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「八葉の栞」第二章 前編


3月28日

第一節

光風そよぐ麗らかな朝。清宮涼介は瑞善寺川に架かる小橋に佇立していた。
薄紅色の花びらを浮かべた春の水面が、穏やかに揺らめいている。
清冽な川瀬の底では、小魚たちが水草を縫って泳ぎ回り、生命の躍動を感じさせる。

真也の依頼解決から3日が経っていた。この3日間、藤堂探偵事務所に依頼はなく、はるりの存在も杳然としたままだ。その間、涼介と茉莉花たちの関係はさらに深まり、事務所は彼にとっても居心地のよい場所となっていた。

探偵アシスタントとは別に、涼介は灰谷から『Vinyl Spin Music Store』のWebサイト制作も依頼されていた。
既存の公式サイトは、何でも詰め込んだスーパーのチラシのようなデザインだと灰谷は言った。彼はこのサイトを、クリーンでユーザーフレンドリーなデザインに刷新したいと考えていた。涼介は、もちろん快諾した。

涼介は元々、Web制作のプロジェクトマネージャーとして活躍していた。
顧客の声に真摯に耳を傾け、チームのポテンシャルを最大限に引き出す仕事だ。その姿勢は、探偵アシスタントとしての活動でも変わることはない。

彼は2年前、28歳のときに独立し、現在はフリーの立場で様々な企業や団体に力を貸している。はるりのことがあって今は休業しているが、時々涼介を頼る連絡が入ることもある。
彼は協力を惜しまず、探偵アシスタントとWeb制作の仕事を並行してこなしながら、はるりの捜索に全力を注いでいた。

涼介は視線を動かした。
川沿いの桜並木の中に、ひときわ存在感を放つ『水鏡桜』が見えた。
涼介が、はるりと出逢った場所だ。
去年の春。水鏡桜が満開を迎えた平日の昼下がりに、彼らはこの大樹の下で出逢った。

噎せ返るような桜の中に、彼女は佇んでいた。
今にも消えてしまいそうな儚げな横顔だった。
涼介が近付くと、彼女は静かに振り向いた。
その瞬間、胸を貫くような鋭い衝撃が走った。
涼介はそれが恋だと直感した。この出逢いを運命だと確信した。

「一目惚れしました。俺と付き合ってください」
普段の彼ならありえない、向こう見ずな情熱の発露。
だが、砕け散っても悔いはない。涼介は自分の直感を信じていた。
絶対に彼女を離してはならないと彼の心が訴えていた。
はるりは一瞬の硬直の後、笑顔を浮かべて、応えた。
「はい。よろしくお願いします」

ふと、人の気配を感じて、我に返った。
川の右手、春の草花が繁茂する歩道の中に、大きなベンチが置かれている。そのベンチに老夫婦が腰をかけていた。ふたりは仲睦まじく、緩やかに時を刻んでいる。今の涼介には、それがただただ眩しい光景として映り込んだ。

はるりがいなくなったとき、涼介の脳裏に様々な可能性が去来した。
事件に巻き込まれたのではないか。彼女の失踪は、自分に原因があったのではないか。そんな自責の念に苛まれる日々だった。
だが、誰もがはるりの存在を忘れているという不可解な状況に直面し、これは常識の範疇を超えた出来事なのだと、彼は確信した。

どのような困難があろうとも、涼介は諦めない。
必ず、はるりを見つける。
彼女との再会を想望し、その決意を固め、涼介は走り出した。

第二節

トレーニングを終えた涼介が出社すると、事務所には剣呑な雰囲気が漂っていた。遠雷を待つ夏の曇り空のような、暗い凶兆をはらんだ重たい空気だ。
「おはようございます。何かあったんすか?」
涼介の問いかけに、しばらくの間、返事はなかった。
茉莉花はデスクに座ったまま、ジョシュを鋭く見据えている。
ジョシュは視線を逸らし、尻尾を丸めていた。
重苦しい沈黙の後、茉莉花が口を開いた。
「こいつが私のプリン食べたの」
なるほど、よくあるやつだ。

