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「八葉の栞」第三章 後編


佳乃の記憶

第十節

1月16日。朝、白桜町に初雪が降った。今もまだ降ってる。
文乃は風邪で寝込んでるから、今日は私が代わりに店を開けた。
昔から、寒さに弱い子だったから、この寒さが堪えたんだね。
あの子は頑張り過ぎなんだ。好きでやってるというより、義務感みたいのが勝ってるのが残念だけどね。

ひとりの店番は少し不安だったけど、こんな日はそんなにお客さんも来ないと踏んだ。実際、午前は誰ひとり入ってこなかった。
午後になって、家のこたつが恋しくなり、もうお店を閉めようかなあって、思っていたら、あらま!可愛いらしい感じの女の子が入ってきた。

一見すると若い女性だけど、よく見ると30歳くらいかしら。大人の落ち着きと若々しさを兼ね備えた感じね。
その子は私が声をかける前に、「こんにちは」と挨拶してくれた。
なんていい子なんだろうね!

その子からね、華やかな桃の香りがしたんだよ。
なんだか懐かしくなってくる匂い。
絶対知ってる匂いなんだけどね、頑張って考えても思い出せないんだ。

女の子はお店の本には目もくれず、じっと私を見てた。
思い詰めた顔してね。ちょっと怖くなったよ。
でもね、彼女はこう言ったんだ。
「私、水沢はるりといいます。水沢匡貴の娘です」

「匡貴くんの…?本当に?」
つい、疑ってしまった。あまりにも急すぎたから。
でも、何かが起こるときは、いつも急だったりするものね。あっ。
「そういえば…」思わず言葉が口をついて出た。

匡貴くんには養子の女の子がいると、聞いたがことあったような…なかったような。察してくれたのかな?はるりちゃんは、にっこりと頷いてくれた。
桃の匂いがより強く香った。
もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない悔しさ。
喉に引っかかった魚の小骨みたいに、もどかしくて取れないの。

「ご主人が父の本を預かってくださったと聞いています。その本に…私が昔書いた手紙が入っていたはずです」
はるりちゃんが遠慮がちに訊ねる。

ああ、この子は自分の存在を証明しようとしてるんだ。
きっと、私はまだ疑いの目でこの子を見てしまってたんだ。
ごめんねと心の中で謝った。

「ええ。勝手に読んじゃってごめんね。あの手紙のこと知ってるんだから、あなたは本当に匡貴くんの娘さんね」
はるりちゃんは安心したみたいだった。
彼女の緊張がほぐれたのが伝わってきたから。
見せないようにしていても、やっぱり緊張してたんだね。そりゃそうだ。

「匡貴くんは元気にしているの?」
「はい。父は今、楓花町ふうかちょうに住んでいます」
はるりちゃんは匡貴くんが住んでるアパートの場所を教えてくれた。会いに行ってみたい気もするけれど、ちょっと遠いかな。でも、あの本を匡貴くんに返すのは、誠さんの願いだったしなあ。文乃に頼むしかないかなあ。
そんなことを考えてたら、はるりちゃんが思わぬ申し出をしてくれた。

「ずっと預かってもらってしまい、すみませんでした。私から父に渡したいと思ってます」
「え?ちょっと待っててね…!!」
私ははるりちゃんに店番をお願いして、急いで2階の自室に駆け上がった。
途中、何回か転びそうになったけど、頑張った。

はるりちゃんは懐かしそうに『水鏡桜とうたかたの少女』を手に取った。
彼女は丁寧にお礼を言って、お店を出ていく。
誠さんは、あの本を匡貴くんに返す日が来ることを願ってた。
私は彼に代わって、それを果たした。
心の底から、安心した気持ちになった。

でも、どうしても、はるりちゃんのあの香りが気になる。
絶対に忘れてはいけないことのはずなのに、どうしても思い出せないんだ。

頭の中で何かが弾ける音がした。
痛みはない。
でも、今さっき会った女の子の記憶が徐々に薄れていく感覚があった。
気になっていた何かの香りも、突如現れた忘却の靄の中に消えていった。

