聞き終えた灰谷は、しばらく無言で考え込むような素振りを見せた。
やがて、小さくため息をつくと、「なるほど、あいつらしいな」と、ニヒルな笑みを浮かべた。

第十八節

「みんなに聞いてほしいことがあるんだ」
真也の決意を込めて発言に、一同の注目が集まった。
「俺、本当にビビりでさ、自分に言い訳ばっかしてたけどよ、隼人のおかげで、このままじゃダメなんだって痛感したんだ」
「アニキ…」
「今更でめっちゃ申し訳ねえけどよ、俺やっぱ自分の夢、追いかけることにするわ。いや…叶えてみせる!」
真也の言葉には、これまでにない力強さがあった。隼人の想いが真也の心に大きな衝撃を与えた。自分の弱さと向き合い、変わらなければならないと、強く感じたのだ。
「真也…」
「シンヤ!かっこいいにゃすぞー!」
「まっ、がんばれよ」
各々が真也に応援の言葉を送る。

彼に足りていなかったのは、未来への希望ではなく、現状への危機感だったのかもしれない。
隼人の行いの責任は、真也ではなく、本人に帰結する。
決して、褒められた行為ではない。だが、彼の蛮行が結果として真也の心を動かしたことも、また紛れもない事実だ。
人生を変えるのは、往々にして結果を顧みない大胆な一歩だ。

「タカさんも喜ぶだろうな」
「ああ。明日、タカさんに報告…つーか、決意表明すんぜ」
「お前がロンドンに行った後の店番は俺に任せろ。お前が戻ってくるまで、必ず俺が店を守る」
真也は鼻の頭を掻いた。
「その話なんだけどよ、お前には店長を継いでもらいてえんだ」
灰谷が一瞬沈黙した。予想外の展開だったのだろう。
「…俺が店長?」
「ああ、頼む。俺、商才ねえしさ。今、店はお前のおかげでどうにかなってんだ。俺よりもお前の方が適任だ」
灰谷は少し黙り込んだ後、首肯した。
「わかった。お前の意思は俺が継ぐ。お前はお前が目指すルーカス・レッドになってこい」
「頼んだぜ、五代目店長!」
真也と灰谷は拳を合わせた。
「男の友情にゃすねー!痺れますにゃ!」
ジョシュはまた感涙していた。

「そういや、あれ持ってきてくれたか?」
「ああ。向こうに置かせてもらってる」
灰谷は持参した巨大な段ボール箱を指差した。
「悪いな。腕は大丈夫だったか?」
「問題ない。リハビリ代わりにちょうど良かったくらいだ」
真也は箱を開けると、照れくさそうに真桜に話しかけた。
「その…何って言うかよ、お前がここ紹介してくれたおかげで助かったからさ、礼として受け取ってほしいんだ」

真桜が箱の中身を覗き込む。
そこにはイカしたレコードプレイヤーと複数のレコードが入っていた。
「店で使ってやってくれ。パンクだけじゃなくてさ、オーナーが好きそうなクラシックの名盤とかも入れといたからよ」
真桜は嬉しそうに笑みを漏らした。
「ありがとうー!大切にするね!」てへっと照れながら続ける。
「実は私ね、パンクロック大好きなんだ」
「マジかよ、そうだったんか!!もっと早く言ってくれよ!なんだよ、最高だな!!!」
真也は鼻の下を伸ばし、にやりと微笑んだ。
それを聞いていた茉莉花は、『カフェ憩』が荒んだ衆徒の集い場にならないことを切に願った。

真桜の提案で、一同は『カフェ憩』で遅い夕飯を食べることにした。
真也の依頼解決祝いと少し早い壮行会、灰谷の店長就任祝いと涼介の歓迎会を開くことになったのだ。
真桜と真也は、早速お店のアンプにプレイヤーを接続した。心地よい楽曲が店内に流れ、賑やかな雰囲気を盛り上げた。

涼介は灰谷と交流を深めていた。
ふたりは思考のタイプが似ていて、すぐに意気投合した。
その様子を眺めていた茉莉花は、隣に座る真也にぼやいた。
「灰谷さん、イケメンすぎる。あんな素敵な人が盗みなんてするわけない」
「お前、真っ先に灰谷のこと疑ってたじゃねえかよ!」
「そうだったっけ?」
「もう忘れたのかよ!」真也は憤った。
「まったく、これだから面食いは困るぜ」
「人のこと言えるか。真桜ちゃんに会いたくてカレー食べに来てるくせに」
「お、おい!それ今言うのか!?やめろよ!」
「ア、アニキ!そうだったんすね、俺、応援するっす!」
「やめろ!マジでやめてくれ!」
慌ただしく焦る真也に、すかさず涼介が問いかける。