「ごめんにゃさい…」ジョシュは小さな声で呟いた。
「ごめんで済むわけないでしょ?『ハーモニー食堂』の限定品だよ、これ」
茉莉花の言葉に、ジョシュは身を竦ませた。
彼は頭を垂れ、前足で顔を覆うようにした。
後悔と申し訳なさが、その仕草に痛々しいほど表れていた。
「大体、お前はいつもいつも…」
茉莉花の容赦ない嫌味が雨のように降り続く。
それを止めたのは、事務所を訪れた真桜だった。

噂をすれば影というが、彼女は『ハーモニー食堂』の店主を伴っていた。
「茉莉花ちゃん、怖い顔してどうしたの?お客さん連れてきたよー!」
真桜は穏やかな笑顔を放った。そして、店主の手に抱えられた限定プリンの箱が、まるで救世主からの贈り物のように輝いていた。

依頼人は、九条玲於奈れおなと名乗った。
気品溢れる立ち振る舞いとは対照的に、彼女の装いはアンバランスな印象を他者に与える。お店からそのまま来たのか、質素なエプロンを身にまとっている。だが、その下に着込んだ春のブランド物からは、どこか歪な奢侈感が漂っていた。

真桜は『カフェ憩』自慢のコーヒーをポットに入れて、持ってきてくれた。彼女はオーナーの誇り高いコーヒーを、各々のカップに注いでまわる。

コーヒーとプリンが並んだテーブルを挟んで、茉莉花も自己紹介を返した。次いで涼介が口を開きかけたとき、玲於奈が信じられないという顔で、こう言った。
「もしかして、涼介くん?清宮、涼介くん…??」
「えっ、そうっすけど…」
「嘘…こんなところで…こんなことってある?信じられない…」
両手で口を覆う玲於奈の頬が華やいだ。その仕草に、涼介は幼い日々の記憶を重ね合わせた。
「九条さん?四年生のとき、同じクラスだった…」
「そうだよ。思い出してくれたんだ…。嬉しい」
玲於奈の瞳に無邪気な光が輝き渡る。涼介の表情に浮かんだ微かな苦みに、彼女は気付かない。
「涼介くん、あの事件の後、急に引っ越しちゃったから、連絡先もわからなくて」
「そうか…」
涼介は昔、通り魔に襲われて、入院したことがある。
一命は取り留めたが、深い心の傷を負った彼を慮り、彼の家族は白桜町から別の町に移り住むことを決意した。彼はそう聞いている。
涼介には、事件前後の記憶がなかった。

「涼介くんのお父さん、商店街で工房をやってたでしょ?工芸品とか作って売ってて。今あそこ、セレクトショップになってるの知ってる?あ、そういえば、いつ帰ってきたの?」
矢のように飛ぶ質問の数々、ふたりにしかわからない会話の流れに、一度は落ち着いた茉莉花の不機嫌が再熱の兆しを見せた。だが、溶けずに積もる、限定プリンの不思議な甘みが、彼女の辛口を見事に中和した。

「ジョシュ。あなたもそろそろ自己紹介したらいかがかしら?」
「え…はいにゃす」ジョシュはひとつ咳払いをした。
「おいどんは、正義の味方ジョシュですにゃ!美味しいプリン、ありがとうにゃ!」
「へえ、喋るネコさんなんだね。よろしくね。あ、涼介くん、それでね…」
ジョシュは呆然とした。これまでの経験の中で、玲於奈ほど彼が喋ることに関心を示さない人間はいなかった…。彼女の見事なまでのスルーっぷりに、ジョシュはちょっとヘコんだ。

「何が正義の味方だよ。プリン泥棒のくせに」
茉莉花が地味に鋭い追い打ちをかける。
「自分のプリン食べたこと忘れてたにゃすよ…」
「知るか」
茉莉花は大きく口を開けて、残りのプリンを頬張った。