4月2日

第十一節

佳乃の記録から、『水鏡桜とうたかたの少女』がはるりの手に渡ったことが判明した。涼介は昨年の4月にはるりと出逢い、半年後には同棲していた。だが、彼はその本を見たことがない。

「泥棒じゃなくて良かったね」
茉莉花の言葉に、文乃は穏やかに頷いた。
「ええ、本当に」
涼介も安堵の念を抱いた。彼もまた、本の紛失を聞いたとき、盗難の可能性が頭をよぎっていたのだ。
木漏れ日のようなこの書店の平穏を、一同は心から喜ばしく思った。

午後の陽光が翳りを見せ始めた頃、お店のドアが静かに開いた。
ふたり連れの客が入ってきたのを見て、涼介たちは休憩を取ることにした。
涼介と茉莉花が外に出ると、ジョシュも一緒についてきた。

商店街は先程までよりも賑わいを増していた。
帰宅途中の学生たちが、大きな楽器ケースを背負って颯爽と歩いている。
白桜町はクリエイターが多く集う町だ。特に、ミュージシャンからの人気は高い。毎年秋に開催される『白桜インディーズ・ミュージックフェス』は、町の一大イベントとして大いに賑わう。

涼介も子供の時分、フェスに参加した記憶がある。
不意に、あの頃の思い出が蘇った。
自分の名を呼ぶ懐かしい友人たちの声が聞こえてくるようだった。
だが、今は現実と向き合うときだ。
涼介は静かに頭を振り、思考を目の前の状況に引き戻した。

涼介たちは、次に打つ手について話し合った。
ここからは『栞』の出番だ。
「今回は『香の栞』だと思う」という茉莉花の意見に、満場一致だった。
真也のときも、玲於奈のときも、はるりの桃の香りを『栞』で変えることを試みたが、大きな効果はなかった。
今回は、香りそのものではなく、佳乃の記憶が対象となる。

この変化により、どのように物語が変わるかはわからない。
現時点では、ここから文乃の依頼解決に繋がる道筋は見えなかった。
だが涼介には、はるりの香りが何か重要な情報であるような気がしてならなかった。はるりを想い、彼は雨の跡が残る商店街のアーケードを見上げた。

「まだ気が早いっすけど…文乃さんの依頼が解決したら、1日休みをもらえますか?」
「会いに行くんだね。水沢匡貴に」
「はい。それでどうなるのかはわからないっすけど、会ってみたいんです」
「もちろん休んでもいい。だけど、私たちもついてく」
「え?いいんすか?」
「もちろんにゃす!」
「こら、喋らないの」
「にゃ、にゃー」
「この下手くそめ」
「にゃふん!」
「こいつは措いといて…私たちからしたら、これはまだ解決していない涼介さんの依頼の続き」
だから、ついていくと茉莉花は言った。

「ありがとうございます…!!」
涼介は仲間たちの心遣いに、深く感謝した。

涼介たちが席を外している間も、数人の客が貴重な本を手に満足げな表情で『Libro Vento』を後にしていった。
店内に戻った彼らは、アンティークテーブルの上に置かれたノートに『栞』を挟んだ。

佳乃の記憶(香の栞)

第十二節

『香の栞』使用前の記憶

ひとりの店番は少し不安だったけど、こんな日はそんなにお客さんも来ないと踏んだ。実際、午前は誰ひとり入ってこなかった。
午後になって、家のこたつが恋しくなり、もうお店を閉めようかなあって、思っていたら、あらま!可愛いらしい感じの女の子が入ってきた。

一見すると若い女性だけど、よく見ると30歳くらいかしら。大人の落ち着きと若々しさを兼ね備えた感じね。
その子は私が声をかける前に、「こんにちは」と挨拶してくれた。
なんていい子なんだろうね!

