「フェミニスト・シティ」感想未満の覚書 女性と恐怖について
筆者の主張メモ
ニセのトランス女性という恐怖の対象は純粋にトランスフォビアの産物で、女性(トランスもシスも含む)が日常的に経験している暴力への懸念に根差したものではないだろう
個室トイレ化しても性暴力やトランスフォビアがなくなることはない
それでも、あらゆる身体の持ち主に対して最大限トイレへのアクセスを保証することは大切だ
女性が暴力の被害にあう機会は、公共空間に見知らぬ人からではなく、自宅や職場などで顔見知りの人から受けることの方が多い
しかしながら、公共トイレなどの公共空間における見知らぬ人からの暴力に恐怖を感じるという女性は多い
恐怖の根源を特定することは難しいが、少なくとも「本能」や「進化の過程で獲得されたもの」ではない(=自宅や職場などに恐怖を感じるようにならないとおかしいから)
公共空間に恐怖を感じる女性がおかしいとか、公共空間における女性への暴力はないと決めつけているわけではない
見知らぬ人に気をつけてとか、暗闇に気をつけてなどの、家族や知人からのメッセージによる社会化が一因ではないか
公共空間での性的ハラスメントも常態化しており、これも女性の恐怖を増大させている
見知らぬ他人から受けた犯罪被害を過剰に報道しているメディアの責任もあるのではないか
この社会化によって女性は一見安全と思える異性愛関係に依存することになる
恐怖は公共空間の使い方や仕事の選び方に影響を与え、保護者としての男性への依存に縛り続ける
女性を異性愛関係に依存させパブリックな空間に縛り付けることは、家父長制的な資本主義に資するものだ
社会化に抗うと、そんな服装をしていたから、暗闇を歩いていたからと、女性のせいにされてしまう
家賃の安い1階に住むことを避けることで余計な出費が必要になったり、タクシーにならなければならなかったり、余計な費用を女性に課している
雑感〜経産省トイレ訴訟と絡めて
トランス女性による女性トイレ使用に対して恐怖を覚える女性がいる理由について分かりやすく記載されていたと思う。
多くの女性は公共空間に恐怖を覚えているが、その根本的な原因は我々男性の側にあったのである。
totoによる公共トイレの検討記事を以下に貼るが、女性は共用部分にある個室トイレにも「本能的」な恐怖を感じるという。
「フェミニスト・シティ」の議論を踏まえるならば、「本能的」な恐怖は社会的に誇張された恐怖に基づく誤解ということもできる。
女性の側に「統計的にそんなに恐る必要はないし、共用トイレにも慣れた方がいい」とか」なんて言うことは簡単かもしれないが、女性が公共の空間に恐怖を抱いているのは社会構造の問題でもある。
社会構造の問題であれば、我々男性にだってできることはある。例えば、性被害を訴えた女性が糾弾することに乗っからない・反対するなど、性被害=女性にも非があるという考えに反対するなどが思いつく。ある意味当たり前な行動ではあるが、この当たり前な行動はレイプ神話の解体ひいては女性の権利擁護だけでなく、性的少数者の権利擁護にもつながっていくかもしれない。
経産省トイレ訴訟の判決がでたことにより、女性の権利擁護を盾に取ったトランスフォビア的な発言が散見され、モヤモヤしていた。
この本を通して、この件に関して自分にもできることが見つかり、モヤモヤも少し晴れたような気がした。
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