第三節

「お店のSNSを炎上させた犯人を特定してほしい」
それが玲於奈からの依頼だった。

彼女の依頼内容をまとめるとこうだ。

  • 数週間前から、『ハーモニー食堂』の各SNSアカウントに誹謗中傷が書き込まれ、炎上している。具体的には「サービスが悪い」「食事が不衛生」といった内容が目立つ。

  • グルメサイトにも飛び火し、酷評が投稿されるようになった。
    そのため、予約キャンセルが相次いでいる。

  • 玲於奈を始め、スタッフには心当たりがない。
    内部の人間が情報を漏らしている可能性も低い。

  • 実は10ヶ月ほど前にも一度炎上があったが、その際も原因は特定されず、約4ヶ月で自然に沈化した。

調査は難航した。
『記憶の雫』と『八葉の栞』を使用しても、玲於奈の記憶から捗々しい結果を得ることはできなかった。彼女はお店に戻ることになり、茉莉花は進展があったら連絡すると伝えた。

茉莉花には雲を掴む話のように思えた。ジョシュにもどこから着手すべきか見当がつかない。

涼介は現状を整理しながら思惟する。
『記憶の雫』の正確なメカニズムは彼にはわからないが、ジョシュは触れた人間の記憶の中から目的の情報を探し出し、掬い取る。
今の状況では、手がかりは皆無に等しい。ジョシュが狙いを定めるための、ヒントを入手する必要がある。

涼介が方向性を決めたとき、事務所の古時計が大きく鳴り響き、正午の訪れを告げた。

第四節

今回の依頼では、性能が高く、馴染んだPCを使いたい。涼介は茉莉花の許可を得て、一度マンションに戻り、ノートPCを事務所に持ち帰ることにした。

『カフェ憩』で昼食を摂りながら、涼介は『ハーモニー食堂』に関するSNSの投稿メッセージを遡って確認していく。

彼はプログラミングの知識を活かし、各SNSのAPIを使って、投稿を自動的に収集するスクリプトを作成した。特定のキーワードを使い、ネガティブな投稿や、誹謗中傷をフィルタリングする機能も追加した。

そして、収集した情報をクレンジングする。
クレンジングとは、無関係な投稿やスパムを除去する作業だ。これにより、膨大な投稿データから、事件に関連する情報だけを効率的に抽出することができる。

投稿内容の確認は、茉莉花とジョシュも手伝ってくれた。炎上に至るまでの、見るに堪えない膨大な暴言の数々を、彼らはひとつひとつ徹底的に選別していった。特に個人攻撃は悪辣で、いくつかの投稿にジョシュは悔し涙を流し、茉莉花は「人間のクズめ」と吐き捨てた。

精神力を削がれる作業だったが、『カフェ憩』の和やかな雰囲気と変わらぬランチが、彼らに癒やしを与えてくれた。
今日は涼介とジョシュがサンドイッチ、茉莉花がカレーを頼んでいた。

「なんでこのお店にはスイーツとかデザートがないの?」
茉莉花がため息を漏らす。
「ごめんねー。甘いの、作れる人がいないの」
真桜がぺこりと頭を下げた。
オーナーはコーヒーとカレーにしか情熱を注げない性質らしい。
その割に、適当だというサンドイッチは、驚くほど美味しい。
もったいない、と茉莉花がまたぼやく。

ランチを終えた涼介たちは、事務所に戻り、作業を続けた。
涼介はかなりタフで、驚くことはあっても、動じることはほとんどない。
基本的には相対主義者で、物事は清濁併せ呑むべきだと思っている。
しかし、そんな彼でも、誹謗中傷の嵐と向き合っていると、人の闇…純粋な悪意を感じずにはいられなかった。
3時間が経つ頃には、心身ともに疲労感を覚えていた。

涼介はPCから離れて、まだ明るい窓の外を眺めた。
玲於奈が持参した限定プリンを口に含むと、彼女の顔が思い浮かんだ。
彼女が涼介との再会を望んでいたことは明白だ。
涼介は鈍い男ではない。玲於奈が彼に寄せる好意に気付いている。