その子からね、華やかな桃の香りがしたんだよ。
なんだか懐かしくなってくる匂い。
絶対知ってる、とっても大切な記憶の中の匂い。

女の子はお店の本には目もくれず、じっと私を見てた。
思い詰めた顔してね。ちょっと怖くなったよ。
でもね、彼女はこう言ったんだ。
「私、水沢はるりと言います。水沢匡貴の娘です」

「匡貴くんの…?本当に?」
つい、疑ってしまった。あまりにも急すぎたから。
でも、何かが起こるときは、いつも急だったりするものね。あっ。
「そういえば…」思わず言葉が口をついて出た。

匡貴くんには養子の女の子がいると、聞いたがことあったような…なかったような。察してくれたのかな?はるりちゃんは、にっこりと頷いてくれた。
桃の匂いがより強く香った。

ハッとした。文乃。これはあの子に深く関わりがある匂いだ。
でも、それが何なのかわからない。私は思わず、彼女に訊いた。
「ねえ、あなたのその香り…何?」
うまく言葉が出てこなくて、とんでもなく曖昧な訊き方になってしまった。
案の定、はるりちゃんは戸惑いを顔に出した。
「えっと...」
彼女は少し間を置いて、「香水...ですけど?」と不安そうに答えた。
「何の香水!?」我ながら、変に食いついてしまう。恥ずかしい…。

「えええ?えーと、『Spring Noteスプリング・ノート』っていう、昔家にあったオリジナルの調香レシピを基に作ってみたものです」

思考が止まった。一瞬、何も考えられなくなった。
はるりちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。
この子、本当に可愛い…。

その瞬間、頭の中にかかっていた靄の一部が急に晴れた。

春香はるかちゃん…?」無意識に、そう呟いてた。
自分でも訳がわからない。春香というのが誰のことなのかもわからない。
だけど、忘れてはいけない名前だってことだけは確かにわかったの。

ふと気付くと、はるりちゃんがこの世のものではない何かを見るような目で、私を見ていた。

「春香さんを…憶えてるんですか?」
彼女は確かにそう言った。

私は思いっきり首を横に振った。
「まだ名前だけ…もう少しで思い出せそうなのに、頭の中で何か引っかかっちゃって…」
あと少し、もう少し。
ちょっとしたきっかけがあれば、すべて思い出せそうな気がした。

「お願い!教えて!!春香ちゃんはどんな子だったの?全部教えて!」
私は懇願していた。なんでこんなに必死なのか、自分でもわからないのに。
でも、春香ちゃんのことを知るのが、今の私にとって何よりも大切なことのように思えた。

はるりちゃんは、悄然としていた。
でも少しすると、顔を上げて、彼女が知るすべてを私に語ってくれた。

第十三節

「『水鏡桜とうたかたの少女』に書いてあることは、本当なんです」
正確には、あの話は事実に基づいた寓話であると、はるりちゃんは言った。その意味はわからなかったけど、私は黙って彼女の言葉を待った。

元々あの本は春香ちゃんの愛読書だった。
春香ちゃんは引っ込み思案で、友達ができなかったけど、読書が大好きな子だった。春香ちゃんが中学校に上がった年、彼女は古本を買いにきたことがきっかけで文乃と出会い、ふたりは唯一無二の親友となったのだという。

「文乃の…親友?」その言葉が、私の心に深く響いた。
『親友』という単語が、初めて聞くもののように新鮮で、同時に懐かしさを感じる。少しずつ、頭の中の靄が消えて、明るい範囲が広がっていくような感覚があった。はるりちゃんが言葉の先を紡ぐ。

ふたりはとても仲が良く、互いを思い合っていた。
その頃から春香ちゃんは匂いに興味を持ち、オリジナルの香水を作り始めていた。彼女の将来の夢は、調香師になることだった。
文乃には自身が成りたい将来の姿は定まっていなかったけど、代わりに春香ちゃんの夢を叶える力になりたいと思っていた。彼女自身も、春香ちゃんが調合した百合の香水を気に入っていた。

春香ちゃんが数年かけて作り上げたレシピの中で、彼女が誇る最高傑作が『Spring Note』だった。
春香ちゃんをイメージした桃、文乃をイメージした百合をメインに据えて、それらを引き立てるように調合された他の香りが、独特の奥行きを与えた。春香ちゃんは文乃との友情を形にしたこの香水を愛用していた。

「それがあなたの香水なのね」私はようやく納得した。
「はい。私は調香に詳しくないので、レシピを参考に作ってみただけなんですけど、気に入っちゃって」
調香において、ノートは香りの構成要素のことだって聞いたことがある。
桃のフルーティさと、百合のフローラルさを併せ持つ香り。
『Spring Note』。

