この世界が夢オチではなかったという唯一の証拠〜エーテル体とアストラル体⑨〜

どうして人を殺してはいけないのか??



一時期流行った質問らしいのですが、
『どうして』人を殺すのはいけないことなのですか???



一般向けの哲学とはちがって、
ここではオカルト&スピリチュアルを扱っている。



いわく、
この世は幻影に過ぎず、
どんなことを体験しようとも、
それはひとつの体験に過ぎない。



なにかを『体験した』のは事実でも
それはこの世界が実在しているからではなく、
幻影に過ぎないこの世界を、
『まるで現実であるかのように』
体験してみただけなのだ。



そのように述べることが、
異常でもなんでもない、
オカルト&スピリチュアルの世界観。


こうした世界観を背景に、
それでも改めて問うてみたら、
どうなるか。
どうして人を殺すのはいけないことなのですか──────???








この話には、じつは、
もっともっと先があり。



エーテル体とアストラル体、
という区分でいえば、
アストラル体が強化され、
アストラル体に習熟すればするほど、
『無敵の自分』を発見するし、
『自分の現実は自分で創造している』ことを理解するし、
ようするに、
みずからお望みの体験を創り出しては、
みずからそれを体験してみているだけなのだ、
という事実にも理解が及ぶ。



そうすると、
ほんとうに、
こういう話になってくる。
『この世界は自分自身のアストラル体の力で創造した幻影にすぎないのなら』
人を殺しまくる世界を創造するのも、
特定の種族を大虐殺するのも、
それどころか、
生きたままひどい苦しみを与え続けることだって、
まったくの自由ではないか??
なぜなら、
それらは幻影にすぎないのだから。
殺される者が苦しんでいるように見えても、それだって幻影に過ぎないはずだ。だとしたら何が問題なのか。
現にゲームの世界では敵を際限なくなぎ倒すゲームならすでにあって、そこに『まるで現実世界のような』リアリティーがどんどん書き加えられていっているのは周知の事実。
現実世界だって幻影に過ぎず、
しかも『自分の〝幻影〟は自分で創り出している』というのなら、
どんな残酷な世界を創造し、
どれほど残虐な行為に没頭しようと、
それはわたしの自由ではないのか???





このような疑問に対して、
たいていは因果律を使った反論がなされる。
が、それは説得力が無さすぎる。
①殺した者はいずれ殺されるとしてもべつに構わない。殺される体験もすればいい。しょせんすべては幻影なのだから。
②時間だって幻影にすぎないのに、自分のしたことが自分に返ってくるのは『いつ』なのか??
③わたしが大量虐殺を企むのは、過去に殺しまくっていた者達の因果報応を完結させるためだ。(※加害者ではなくわたしは正当な裁きを下しているという反論)
④仏教的因果律が本当なのか試してみたいから人殺しをしてみたい!




こんなふうに。
そもそも聞かされた時点で何の説得力も感じられず、反論の余地などいくらでもあるのだから、
『どうして人を殺してはいけないの???』
という質問に対して、
因果律を持ち出してしまった時点で、
『殺してはいけない理由はない』
と答えてしまっているのと、
紙一重、、、。




とはいえ。
これは重要な質問ではある。
あなた自身が、
『殺戮願望』を持っているかどうかは別にして。
これは考えてみる価値はある。


『この世は幻影に過ぎないのに』
『どうして人を殺してはいけないの???』
───────と。


すこしだけ、
考えてみてほしい。















わたしがこれから提示するのは、
先の質問に対する完璧な回答などでは
ありません。



むしろ、
『人を殺すのは自由だからこそ』
『殺されて苦しむ者が際限なく生じてしまい』
『地獄はいつも満員だ!』
というようなものです。



はっきり言ってしまえば、
『この世は幻影に過ぎない』のにもかかわらず、
苦しみだけは実在する、
という、どうしようもなさ。
まったくの、救いのなさ。
それが答えです。




理論的に厳密さを期すなら、
『この世界は幻影に過ぎない』
ことを実感できるのは、
苦しみを持たない状態にあるときだけで、
どのような理由であれ、
どのような形であれ、
ひどい苦しみを持たされてしまうと、
その苦しみが解消されるまでは、
『苦しみは実在するし』
『この世界は実在する』
ということなのです。