だが、彼の心境は複雑だ。
彼女は学生時代、多くの子どもたちをいじめていた。
彼はその行いをよく思ってはいなかった。玲於奈に対する個人攻撃の中には、このいじめに関する告発も多く散見された。
因果応報を唱える投稿も少なくない。しかし、いかなる理由があろうとも、他者を攻撃して許される道理はない。玲於奈やお店の従業員を苦しめている元凶を見つけ出すことが今回の依頼だ。
彼女が許されるべきかは、ここで考えることではない。
今は依頼を全うすることが先決だ。

涼介は思考を切り替えて、作業を再開した。
限定プリンの深い甘みが、今頃になって脳の中に広がった。

第五節

涼介は投稿データの精査を終え、次に集めた情報の分析に着手した。
VertexMazeヴァーテックス・メイズ』という専用アプリを起動する。
VertexMazeは、膨大なデータからアカウント間の繋がりやパターンを分析し、ネットワークを立体的に可視化する。
これは、影響力の大きいアカウントを特定する上で非常に有効なツールだ。

涼介は条件を設定し、分析を開始した。
彼はこの『複雑な関係性を解析し、迷路のようなネットワークを解き明かす』ことを目的としたアプリを使うたびに、思うことがある。

悩みの渦中にいる人物は立体迷路の中を彷徨っているようなものだ。その人物に共感して同じ目線に立ってしまうと、自分も同じ迷路に迷い込むことになる。本当にその人を救おうとするならば、自身は迷路の上に立ち、客観的に全体を俯瞰する必要がある。迷路の構造を正確に把握し、相談者が出口に辿り着けるよう、正しい道筋を示していくのだ。

あとは分析が終わるまで、PCを置いておくだけだ。
ふと気が付くと、ジョシュが熱心な顔でPCの画面を眺めていた。
少年の好奇心と探究心を持つ彼は、涼介の調査方法に興味津々なのだ。
涼介は達意ある言葉で、ジョシュに作業内容と状況を説明した。
それを聞くジョシュの目はキラキラと瞬いていた。

「すごいにゃす!リョースケはアシスタントの範疇を超えてますにゃ!」
「ありがとうございます。お力になれてたら何よりっすよ!」
ふたりは微笑み合って、ハイファイブする。

「リョースケはおいどんたちの能力のことで知りたいことあるにゃすか?」
「いいんですか?色々知りたいっす!」涼介は張り切って答えた。
情報の有無は、選択肢の量と質に直結する。
情報が多いほど、組み合わせの可能性も広がる。
「そういえば、まだ基本的なことも話してなかったね」
茉莉花も会話に加わる。
一同はソファに腰を下ろし、窓辺を飾る紅霞を背景に、ふたりからの講義が始まった。

生物の体には、『存在の力』と呼ばれるエネルギーがある。
これは個々の記憶が放つ力だ。
総量が多いほど、強い存在感を放つようになる。
存在の力が強い人物は、カリスマ性を持ち、リーダーになりやすい。
他方、存在の力が弱いと、人に認識されづらくなり、記憶に残らなくなる。

存在の力の強弱は総量で決まり、善悪等の性質は関係しない。
これまでの人生の経験が、存在の力を作り上げる。
経験を積み重ね、人生観を変えるような体験を経ることで、人は強くなる。

また、人の記憶に残ることでも存在の力は増えていく。
人から忘れ去られると、その分だけ存在の力は失われる。
『人は忘れ去られない限り、誰かの心の中で生き続ける』というのも、この原理に端を発した概念だ。