「春の香り。素敵な名前ね」
シンプルだけど、しっかりとした主張を感じる命名だと思った。

「それだけじゃないんです」
はるりちゃんは天使のような笑みを浮かべて、その真意を教えてくれた。
文は詩、詩は音の集まり。音は音符で表され、音符は英語でNoteと言う。
一遍の詩のような、調和が取れた香りのメロディ。永遠の友情の証。
それが春香ちゃんの目指した『Spring Note』だと、彼女は語ってくれた。

若さの為せる強引な連想。そこに逬る瑞々しい息吹。
文乃にはこんな素敵な親友がいたんだ。
言われてみれば、あの子も百合の香水を付けていたことがあった気がする。それを思い出させてくれたはるりちゃん。感謝の気持ちが止まらなかった。
「あの子が…春香ちゃんが、あのとき文乃を救ってくれたんだね」
「えっ、どうして…そのことを…?」
はるりちゃんは驚きの表情を浮かべ、言葉を詰まらせた。

「あなた、さっき『水鏡桜とうたかたの少女』には本当のことが書かれてるって言ってたよね?あれは寓話だって」
「はい…」
「もう少し詳しく話してくれる?」
何があったのか、知らないといけない。
娘の命の恩人が、文乃のために何をしてくれたのか。
親として、知らずにいるわけにはいかない。
すっかり身体が熱くなっていた。さっきまであんなに寒かったのに。

外はまだ雪が降っていて、道行く人の影はまばらだ。
おかげで今、私ははるりちゃんとずっとふたりきりで話せてる。

第十四節

水鏡桜は白桜町を見守る霊樹。かつて、『花守の一族』と呼ばれた家系の者のみ、水鏡桜と『うたかたの契約』を結ぶことができる。
『うたかたの契約』を結んだ者は、自身の『存在の力』というエネルギーを他者に分け与えられるようになる。『存在の力』によって、通常では実現することができないような、能力の成長や怪我の治療が可能となる。
その代償として、契約者は自身の記憶を持つすべての生物から忘れ去られるようになる。

「じゃあ、春香ちゃんは、文乃を救うために、自分を…犠牲にした?」
私はショックを受けていた。多分、私はなんとなくこの事実を知っていた。だけど、思い出せずにいた。ずっと、今まで。涙が溢れてきた。

「娘の恩人のことを忘れてたなんて…信じられないよ」
「それは仕方のないことなんです」
『うたかた』の効果は、契約が成立した瞬間だけではなく、恒久的に続く。新たに出会った他者の記憶からも、数日程度で消えていってしまう。

『存在の力』を消費することで、一定の期間だけ、他者の記憶を留めることができるが、どれだけ力があっても1年持たせるのが限界だと彼女は言う。
妙に詳しい説明をしてくれるはるりちゃんに、私は疑問を抱いた。

「どうしてあなたはそんなことを知ってるの?なんでそんなに詳しいの?」
はるりちゃんが息を呑んだ。
答えを聞くのが少し怖かった。でもきっと、これも聞かずにいてはいけないことなんだって思った。
はるりちゃんは躊躇っていた。それでも、彼女は答えてくれた。

「それは…私も、『うたかた』の契約者だから」
と、彼女は言った。

「待って…」私は頭を整理するように少し間を置いた。
「確認させてほしいんだけどね、『うたかたの契約』は、特定の家系だけが交わせる…って言ってたよね?あなたは…」
「私は春香さんの姪です」

「春香さんには双子の妹がいました。その妹が私の母です」
私は無言で頷いた。はるりちゃんが説明を続けてくれる。
「母は春香さんとは正反対の性格で、活発で友達も多かったそうです。心理カウンセラーをしていて、学生の頃はよくこのお店に専門書を探しに来てたんです。ここで父と出会ったみたいです」

「あれ?文乃の親友の妹さんの娘さんが、匡貴くんの養女ってこと??」
「はい。母は文乃さんとは交流がなかったみたいです。多分、母なりに春香さんに気を遣っていたんだと思います」
お母さんの話をするはるりちゃんは妙によそよそしい。それに、話の内容も妙じゃない?こんな繋がり方ってある?
気になったけど、余計な詮索はやめた。それよりも、彼女に訊きたいことがもうひとつだけあったから。

