見出し画像

アルメニア人のサン・ラザロ島 1/2


San Lazzaro degli Armeni島

ヴェネツィア本島南東のラグーナ上、リド島の手前にある「アルメニア人のサン・ラザロ島」は、島全体が、アルメニア教会のメキタル会の修道院です。

18世紀の初めに、アルメニア人の修道院になる前は、9世紀頃からハンセン病患者や、巡礼者、貧しい人々のための病院がありました。
ハンセン病の原因となる細菌は、古来から湿度の高いアジアにあり、中東を超えアジアへも行き来していた、ヴェネツィアの商人たちが感染することもあり、他の地域よりもこのための病院が比較的多いのです。

14世紀半ばには、聖ラザロ(ハンセン病患者や行き倒れた人の守護聖人)に捧げられた現在の修道院が建てられています。
1601年に、病院がヴェネツィア本島に移転された後は、島は放棄され、難民状態にある修道会の、一時的な避難場所となっていました。

1717年、ヴェネツィア政府は、アルメニア教会メキタル会の創立者である、ピエトロ・マヌーク修道士を中心とする、アルメニア人修道士たちに、この島を提供します。

それ以前の1701年に、オスマントルコ支配下で宗教的迫害を受けて、当時ヴェネツィア帝国領であった、モドーネ(現ギリシャ、ペロポネソス半島)に逃げて来ていました。そこで、メキタル(ピエトロ・マヌーク)は、現地の監督長官であるヴェネツィア人、アンジェロ・エモや、後に共和国総督となるモチェニーゴなどの有力人物と知り合い、彼らの安住の土地への道が開けたのでした。

地図の青い部分がペロポネソス半島

ビザンティン帝国時代から、東方の国々へ行き来していたヴェネツィア人と、アルメニア人の関係は古く、1717年にサン・ラザロ島がアルメニア人修道士の拠点になる何世紀も前から、たくさんのアルメニア商人がヴェネツィアに住んでいました。

その上、15から17世紀にかけてキプロス島やギリシャの一部がヴェネツィア領で、アルメニアの領土ももっと広かったことを思えばヴェネツィアにとって遠い国ではありませんでした。

 このアルメニア教会メキタル修道会の創立者、メキタル(ピエトロ・マヌーク)は、裕福な商人だった親の反対をおして、修道僧の道を選びます。1696年20歳で司祭に任命され、伝道者の育成の他、とりわけ祖国アルメニア人の精神と文化的な向上に力を注ぎます。その溢れるような情熱とあたたかい人間性で、人々や他の修道士の心を動かしてゆきます。

 しかし、コンスタンティノープルでは、オスマン帝国下でのカトリック教徒に対する迫害が増しており、メキタルも人々を煽動したとして、ブラックリスト上の一人でした。

2/2に続く


この記事が参加している募集

スキしてみて

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?