「私たちはこれを『存在の力』と呼んでるけど、『気』とか『オーラ』みたいに言われることもあるよ」
涼介は直感的に理解した。
「もしかして…」
「そうにゃす!おいどんたちが出してる光こそが『存在の力』なんだにゃ」
「なんか、すごいっすね!」
「『存在の力』は誰の体の中にもある。涼介さんの中にもある。でも、普通は目に見えない」
「茉莉花さんたちが能力を使うときは高密度で放たれるから光として見えるとかっすかね?」
「むむむー。さすがリョースケにゃすね!そのとおりだにゃ!」
「俺にも何か特殊な能力があったら良かったんすけどね…」

力があったら、はるりを守れたかもしれない。
そう思った自分に、涼介は驚いた。守る?彼女を何から守るというのか?
彼女の失踪の理由ですら、まだわかっていないというのに。
涼介は窓の外に目をやる。黄昏に浮かぶ月のように、朧げな記憶の奥底で、確固とした何かが見え隠れする。

「…別にそんないいものじゃないよ」
茉莉花のこの一言が、涼介の意識を現実に引き戻した。
彼女が発した言葉の意味を、涼介は訊くことができなかった。
声をかけることすら、できなかった。
俯く茉莉花の横顔は、あの日のはるりを想起させるものがあった。

ジョシュが、「にゃー」と声を上げた。
「能力なんかにゃくたって、リョースケは強い男だにゃ!おいどんも一緒に筋トレしたいにゃす〜」
「…いいっすね!自重トレーニングならネコさんもできそうですしね」
涼介がにこっと笑うと、ジョシュはフフフとにやけた。
「おいどん、実はすごいにゃすぞ!これを見るにゃ!」
そう言うと、なんとジョシュは逆立ちを披露した!
「んな、アホな!?」さすがの涼介も仰天した。
ジョシュは得意げな顔のまま前転した。

「にゃふふーん!リョースケのそんな顔、初めて見ましたにゃ〜」
喜びに満ちたジョシュの声が、夕暮れの闇に呑まれていった。

第六節

涼介のPCが分析の完了を告げるアラートを流した。
PCの画面には、立体的な蜘蛛の巣状のネットワーク図が映し出されていた。放射状に伸びる縦線と、同心円状に広がる横線が交差している。縦横の線が交差する箇所には点がある。点はSNSのアカウントを示し、線はアカウント同士の関係性を示している。

巣の中心に位置するのは、玲於奈のアカウントだ。彼女のアカウントを表す点の周りには、お店や従業員たちのアカウントを表す点が配置されている。

『VertexMaze』は、投稿数の多さ、その投稿への反応の多さから、影響度を測る。影響度が高いアカウントは、点が大きく表示される仕組みだ。

「1回目と2回目で炎上に加担しているアカウントの違いはほとんどありません。つまり、同じ人物が火付け役になっていて、それに便乗している人たちもほぼ同じ顔ぶれってことになります」
「ネットワークの真ん中がお店じゃなくて玲於奈さんなのはどうして?炎上してるのはお店って話だったよね?」
いい質問だ。
「はい。九条さんはお店のアカウントを気にされていましたが、誹謗中傷の多さは彼女のアカウントの方が遥かに多いんです。ただ、どちらもかなりの数なので、わざわざ数えない限りは違いわかんないかもっすね」
「つまり、飛び火してるのはお店の方ってこと?」
「そのとおりです」

そして、と涼介は続けた。ここからが本題だ。
「目立って影響力が強いアカウントがあります。…これです。自分でも相当書き込んでますが、他のユーザーを焚き付けて、明らかに炎上を狙った動きしてますね」
涼介が指差した先には、暗い太陽のような大きな球体があった。
「こいつの正体わかる?」
「はい。色んなアカウントを使い分けてるみたいですが、関係性が見えてるので、どれが本体かも瞭然っす」

涼介はひとつのSNSを開き、検索窓にアカウント名を入力した。
ページが緩やかに遷移する。
そこには、『虎岩龍五郎とらいわ りゅうごろう』という男の顔が映し出されていた。