これは、ひどく過酷な話で。


わかりやすく言えば、
『加害者は』
なにをしようと、この世は幻影。
『被害者は』
被害を受けたことで、苦しみを持ってしまえば、その苦しみは実在し、それによって、この世界は実在してしまう。
つまり、
この世は幻影に過ぎない、
などという気楽な状態には二度と戻れない────苦しみが完全に解消されるまでは。




これは、殺人にかぎらず。
たとえば、性犯罪における被害者と加害者の不均衡などは、少しずつですが知られるようになってきた話でしょう。
加害者は加害したという事実にさえも気づいていない場合もある。
なのに、被害者はそれが世界のすべてになってしまう。



わたしも性被害のサバイバーなので、多少なりともそれについては語れます。
ものすごく嫌な体験をして、
思い出したくもないのに
(※場合によっては思い出すのも不可能なのに)
なぜかそれが世界の中心に居座ってしまって、絶対に離れてはくれないのです。




わたしは、
(※オカルト&スピリチュアル的観点から)
自分がこの世界の外からやってきたことを自覚していたし、
であれば当然、
この世界は幻影に過ぎないことも
知っていたはずなのですが。
それにもかかわらず、
その状態に回帰するためには、
『性被害に苦しんでいる』状態を、
どうしても終わらせなくてはなりませんでした。


得体の知れないトラウマに
苦しめられているあいだは、
あきらかにこの世界は
『実在していた』のです。



そうして、
『性被害』は、基本的には生きている人間の身に起こることですが。
殺人とか大量虐殺とかで生命を奪われる体験をした場合、
①殺された本人はさっさと輪廻転生する
にもかかわらず、
②殺された苦しみだけは(本人とは別に)消滅せずに残ってしまう
という現実があってですね。



ほんとうにわけのわからない話ですけど、
『この世界は幻影に過ぎない』
のにもかかわらず、
『苦しみだけは実在』
なのです。






この世界は幻影に過ぎないので。


それを体験している『本人』すらも
幻影に過ぎない。
という見方はたしかに成り立ちますよね。
輪廻転生について考えるとき、
『これはわたしの過去生です』
と確定できる根拠というものは、
どうしても存在せず、
けっきょくは突き詰めれば、
『その過去生を自分自身の現実として引き受ける』ことを決意するか否か、という話になります。
(※過去生として引き受けるとカルマも背負うことになります)


この世界は幻影に過ぎず、
だからこそ、
輪廻転生を繰り返している『本人』
(ないしは『魂』)
さえも幻影に過ぎないことになり、
ということは、
見方を変えれば、
『本人』などというものは存在しないことになります。


そうして、
それにもかかわらず、
『苦しみだけは、実在する』
のです。



意味わかりますか?
あなたが
『この世界は幻影に過ぎない』
ということが体感できないとしたら、
まだ多くの苦しみを背負っているからです。



仏教的世界観では、
苦しみの終わりと
輪廻転生からの卒業は、
ある種の同一性というか、
両方同時に実現し達成されるものとして描かれていますよね。


そのとおり、
苦しみは実在し、
しかし世界は幻影なのです。












ここで、
エーテル体とアストラル体の話に戻ると。

アストラル体にとっては、
①世界は幻影に過ぎず
②だからこそどんな世界も自由に創造できる
と言えます。
『方向性が360度完全に自由』
というふうに表現できます。
生き物をひたすら育てまくる世界も
生き物をひたすら殺しまくる世界も
どちらも創造できるし、
どちらもまったく等価です。



それに対して、
エーテル体にとっては、
『世界は一方向』なのです。
ある意味、
(物質界の)天地は、
エーテル体が創った、
と言ってもいい。


エーテル体にとっては、
世界創造の方向性は、
一方向に向かっていて、
それは、
産んで育てて成長させる。
ということです。
さきほどの例でいうと、
生き物をひたすら育てまくる世界が創造されればエーテル体は歓び、
生き物をひたすら殺しまくる世界に置き去りにされると、エーテル体は永遠に苦しむのです。