「記憶の中で見た女性のことなんですけど、やはり思い出せませんか?」
「ん?ああ、全然思い出せねえ。ほんとにあの記憶、合ってんのかよ」
それを聞いたジョシュが、ふくれっ面でぷんすかした。
「にゃんだと!?おいどんの能力を疑うにゃすか!」
「いや、そういうわけじゃねえけどよ…」
「じゃあ、なんなんだにゃ!言ってみろにゃ!」
ぷんぷん怒るジョシュを脇に、茉莉花と涼介は目を見合わせた。

真也の記憶に出てきた女性の正体は、はるりだ。
彼らはそう確信していた。

第十九節

楽しげな笑い声が店内に響き渡る中、食事会はお開きとなった。
一同が心残りに店を後にする姿を見送り、涼介もゆっくりと歩き出した。

マンションに戻ると、スマート家電の照明が部屋を照らした。
涼介は冷蔵庫からハイネケンと真空ジョッキを取り出し、ソファに深く腰を下ろした。ジョッキにビールを注ぐと、麦芽のほのかな甘みが漂った。
三分の一ほどを一気に飲み干す。

長い一日だった。今日の出来事を振り返る。
真也の記憶に記されていた女性の特徴は、はるりのそれと一致する。
特に、奥行きのある桃の香りは、彼女が好んで身に着けていたものだった。

「はるり」
涼介は確かめるように彼女の名を呼んだ。
彼の声に呼応するように、テーブルに置かれた婚約指輪の片割れが、微かに瞬いた。

水沢はるりは、涼介の婚約者だった。
結婚を一ヶ月後に控えた3月5日、彼女は突然姿を消した。
涼介は警察に捜索願を出し、自らも手がかりを求めて奔走したが、誰も彼女を見つけることはできなかった。

それどころか、彼女の存在そのものが、周囲の人々の記憶から消え去っていた。涼介の家族、友人、隣人、同僚…はるりを知るはずのすべての人々が、彼女のことを知らないと言った。写真を見せても名前を告げても、誰ひとりとして彼女を思い出すことはなかった。
まるで、彼女が存在したこと自体が、この世界から抹消されてしまったかのように。

自分の頭がおかしくなったのかと思った。
はるりの存在自体が、幻だったのではないかと疑った。
しかし、この部屋には彼女の匂いが染み付いている。
家具も、寝具も、ふたりで選んだものだった。

今現在、彼女の存在は誰の記憶の中にも残されていない。
唯一人、涼介だけが、はるりを記憶している。

涼介が初めて藤堂探偵事務所を訪れたのは、一週間前のことだった。
はるりの失踪から数週間が経ち、八方塞がりの状況の中、彼女の言動に何かヒントがなかったか、ひたすらに記憶を反芻した。
そして、ふと数ヶ月前にはるりが「喋るネコがいる探偵事務所」の話をしていたことを思い出した。

喋るネコと聞いても、涼介は最初それを何かの比喩だろうと推測していた。彼は自分の目で見たものはそれが何であろうと信じるが、そうでない場合は現代科学に準じた判断をする。
ただ、決して否定からは入らない。意図的なクリティカルシンキングは行うが、普段は肯定から試みるのが彼の癖だった。

このときの涼介は、一縷の望みを胸に、藤堂探偵事務所に向かった。
そして、茉莉花とジョシュの能力を知ることとなる。

残念ながら、『八葉の栞』と『記憶の雫』を力を持ってしても、有用な情報を得ることはできなかった。
落胆する涼介に、茉莉花がアシスタントをやらないかと提案してくれた。

藤堂探偵事務所には、白桜町の人々からの依頼が入る。茉莉花たちの能力を用いれば、どこかではるりに繋がる情報が手に入るかもしれない。
涼介はその提案に感謝し、はるりが見つかるまでの間、探偵アシスタントを務めることになった。

その初日であった今日、真也の記憶を通じて、はるりの情報を得ることができた。直接的に彼女の行方に繋がる情報ではなかったが、涼介は彼女の両親の話を初めて知った。本人からは、天涯孤独の身だと聞いていたのだ。

真也の記録の中で、母親は他界し、父はかつて刑事だったと彼女は語った。そして、子供の頃には文通をする相手がいたことも明かしていた。
これまでは知り得なかった情報だ。
涼介にとっては、久々の手応えだった。

彼はビールを飲み干し、シャワーを浴びた。
広いベッドの片隅で、ひとり眠りに落ちた。

涼介は夢を見る。
桜舞う川のほとりに佇む、儚げな誰かの姿。
風が吹くたびに花が散り、その姿を隠していく。
彼は彼女に手を伸ばす。だけど、届かない。
どうしても、届かない。


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