第七節

涼介たちは『ハーモニー食堂』に向かった。
夕食を兼ねた、玲於奈への途中経過報告だ。彼女が虎岩龍五郎という男に、心当たりがあるかも確かめたかった。

事務所を出た3人は、商店街を北へと歩く。
ジョシュは茉莉花のリュックサックに身を潜めていた。揺れの激しさから、時折「ぐへっ」とか「ぶへっ」といった声が漏れる。
涼介はリュックを持つことを申し出た。
彼は荷物を事務所に置いてきたので、手が空いていたのだ。
「いいの?」
「もちろんっす」
「じゃあ、頼む」
「はい…って、結構重いっすね!」

想像以上の重量感に涼介は驚いた。それを一切感じさせなかった茉莉花は、見た目に反して力があるのかもしれない。それでも涼介の背中の方が安定するのか、ジョシュはご機嫌だ。リュックの中から、鼻歌が聞こえてくる。

茉莉花は女性としては長身だ。180センチ近い涼介と比べても、十数センチほどの差しかない。白いブラウスの上に紺のカーディガンを着るその姿は、すらりと伸びやかだ。ロングスカートのシルエットが、優美な気韻を添えている。

元々、表情の変化が少ない茉莉花だが、涼介はまだ彼女の笑顔を見たことがなかった。笑い声も聞いたことがない。
いつか、彼女が花のような笑顔を咲かせる日が来ますようにと、涼介は心の中で願った。

『ハーモニー食堂』の前に、見慣れた人影があった。重力に逆らった髪型、スパイクだらけの装飾、溢れんばかりのパンクスピリット。真也だ。
「よう、お前らも飯食いに来たのか?」
「はい。ケーキおいしかったので、ごはんも食べたいなと思って」
「んー…俺が言うのも違うかもしれないけどよ、今店のSNSが燃えてんだ。あいつら、すげえ苦労してる。人には見せないようにしてるけどな」
真也は、あいつらを助けてやってくれないかと言った。
状況を話したくなるが、探偵には守秘義務というものがある。
涼介がめずらしく返答に窮していると、茉莉花が助け舟を出した。
「あんたが依頼してくれるなら考える」
「マジかよ…今出費がかさむのはきついな。じゃ、お前らのこと紹介させてくれよ。あとは店主次第だ。それならいいだろ?」
「いいよ」
茉莉花は無表情のまま、ハーモニー食堂に入っていった。

涼介たちはテーブル席に案内された。
SNSやグルメサイトの炎上で客足が遠のいているのだろう。
広い店内には、彼らの他に2組しか入っていなかった。

玲於奈はホールスタッフに後を任せ、涼介たちの席に座った。
真也を見て、少し驚く。
「知り合いだったの?」
「まあな。こいつらには世話になったんだ」
真也は自らレコード盗難事件のあらましを語り始めた。
茉莉花は隠さず欠伸を連発し、リュックの中ではジョシュが呻いていた。
涼介は嬉々として話し続ける真也の表情から、人生に目標を見出した人間が持つ独特の強さのようなものを感じていた。

真也の記憶の中で、彼ははるりが人生を諦めていると察していた。
希望を持つことを諦めた人間なのだと言っていた。
ずっと一緒に暮らしてきたのに、涼介にはそれが見抜けなかった。
本来なら、来週結婚式を挙げるはずだった。
その先に、希望に満ちた明るい未来が広がっていると思っていたのは、涼介だけだったのだろうか。
いくら考えてもわからない。はるりの、本心が知りたい。

第八節

真也が話し終えると、今度は玲於奈が店のSNS炎上について、茉莉花たちに依頼していることを明かした。
「なんだよ、水臭えやつらだな!」と、最初は遺憾を示していた真也だが、やはり成長したのだろう。まっ、それくらい用心深い方が信用できるよな、と言い直し、冷えたジョッキを傾け、長話で枯らした喉を潤した。

涼介たちも玲於奈に途中経過を報告した。虎岩龍五郎についても訊ねる。
「この人なんっすけど、見覚えないですか?」
涼介はスマホで龍五郎のSNSページを開き、玲於奈の方に向けた。
「うーん、お客さんの顔は大体憶えてるんだけどなあ…」
玲於奈は、写真に目を細めた。記憶を探るようにしばらく見つめていたが、やがて諦めたように首を振った。