「あなたは私たちのことを知ってて、ここに来てくれたんだよね?どうして文乃じゃなくて、私が居るときに来たの?」
はるりちゃんはまたしばらく考え込んだ。
話すべきか、話さないべきか。話すのであれば、どう伝えるべきか。
彼女が真剣に考えてくれていることが伝わってきた。

「『うたかた』って、本当にひどくて…」と、彼女が話し始める。
『うたかた』により対象者が契約者の記憶を失うと、その喪失感から心に『穴』が空いてしまう。
心の穴は、契約者との親密さに比例して大きくなる。もし文乃が春香ちゃんのことを思い出せば、大きな虚無感と向かい合わなくてはいけなくなる。
はるりちゃんはそれを危惧して、その可能性から少しでも遠ざけるように、文乃の留守を狙ってきてくれたみたい。

ああ、そうだったんだ。私は妙に納得してしまった。
そして、これから起こることも、なんとなくわかった。

第十五節

「私は、あなたのことも、今日教えてもらったこと…春香ちゃんのことも、忘れてしまうんだね」
私の言葉を受けて、はるりちゃんは無言で頷いた。

「寂しいね」
「契約者への思いが強くなると…それだけ後で開く心の穴が大きくなるんです。だから、記憶の繋がりを断つのは、できるだけ…早い方がいいんです」
はるりちゃんは声を詰まらせながら、そう話してくれた。

この子はこれまでに何度もこんな経験をして来たんだ。それがどれだけ過酷な人生であったか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。

「本当は話すべきじゃなかった。でも、誰かに春香さんのことを知って欲しかったんです。それが、ほんの一瞬のことだったとしても…」
はるりちゃんは大粒の涙を零した。
「こんなことして、本当にごめんなさい」

「私ね、またこれから忘れてしまったって、娘の恩人のことを思い出すことができてよかったと思ってるよ。あなたにはとっても感謝してる」
今回ははるりちゃんのおかげで思い出すことができた。
文乃だって、生死の境を彷徨ったときに、誰かが彼女を助けてくれたことはわかってる。何かきっかけがあれば、その先のことを思い出すことだって、できるはずだ。

ああ、そうだったんだ。今やっとわかった。
私は多分、ずっと前から、文乃の悩みに気付いていたんだ。だから、あの子に答を教えてあげたかったんだ。道理で必死になっちゃうわけだよ。
今日はその答のきっかけを掴んだから。
きっといつか、文乃と一緒に春香ちゃんのことを思い出せる。
私はそう信じてる。

はるりちゃんは声を押し殺して泣いている。これ以上、この優しい女の子を苦しめるわけにはいかないよね。

「あなたはさっき、記憶の繋がりを断つなら早い方がいいって言ったよね。私にはよくわからないけど、繋がりってことは、記憶自体が消えちゃうわけじゃないんでしょ?またいつか、会いましょう」
「…はい」
「またね」
「さよう…なら」

頭の中で何かが弾ける音がした。
目の前にいる可愛い女の子が誰なのか、私にはもうわからない。
特徴的な桃の香りを残して、その子はお店を後にした。私もお店の外まで、彼女を送り届けた。

いつの間にか、雪は止んでいた。
溶けた雪は雫となって、空を映す鏡へと変わっていた。

4月2日

第十六節

「春香…」
しんと静まり返った店内に、文乃の声が響いた。
「思い出せないの…ものすごく大切な人だってことはわかるのに、どうしても思い出すことができない…」
泣きじゃくる彼女を、佳乃が優しく抱きしめた。
茉莉花の膝の上で、ジョシュもつられて泣いていた。

涼介の頭は真っ白だった。
佳乃の記録から得たはるりの情報。
その内容は、涼介の心に強い痛みと混乱を与えていた。
まだわからないことは数多く残っている。
だが、彼女が置かれた状況の深刻さは、彼の想像を遥かに超えていた。
この状況に、どう立ち向かえばいい?俺にいったい何ができる?
文乃の涙声を背景に、涼介はいつになく苦悩していた。

