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冬銀河 俳句6句とエッセイ

12月 6句


秒針のすみやかに行く冬銀河

一呼吸すれば山茶花ひとつ咲く

煮凝りのような月日を男女かな

冬木立まだ・どこかに・こころざし

落ちてくる落ち葉とそのてにをは

本当のことは言はずに毛玉取る




12月のエッセイ


クリスマスいつかどこかにあるリボン


「そんなに言う事を聞かないなら、今年のクリスマスは皆プレゼント無しですからねっ!」

母の声には意を決した感があったので、私達兄弟は首をすくめた。
年の近い兄弟というものは何かと喧嘩が多くなる。私がいくつくらいの頃だったのか、9歳くらいだっただろうか、その頃はまた格別にすったもんだの回数が頻繁だったのだと思う。

自分からは積極的に悪さをするわけではなかったが、何か道理に合わないことをされると、徹底的に後追いして追及するタイプだったから、喧嘩は長引く。
頭のいい年嵩の兄は、こちらの一本気を事もなくへらへらとかわして逃げるので、一本気の薪にはどんどんと火がくべられて、騒ぎは祭りの如く大きくなる。
最初に兄にされた悪さはさほどの事ではなかったのかもしれないが、相手が自分のしたことを認めずにのらりくらりと逃げる、その過程によって、毛糸玉ほどだった騒ぎが雪だるまほどになってしまうのだ。

それで悔しさのあまり、大きな声を出したり泣いたりして、派手に逆襲しようとしているのは私なのだから、当然親が止め立てするのは私の方であり、兄はといえば軽々と逃げ回っている、どちらかと言えば被害者のように見えたに違いない。
これが女の子らしくしおらしく、「えーん、お兄ちゃんが・・・」などと言って母に縋り付いていけば、怒られるのは兄なのであろうが、あくまでも自力でかなわぬ相手に向かっていこうとするので、その勢いたるや親から見たら私の方が悪者になってしまうのだ..


そのお祭り騒ぎが度を越していて、母の手に余ったのだろう、今年はクリスマスプレゼント無し、という母の一声は、聳え立つ山の如く、毅然とした空気をしょっていたので、私達はしょげかえった。


ある夏に、私たちは父の妹の叔母一家と一緒に旅行に行ったことがあった。(私達の父は、私が2歳の頃に亡くなっていた)。
その叔母にはまだ三歳ほどの女の子と五歳くらいの男の子がいて、その子達も私達兄弟と一緒に遊んでいた。
その男の子が女の子にちょっとした悪さをした時の事だ。

女の子は、私に似ていて、一本気なところがあるようで、小さいけれども豆炭の如く真っ赤に怒って、男の子を追い回した。男の子は、大きいし、足も速いし、例によって、にやにやしながら牛若丸のように逃げ回る。
すると女の子は益々ヒートしていって、大騒ぎになって来る。

見ていた私は、つくづく身に覚えのあるパターンだなあ、と思った。

すると父親が女の子の手を捕まえて、言った。「やめなさい、やめなさい、〇〇子、女の子だろう?」
この理不尽な止め立てに、女の子は益々オーバーヒートしてくる。

そこへ登場したお母さん、父の妹が、女王の如く静かに、威厳を持った声で言った。
「あなた、やらせなさい。〇〇子にお返し、させなさい。」

ちょっと考えていた父親は、それが道理と感じたのだろう、男の子を捕まえると、両手を抑えて、自分の前に抱きかかえるようにして、二人して女の子の前に立った。
女の子は、小さな拳を精一杯振り上げて、男の子に逆襲の一撃をした。
しかしそれはきっと、男の子に大したダメージを与えなかった程度の力だったのだろう。
男の子は最後まで笑っていた。

かくして事は速やかに終わったのだが、私は感動のあまりしばし呆然としていた。

その後しばらく、私はたびたび空想した。
いつものようにもめごとが起きる。巧妙に逃げる兄を私が執拗に追うが捕まらない。
そこへ母が神々しく現れる。
父は亡くなっていたから、祖母か何か、他の人に兄を捕まえさせる。
「さあ、〇〇ちゃん、お返ししなさい」
わたしは思いっきり兄を叩く。

わたしにはあの叔母が、暫くの間、エリザベス女王さながらに、高貴な、非凡な「特別の人」に思えたものだった。

しかし家の事情はまた違っていたわけだから、家庭と言うものも一つの国のようなものであるからには、子供と言う国民は国を司っている大人たちに従わざるを得ない。

さてクリスマス当日の朝、私達兄弟は目覚めた。
母の物言いは毅然としていたけれども、もしかしたらというほんの少しの希望もあるにはあった。

しかし、いつもなら胸躍るクリスマスプレゼントが各々の枕元に置かれているのだが、その日はひっそりと、クリスマスカードだけが置かれていた。

あの朝の清らかな寒さを、やけにはっきりと覚えているのはなぜだろう。
プレゼントが無かったということは、天から大きな引き算をされてしまったような虚無感があって、失望していたことはしていたのだけれども、その欠損を子供心に神妙に受け止めていたのかもしれない。

