ヴェネツィアとイタリアの歴史観(1/3)
イタリア半島は、ローマ帝国滅亡のあと、北から南から、西から東から、様々な民族が侵入を繰り返し、異なる文化を持つ大小の国々が建設されて来ました。
南部はイスラム、スペインの影響を強く受け、中部から北イタリアでは、小都市国家が分立していました。
今では「世界最小の国」であるヴァチカン市国も、かつてはローマ教皇領として、ナポリの北側からローマ周辺はもちろん、(フィレンツェ、シエナを除き)東部はヴェネツィアの手前まで達していました。
容姿もメンタリティーも、まったく違う民族が散らばって国を形成し、国境付近だけでなく、一つの国の中でも地域や区域ごとに、小競り合いと衝突を繰り返してきた場所です。
そして、19世紀になって、ようやく「イタリア」という国として統一されたのですが、地方の特色や地域同士のライバル意識は色濃く残っています。
広い視点でいえば、南北での大きな違い―倫理感から経済的な格差。狭い視点では同じ街の中での違い―小さなそれぞれの区域が持つ、方言から食の伝統に至る土着性。
これらの大小にわたる、決して譲り合わない頑固さが、風土となり文化となり、イタリアの面白さや奥行きを形作っていることは間違いありません。
イタリアのイタリアらしさは、イタリアという概念を取り去ったところにあります。つまり、イタリアという額縁を無視して、ひとつひとつ異なる輝きを放つモザイクのかけらを観察しないことには、意味がありません。
イタリアという額縁で囲まれた全体像としてのモザイク画に何が描かれているのかは、あまりにも混沌としてイタリア人自身にも外国人にも分からないのですから。
イタリアという国はあっても、パスポート上はイタリア人でも、実際にはイタリア人は存在しないと言ってもいいくらい、郷土色が強いからです。シチリア人は、本土へ行くのに「イタリアへ行く」という言い方をするし、例えば同じような地震が起きても、南と北では、反応もアクションも全く違うことでも分かります。
ですから、イタリアとしての共通の歴史観を持つのは、それはそれは困難を極めるというものです。それでも教師の知識や教科書は、当然ある程度統一した物が必要なわけです。
ローマ教皇領に王国や公国、共和国などが、覇権を争ってきたイタリア半島で、では、現在どの視点から歴史が語られているかというと、それは「ローマ」から見た歴史です。
現在の首都であるというよりも、ヨーロッパ文化の源である古代ギリシャ文明の後を継ぐ、栄光のローマ帝国発祥の地であること。そしてもっと大きな要因は、ローマカトリック教会の総本山の地であること、です。
初代教皇とされる聖ペテロ(紀元60年頃)から数えて、現在の266代目のフランチェスコ法王まで、そのほとんどがイタリア人である教皇の2000年の歴史は、今日もなおイタリア社会に、目には見えないほど透明で、しかし強靭な影響力を与え続けています。
先代のヨハネ・パウロ2世も現教皇も、好々爺的な微笑みをたたえ、こじんまりとしたヴァチカン市国から、世界の平和を願う、というイメージが強いのですが、良くも悪くもそれだけではないでしょう。
何も、その微笑みの後に、陰謀が隠されている、ということではありません。ただ、ヴァチカンの国自体は小さくとも、ローマ教会の組織は巨大であり、特にイタリアでは、あらゆる場所の草の根まで浸透しているため、尊厳死問題や家族のあり方等に関する教皇の発言や姿勢は、直接人々の、宗教というよりモラルの基準として、無意識のレベルにまで影響を与えているからです。
とはいえ、歴史観の統一という立場に立てば、どこかに照準を合わさなければ収拾がつかないので、大きな権威を持つ「ローマ」からの視点になることも、仕方のないことかもしれません。
ただ、例えばヴェネツィアのように、ローマ教会に対して「恭順」とは反対の姿勢を貫いた国では、ヴェネツィアの知将も、「イタリアの歴史」では単なる悪者として描写されることが、しばしば起きてしまうのです。
人物の評価はもちろん、ヴェネツィア人が始めた先進的な政治的機構や社会制度、経済政策等も過小評価もしくは、まったく言及すらされないことが、理不尽なほど多々あります。
続きます。
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