「俺にも見せてくれ」と真也が言った。
涼介は真也にスマホを手渡した。
真也は眉間にシワを寄せ、画面を食い入るように見つめている。
「わかんね。なんか見たことある気すんだけどな…」
真也は唸るように呟いたが、諦めてスマホを涼介に返した。

「それにしても名前負けしてやがんな、こいつ。見た目からして、絶対根暗だぜ」と決めつける真也に向けて、玲於奈が異を唱える。
「根暗でも別にいいじゃん。世の中には色んなタイプの人がいるけど、私はみんながリラックスして、自分らしくいられる場を作りたくて、このお店を始めたんだ」
「そっか。確かに居心地いいよな。『憩』だと俺、時々浮いてんだけどさ、この店は俺みてえなんがいてもいいんだなって思わせてくれるんだよな」
「浮いてるって自覚してたんだ…」茉莉花がぼそっと呟く。
「声は小せえけど、言ってることはうるせえな、お前」
「ははっ、まあでもほんと、皆にそう思ってほしいんだよね。私」
玲於奈が情熱を秘めた瞳で涼介を見た。
「お前、すげえよな。眩しいぜ」
へへっと鼻をこすりながら発した真也の言葉は、玲於奈にスルーされた。「素晴らしいっすね」と少し遅れて涼介も応えた。
玲於奈の思いが込められたこのお店には数多くのファンが付いていることを、涼介はSNSの投稿から知っていた。
今でこそ誹謗中傷に塗れてはいるが、元々は人気店なのだ。

「さて、こうなると、もうジョシュさん頼りですね」
涼介はリュックを前に抱え、ファスナーを開けた。
ジョシュがひょっこりと顔を出し、前足を伸ばして、玲於奈の肩に触れた。
リュックの中から、ふわりと青白い光が漏れ出た。

「これかにゃ?リューゴロウに関する記憶っぽいのがあったにゃす!」
ジョシュは記憶を掬うと、リュックの中でノートに記録を書き記した。
「読んでみてにゃす!」リュックからノートが飛び出てくる。
「ありがとうございます!」
涼介はノートをキャッチして、テーブルの上に広げた。
背後で客の一組が帰っていく気配がした。

がらんとしたお店の中で、一同は玲於奈の記録の世界を開いていった。

玲於奈の記憶

第九節

10月20日。『ハーモニー食堂』のSNS炎上から4ヶ月が経った。
午後1時。そろそろ起き上がらないと。
そうわかっていながらも、身体が動かない。
私は瑞善寺川緑地のベンチに仰臥していた。子供の頃から、落ち込むことがあると、このベンチに腰をかけて過ごしていた。
だけど、今はもう、座る気力も残ってない。

この4ヶ月間で店の売上は激減した。ただでさえ、人件費や材料費の高騰で、運営は厳しかった。それでも、足を運んでくれるお客さんたちのために、頑張りたかった。頑張りたかったのに…。

「もう無理...」
ここ数日、何度も繰り返した言葉。
気を抜くと、すぐに零れ出てしまう本音。
頑張ってるスタッフの前じゃ決して吐けない弱音。

資金繰りももう限界に近づいている。
頭を下げることに、もう何の抵抗も感じない。
大きな何かを失ったのに、なぜこんなことになってしまったのか、それすらもわからない。

親に頼めば、もしかしたら…。そんな思いが脳裏をよぎるけど、それだけは絶対にできない。
自分に残った最後のプライドまで失うことは、決してできない。

心身ともに摩耗して、頭もまともに働かなくなってくる。さっきからスマホが鳴ってる気がするけど、誰かと話すことがもう嫌で嫌で堪らない。

頭を横に向けて、歩道のすぐ向こうにある柵を見る。
あれを飛び越えて、どこか違う世界に行きたい。
そんな間の抜けたことを考えたそのとき、はちみつのように甘くて穏やかな女性の声がした。