それはプレゼントを十分に貰って喜色満面だったどのクリスマスより、なぜか厳かで神聖なクリスマスらしい朝、という感じがした。


だが、よくよく見ると、私の枕元だけには、小さな紙包みが置かれていた。
開けてみると、それは掌にのるほどの、小さなピンクッションだった。

まあるいクッション部分は、パステルカラーの優しい花柄の綿プリントで、ぐるりとミントグリーンのサテンのフリルで縁取ってある。
不器用で縫物は嫌いだったけれども、このピンクッションの華憐さは、神妙な失望の曇り空に突如現れた小さな虹のように、私の心をほんのりと明るくした。
プレゼントというほどのものではなくとも、私だけにこうした「おまけ」があったことに、男の子たちはブーイングをしなかった。

曲がりなりにも自分が親というものを経験した今となっては、母の気持ちは良くわかるのである。

手に負えない子供たちに、「プレゼント無し!」と宣言したものの、その後色々と気持ちは動いたのであろう。
一年に一度の事だし、それではあんまりかわいそうかと、何度か心変わりしたに違いない。
しかしそれでは、再度同じようなことがあった時に、示しがつかないというものである。
「クリスマスプレゼント無し!」と声高々に言っても、もう誰も信用しないだろう。
教育上、やはりここは涙を呑んで言ったとおりにしておこう、そんな風に思ったのではないか。

しかし、母は仕事で釦屋など洋品店に足繁く出入りしていたので、仕事ついでに店頭で可愛らしいピンクッションを見つけて、ふっと心が動いた。

男の子たちは、毎年、親類の家に年始の挨拶に行くときに、大きな実入りがあるのである。
プラモデルを商いしていた親類がいて、そこに毎年正月に行くと、兄弟それぞれにひとつづつすきなプラモデルを選ばせて、土産に持たせてくれるのだ。

しかし女の子の私に気に入るようなものはいつでも無く、不承不承、家の形の貯金箱とかもらっては来るものの、結局は作らずに終わってしまう、ということになる。

お年玉は公平に貰えるものの、年始になれば男の子たちにはちょっとした楽しみが待っているけれども、女の子の私には無い。
それですこし可哀そうに思ったのだろうけれども、ここで私だけクリスマスらしい立派なものを与えるわけにはいかない。それこそ不公平というものである。

そこで仕事ついでにふと目にとめた小さなものを、これくらいならば支障なかろう、と思ったのではないか。

母の経営していた洋装店は時代のニーズに合ってとても繁盛していたから、クリスマスには大抵希望のものをもらっていたように思うのだが、今となっては、何をもらったのか、ひとつも覚えていないのである。
大方あの時代夢中になっていたバービー人形とか、人形の着せ替えの洋服とか、天鵞絨のバッグとか、キラキラ光るカットガラスのブローチとか、そんなようなものであったのだろうけれど。

覚えているのは、プレゼント無しと宣言されたこの日の朝の、やけに神聖で透明な寒さと、ちょっとした母の気配りそのもののような小さなピンクッション。
他の年に比べれば、淋しい結果だったクリスマスの記憶だけがやけに鮮やかなのは、一体何故なのだろうと、今でも不思議である。



やがて私達兄弟は成長して無駄な喧嘩などはしなくなり、思春期には兄はギターの達人になり、私はシュールレアリスムの真似事のような油絵を描くようになり、下の弟は地道に勉学に励んでいて、それぞれの世界を尊敬し合い、親も好きなことをやらせてくれたし、母子家庭であったが、あるいはそれ故か、それなりに自由で民主的なファミリーだった。

しかし大人になってそれぞれ家庭を持つようになり、義理の仲というものが発生してくると、厄介なことが色々と起き始めるのだった。

母を挟んで様々な問題が起きるようになり、抜き差しならない確執が生まれたり、長く疎遠となったり、いやはや兄弟間の問題というものは、いざ何か起きるとそれは容易に抜けられない迷路のように、長く心を悩ませるものである。

それは婚家の夫の方でも同様で、と言うかより深刻な展開で、ついには調停だの裁判沙汰になり、いまだ解決を見ない状態で、しかも同じ敷地に住んでいるので、中々に大変である。

ある日、夫が言った。
「ま、兄弟ってもんは、いいのは子供の時だけなんだよ、そんなもんだ」。

しかしその声色は、酷く失望したり、やけになったりしている様子ではない。

何と言うか、さっぱりとしていて、明快なあきらめに満ちている。
時系列的に考えると、昔良かったとしても今壊滅的な状態の物事は、失望しか生み出さないというのが普通の考え方かもしれないが、

「良かった時もあったんだから、それで良しとしよう、あるべく理想を追ったところで仕方ない、今は今、過去は過去、それでいい」そんな風に思っているような、そんな声色だった。

今思えば寄ると触ると火花を散らしていた私の家の兄弟喧嘩も、微笑ましいものだったと言わざるを得ない。


色んなクリスマスがあった。

家族というものも、その時その時の集合体だ。その時その時居合わせたものが乗っている小さな船。

私たちは喧嘩したり、団結したり、心配したり、傷つけ合ったりしながらも、ある一時を確実に、共にしていた。

それで十分ではないだろうか。

それは遠い過去だったかもしれない。今は既に無いものかもしれない。

しかし、その過去は決して動かない。


いつかどこかのリボンで束ねられていた、プレゼント。


そのピンクッションは、いまだに私の裁縫箱の中にある。
真ん中のクッション部分の花プリントはやや変色して黄ばんでいるけれど、ミントグリーンのフリルの部分は変わらず艶やかな光を放っている。

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