涼介たちは文乃を気遣い、先に『Libro Vento』を出た。
そして、『カフェ憩』で彼女を待つことにした。
文乃が彼らを追いかけてきたのは、その15分後のことだった。

「さっきは取り乱してしまって、ごめんなさい」
文乃はゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました。あなたたちのおかげで、私はずっと気になっていたことを知ることができました。忘れてはいけない大切な恩人の存在を、意識できるようになりました」
「無理しないでね。はるりさんが言っていたように、あなたの心には多分、穴が空いてしまってるから」
茉莉花が優しい口調で文乃を気遣った。
「うん。心にぽっかり穴が空いてるのがわかる。でも、この穴は本当は35年も前から空いていて、私は今、やっと何が欠けてしまっているのか理解することができた」

真桜が文乃に紅茶を運んできてくれた。
混んでいる時間帯のため客が多く、彼女は各テーブルを忙しなく駆け回っていた。心なしか、今日の彼女は少し思い詰めた顔をしているように見えた。

文乃は紅茶を一口飲んで、言葉を続けた。
「私は事故の後、何をする気力もなくて、惰性で毎日を過ごしていました。今思うと、自分が人生を楽しんで幸せになることに、後ろめたさみたいなものを感じていたのかもしれません。だけど、彼女はそんな風になることを望んで私を救ってくれたわけじゃないから」
これからは頑張って生きていくと、彼女は結んだ。
涙を堪える文乃の頭を、ジョシュが優しく撫でた。

文乃がお店に戻ってからも、涼介たちは『カフェ憩』から動けなかった。
これからのことを考えなくてはいけないが、うまく考えがまとまらない。
水沢匡貴に会いに行く前に、はるりの状況や『うたかた』の仕組みについて整理したかった。
だが思考が散乱し、焦点はぼやけたまま定まらなかった。

いつもは冷静な涼介も、はるりのことになると感情が抑えきれなくなる。
今回の依頼で、それがよくわかった。
涼介はもっと心を鍛えなくてはいけないと思った。
強くならなければ、彼女を救うことはできない。今のままではダメだ。

涼介の隠しきれない焦燥を、茉莉花は複雑な心境で見つめていた。

第十七話

『カフェ憩』のドアが開く音がした。
入店してきたのは、試作品のスイーツを持参した玲於奈と龍五郎だった。
玲於奈が先に涼介たちに気付き、声をかけた。
「こんばんは。これから夜ご飯?」
「にゃー」と、ジョシュが返事した。茉莉花も軽く会釈する。
涼介は玲於奈の視線を受けて、明るい笑顔を作った。
その無理をした表情に、玲於奈の顔が曇った。
ふたりの間にいた龍五郎がその状況を敏感に察知した。

龍五郎は試作品の箱を茉莉花の眼前に掲げた。
「我らは…藤堂嬢の厳しい要望に応えるべく、ブリュレに磨きをかけた」
龍五郎の挑戦的な眼差しと、茉莉花の冷眼が、激しく衝突した。
「ふっ、当然だ。あんなもので私を満足させられると思った?」
「でゅふ。その空疎な僭上、徒爾に帰すべし…」

龍五郎は茉莉花と火花を散らせたかったわけではない。
彼はただ、玲於奈と涼介の微妙な空気を払いたかっただけだ。
だが今や、彼は本気で茉莉花を見返すようなクレームブリュレを作ろうと、心に決めていた。玲於奈はそんな彼を頼もしく思った。
彼女は精一杯の勇気を振り絞って、涼介に言葉を送った。
「私たちはこんな感じでうまくやってるから。あなたも…頑張ってね」
私たちにできることがあれば何でも言ってね。
玲於奈と龍五郎はそう言い残して、オーナーのもとへ向かっていった

数十分後、再び、『憩』のドアが開いた。
真桜が「あ!」と嬉しそうな声を上げる。
涼介たちが何だろうと思っていると、彼らの隣の席に灰谷が腰を下ろした。

「よう。新しい依頼の対応中か?」
「ううん。今、一件解決したところ」
涼介の代わりに、茉莉花が答えた。真桜が注文を取りに来る。
「お冷ひとつ」
「え…?」
「お冷ひとつだ」
「は、はい…」
「これはドン引き」茉莉花が白い目で灰谷を見た。
彼はそれに構わず、済ました顔で涼介に話しかけた。

