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私なんかが心配する必要はない

昔から恩を仇で返すことが多かったと思う。

今でこそ少しは
他者の痛みを想像して言葉を発したり
行動することができるようになったのではと思っているが

それでもここ数年の言動行動を振り返り
「こりゃ恨まれても仕方ないな」と反省することがある。






行動の場合、
これをしたら相手が傷つくだろことが想像できている。

それなのに
「いやだごめんむり」が心の中で反復横跳びしてどうしようもなく行動に移す。



言動の場合はそんなこと考えもしない
もっとナチュラルに相手の逆鱗にふれてるだろう。

最低なことを言ってしまったと気づくのはずっと後のことだ。





自分がされた側にまわったとたん
悲劇のヒロインに早変わりし
うるさく喚き散らしていた私だが

心の底では、
相手を責められたもんじゃねえよなとも思っていた。



自分がしたことをされてみて
初めてその辛さがわかる私は
たぶん人生一周目だろう。





恩を仇で返した覚えがある人たちのことを思い出す。

もう2度と関われない人たち。
勝手な思いであることは百も承知かつ
ふざけんなよ、と自分自身に吐き捨てながらも彼、彼女らになにか相応の幸運が降ってわいていればいいのにと思う。



そんなことを考えつつ
noteを巡回している時に
こちらの記事を読んだ。

自分の受けた恩を、様々な理由でなかなか返せない人に、もし神様が何か言うとしたら、このペイフォワードのことを言うような気がしてきました。


恩をくれた相手には神様が報いてくれるから、そのことは気にせずに先に渡せと、そんなふうに言うのではないかと思います。

宗教や信仰についての雑記 #84
F.マイケルさん




そっか、そうだ
そうだよね。

自分のことを省みず
思いを預けてくれたり
行動してくれるような人間たちは
ちゃんと神様が報いてくれていることだろう。

私なんかが心配する必要はないのだ。



だからといって何もしないわけでなく
その人に返せなかった恩を
別の誰かへの優しさで返せば良い。


なんだか一気に視界がひらけた気分だ。














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