「大丈夫ですか?」
ふわりと桃の香りがした。

可愛らしい、小柄な女性だった。
ほんのりとしたピンクベージュのミディアムボブ。リネンのシャツに厚手のニットセーター。フレアスカート。小さなバッグを抱える指先を、幾重にも連なる上品な光が彩る。
黒目がちな大きな瞳は、まるで春宵に瞬く星のように、優しい輝きを湛えている。彼女の小さな忘れ鼻は、愛らしさの証のようだ。少しふっくらとした頬はとても柔らかそうで、健康的な温かみがある。唇は自然なピンク色で、控えめな光沢があった。柔らかな曲線を描く上品なシルエットは、同性の私から見ても、うっとりしてしまうような魅力がある。

一度見たら忘れなそうな女性なのに、なぜか思い出すのに時間がかかった。
お客さんだ。常連ってほどじゃないけど、月に1回は来てくれてたはず。
みっともない姿を晒し続けるわけにはいかない。
私は何とか立ち上がろうとしたが、激しい頭痛に襲われて、倒れ込んだ。

「無理しないで」
女性が優しく肩を支えてくれる。距離が近付き、桃の匂いが強くなる。
こんなこと考えてる場合じゃないのに、良い匂いだなと思った。
嗅いだことがないような、不思議な深みがある香りだ。
桃のフルーティさと百合のフローラルな香りが絶妙に調和している。
ベースはムスクやバニラだろうか。まるで春の調べのようだ。

素敵だなと感心した。これほど魅力的な香りなのに、店に来るときは控えていてくれたのだ。彼女の人となりが、なんとなくわかる気がした。

第十節

女性の手を借りて、なんとかベンチに腰をかけた。彼女はバッグから小さなペットボトルの飲料水を取り出した。キャップを開けて、手渡してくれる。
「ありがとう」
なんとか、礼だけは伝える。声を出すと、また喋ることを嫌に思う気持ちが強まった。相手には、何の非もないのに。焦燥感が蘇ってくる。
さっきの電話は、銀行からかもしれない。
早く折り返さないと、好果に繋がる機会を逃してしまうかもしれない。
吐きそうだ。

「あなたのお店を炎上させた人を私は知ってる」
女性は私の隣に腰かけると、おもむろにそう呟いた。
犯人を知ってる?なんで?
誰がこんなことをやったのか。誰のせいで私はこんなに苦しんでいるのか。知りたかったはずなのに、今はもうどうでもいい。

そんなことよりも、今直面しているこの状況から、どうすれば脱することができるのか、教えてほしい。

「虎岩龍五郎。あなたのお店のお客さん。毎日来て、あなたを見てる」
虎岩…?誰?わからない。どうでもいい。本当にどうでもいい。
何も知りたくない。助けてほしい。ただただ、誰かに助けてもらいたい。
女性が少し驚いた顔を覗かせた。
口に出したつもりはなかったのに、言葉が漏れていたのかもしれない。

「もうほんと無理…」
何人かの人々が通り過ぎて、私たちを胡散臭そうな目で見ていく。カラスの鳴き声が頭に響く。10月なのに、太陽が燦々と輝いて、額から汗が流れる。本当に気温が高いのか、自分の体温が異常なのか、判断がつかない。
女性は深く考え込んでいた。沈黙をありがたく感じたが、彼女の言葉がそれを破る。

「炎上は私がなんとかするから、あなたはお店を立て直すことだけ考えて」
きっとうまくいくから。そう言うと、女性はベンチから立ち上がり、静かな足取りで遊歩道を歩いていく。

なんとかする?どうやって?
訊きたかったけど、声が出なかった。
でも、何故だろう。きっと炎上は収まる。そう信じることができた。

その数日後、炎上は本当に沈下した。
私は彼女の言葉どおり、店の立て直しに駆け回った。

きっとうまくいく。その言葉を信じて。


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