「さっき、商店街を歩いてるお前たちを見かけたんだ。声をかけたんだが、熱心に考えごとをしてたみたいで、気付いてもらえなかった」
「あ…すみません」
涼介は、まだ『Vinyl Spin Music Store』のWebサイト制作に着手ができていないことも併せて詫びた。
「急いでないから気にするな。今月末までは真也が店長だしな」
灰谷はそう言って、美味しそうにお冷を飲んだ。

「それに、お前には婚約者探しもある。無理はするな」
「ありがとうございます。でも、無理はしてないっすよ!」
明るい笑顔で答えた涼介だったが、灰谷は真剣な眼差しで彼を見据えた。
「目の下の隈が濃くなってるぞ。休息はしっかり取れ。体調を崩せば、いざというときに動けなくなるぞ」
灰谷はそれだけ言うと、お冷を一気に飲み干して立ち上がった。

考えてみれば、灰谷は妻の借金返済に追われており、店長になったとしてもすぐに借金が減るわけではない。本来なら、カフェに来る余裕などないはずだ。茉莉花は灰谷の意図を汲んだ。
「今日はこれで解散しよう」
「にゃー」
今日は心身を休めて、明日は万全の状態で水沢匡貴に会いに行く。
それが今できる最善だ。

「はい。お気遣い、ありがとうございます」
涼介は心の中で、灰谷にも礼を伝えた。

茉莉花とジョシュが事務所に帰ってから数分後、『カフェ憩』に残った涼介の席に、オーナーがやってきた。彼の両手には、大盛りのカルボナーラの皿が乗っている。
「ん?藤堂さんとこ、もう帰ったのかい。残念。せっかく改良したのにな」
涼介くん、食べていってよと言われ、涼介はこの日2回目のカルボナーラをいただくことになった。

味に改良を加えているとはいえ、2食連続はさすがに飽きる。
涼介は、できるだけその気持ちを態度に出さないよう心がけたが、それでもオーナーは勘良く気付いた。もしくは、最初からそうなると予期していたのかもしれない。
「すまないな。迷惑だとわかってはいるんだが、なるべく早く完成させたくてね」
「どうしたんですか?そんなに急がなくても…」
その問いに、オーナーは大きなため息を連発した。

「真桜ちゃんが店を辞めるって言うんだよー。代わりの子を紹介してくれるみたいなんだけど、彼女ほど優秀な子かどうか…」
「そうなんすか!?」
「ああ。妻も私も本気で彼女に店を任せたいと思ってたから残念でね。実は店を譲る前に、最後の挑戦としてパスタを始めたんだよ。でも、今となってはね、真桜ちゃんが辞める前に完成させて、彼女の送別会でふるまいたいと思ってるんだ」
オーナーはため息交じりに早口で言った。

涼介は視線を走らせ、真桜を探した。彼女はもう退勤しているようだった。彼は真桜がいなくなる『カフェ憩』を想像し、寂しさを覚えた。

第十八節

涼介は『カフェ憩』を出て、帰宅した。
灰谷の助言に倣って、今日は早く寝ようと思った。

部屋に入ったとき、スマート家電の電灯が反応せず、明かりが灯らないことに気付いた。人感センサーの不具合かもしれないと彼は思った。

そういえば、はるりのときもなかなかセンサーが反応しなくて、彼女はこれを嫌がっていた。そんなことを思い出しながら電灯を点検すると、どうやらハブの電源が切れているようだった。

彼の部屋のスマート家電は、ハブという中継機を介して動作している。
これの電源が切れると、すべての動作が無効化される。

ハブと連動しているスマホアプリで確認すると、電源は『3月4日』の夜から切れていたことが判明した。

窓の外では、一度は止んだ雨が、また音を立てて降り始めていた。
大粒の雫が窓ガラスを叩く音が、静かな部屋に響き渡った。

淡く光る街路灯が、冷たく重たい色に染まっていた。


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