エーテル体とは生命ですから。
エーテル体にとっては、
ほんとうに多種多様な生物を創造でき
創造した生物を成長させてゆくこともまったく自然のうちに実現できる。


しかし、
産んで育てた生物が
意味もなく破壊されるのは、
エーテル体にとっては、
苦しみです。


エーテル体は生命力なので、
多少の理不尽には耐えられますが、
『自分の創り出した生命が』
『いともたやすく破壊される』
ということを際限なく繰り返されると、
さすがに耐久力の限界を超えてしまって、生きていることそのものが地獄に感じられてきます。
これは個人のエーテル体においても起こることだし、
いまや『地球のエーテル体』が、
その状態にあり、
苦しんでいると言えます。



人間の身体について、
人それぞれ『わたしの身体』という見方をしますが、
少し引いた目線から見れば、
誰しも例外なく、
『地球の物質』でできた、
『地球の身体』です。
生まれてから死ぬまで、
人間の身体が
『地球から独立する』ことは
一度も無いのです。


人間だけでなく、
地球上のありとあらゆる生き物は
『地球の素材でできた身体』を持つ、
『地球の身体』です。


地球上にあるすべての物質は、
地球という素材でできた、
『地球の身体』であり、
この世界にいるかぎり、
『地球と無関係になる』ことは、
一瞬たりともありません。



これをエーテル体(=生命力)に置き換えると、
地球上のすべての生き物は、
固有のエーテル体を持っていますが、
それは同時に、
地球のエーテル体でもあり、
すべての生き物は、
地球から生命力を供給されて生きているのです。


地球には無限ともいえる生命エネルギーがあり、だからこそ際限なく生き物を生み出し続けることができていますが、だからといって、自分が創造した生命が、わけもなく殺害されるのは、地球にとって著しく苦痛な出来事であり、そのようなことを際限なく繰り返されれば地球は苦しみます。



地球の苦しみが、
(エーテル体を介して)
すべての生き物に伝わります。



それゆえすべての生き物は、
少なからず苦しみを抱えていて、
これは、
地球そのものが浄化されるまで
終わりません。



この世界は幻影に過ぎないのに、
地球にいると
『まるでこの世界は現実であるかのように』思えてくることと、
それは苦しみに満ちていることとは、
表裏一体の同じものであります。



この世界は幻影に過ぎないと
知悉している者たちが、
この世界で暴れまわった結果、
『苦しみという実在』が遺され、
この世は地獄になってしまいました。




男性はアストラル体が強く、
女性はエーテル体が強い。




そうして、
アストラル体にとっては、
この世界は幻影に過ぎず、
この世界は愉しむための場所。



しかし、
エーテル体にとっては、
自分の生み出した生命を一方的に破壊されることには苦痛を伴い、場合によっては、その苦しみは永遠に残ってしまいます。



男は女を犯して喜び、
女はただ苦しむ。



これは、
少なからずこの世界の縮図です。



こんなにも暗い内容の原稿を、
最後まで読んでくれたあなたに、
最後にひとつだけお訊ねしたい。




どちらがいいですか??



この世界は幻影に過ぎないと
割り切ることができて、
望むがままに
ありとあらゆる享楽を享受する世界
(=アストラル界)と、



ただの『幻影』ではない
産んで育てて成長させるという
特定の方向性を伴った
『生命』を創造してしまったばっかりに、
『殺される』という苦しみが実在することになってしまった世界
(=エーテル界)と。



わたしは、
これほどまでに深い苦しみに直面させられていても、
(幻影ではない)生きた実体であること、
『生命体』『生き物』であることの、
かけがえのなさを、
手放すことができずにいます。



わたしはわたしの愛する彼女が、
ホログラムではなく、
生きた生命体であってほしい。
温もりも眼差しも失いたくはない。




※※※※※※※※※
#エーテル体とアストラル体
#唯物論世界からの脱出

この記事が参加している募集

いただいたお金は女性ホルモン剤の購入に充てさせていただきます。プレマリン・ヴァージナル・クリーム、シテロン、エチニラ、マレフェetc