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短編|向日葵と銃弾【第一話】 

 静寂せいじゃくが支配する真夜中の街路。この物語の主人公であるフョードルは、硬いレンガ造りの地面から伝わってくる氷のような冷たさに辟易へきえきする。冬の寒さが苦手な人は多いことだろう。この地、モスクワではお湯を使うことができたり、暖炉を設置しているのも、一定の裕福な家庭に限られ、冬は深刻な問題なのだ。

 フョードルもその一例から漏れず、かじかんだ手をロングコートの腹部あたりについているポケットへと押し込む。フョードルの仕事は殺し屋だ。指先の硬直は命のやり取りをする際に障害となりえる。ポケットの中で手を握りしめながら、もはや癖となってしまった足音を殺すという行為を自然に遂行し、ぽつぽつと人が立っている街路を静かに歩く。真夜中の街路とはいえ、人が全く居ない訳ではなく、生活困窮者せいかつこんきゅうしゃや飲み歩いている人間は多少なりとも存在する。

 本日のターゲットは若い女だ。詳しい容姿などについては後ほど紹介するとして、若い女というのも珍しい依頼ではある。

 そこでフョードルの眼に一人の女が映る。凛とした顔に華奢きゃしゃな体。髪色は明るい栗毛色で、肩までのウェーブ。それに、足が不自由なのか車椅子を回して動かしており、間違いなく今回のターゲットであった。最近の車椅子は一人で動かせるという話をきいていたが、フョードルが見たのは今回が初めてだ。名はレーナというらしく、発見した場所もマルガヤ商会という商業会社の前で指示通りの場所だ。マルガヤ商会とは最近急成長中の商会であり、その成長に最も貢献こうけんした人物こそ、マルガヤ商会の会長の娘であるレーナとのことだ。そのことで他の商会からねたみを買ったのか、はたまた全く別の理由なのかは、ただ命令をこなすだけのフョードルには知る由もないことだが。

 愛銃のトカレフをコートの内側から引き抜き、手馴れた動作でマガジンを押込み、弾を装填そうてんして右手へと携えた。トカレフとの付き合いも長く、初めての依頼で殺した人物から拝借したものだ。そのため手の中でよくなじみ、いつでも撃てるぞと幻聴まで聞こえてきそうな気さえする。

 一人で商会へと入ろうとしているレーナの後ろへゆっくり忍び込み、銃を突きつけた。フョードルの悪い癖だ。すぐに銃弾を放てばそれで終わる仕事を放棄し、殺す相手がどんな人物なのかを知りたいと思ってしまう。しかし、フョードルは殺し屋稼業を始めて一度も依頼を失敗したことがないので、今回も他と同様に吟味ぎんみの時間を設ける。

「……誰ですか」

 少し震えた声で、レーナは後ろを振り返らずに問う。この場所で生きているものならば、銃は遠い存在などではなく、割と日常に浸透しんとうしているものだ。声が震えているのも、自分の頭に何が突きつけられているのか気づいたからだろう。

 しかし、そんなことなどどうでも良く、フョードルに人生で一番の衝撃が走った。その衝撃の理由は声だ。レーナの先ほどの声が耳に張り付き離れない。フョードルにとってこんな美しい声を聴いたのは、生まれて初めてのことだ。いつか見た映画のワンシーンで『一目惚れ』をするシーンを見たことがあるが、今の自分は一目惚れをしたのだと直感的に気づく。その映画では容姿に惚れていたが、フョードルにとってその役割を果たしたのは紛れもなく、レーナが発した透き通るような声音だった。

「――――」

 レーナの問いに無言で応答するフョードル。正直初めての経験で、どうすればいいのかわからない。しかし、一つだけ明確な思いが頭をよぎる――
殺したくない。それがフョードルが出した結論であり、すなわち依頼の失敗だ。
 フョードルは力の入らなくなった腕を下ろし、そのことを不思議に思い、こちらを向いたレーナに不細工な笑みではにかんだ。

 





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