【短編】嫌いなあいつ

 嫌いなあいつが死んだ。
 昨日のことだった。夜中の一時に友人から電話がかかってきて、そのことを知った。
 「大山、今朝病気で亡くなったらしい」
 その言葉を聞いた私の心臓は高鳴った。我ながら最低だやめておけと思ったのだが、心拍数は倍くらい速くなって、全身で鼓動を感じた。どれだけ上からその感情を抑えても、体は正直にその体温を上げていた。
 「そっか…。教えてくれてありがとう」
 私は嬉々たる思いを殺して、静かに言った。
 翌朝、目が覚めて、昨晩の着信履歴に友人の名が刻まれていることを確認して、これが現実であると分かった。
 初めてだった。人の死でこんなに心が動いたのは、これが初めてだった。
 三年前に父が死んだときは何も感じなかった。悲しいとも嬉しいとも思わなかった。小さい頃に祖母が死んだときも何も思わなかった。
 仕事から帰ってきた午後八時、私は後ろで縛った長い髪をほどいて、暗いキッチンでコンビニ弁当を温める。オレンジのスポットライトに照らされて、ぐるぐる回るプラスチックの弁当箱。中には鮭ときんぴらごぼうと海苔に覆われたご飯が入っている。
 私はマイクロ波で熱されるそれを眺めながら、嫌いなあいつとの日々を思い返す。
 初めてあったのは、小学校の時。一年からずっと一緒にいた。何故かきっかけなんて覚えていないけど仲良くなった。その頃はあいつのことがどちらかといえば好きだった。
 中学でもクラスが一緒で、始めたまたま隣の席になった。授業中に喋ったりして先生に怒られたこともあった。それでも楽しく笑ってた。けれど、席替えして席が遠くなったら、話す機会も減った。二年になってからは、たまに一緒に帰るくらいだった。もうこの頃には、好きっていうのが多分、恋としてのものに近づいていた。自分の中で認めてなかったけど。
 高校は別々になった。少し寂しいとは思ったけど、そこまで気にするほどでもなかった。親から与えられたケータイであいつと毎晩メールした。電話もした。二人共、新しい場に慣れるのが苦手っていうのもあって、依存まではいかないけど、支えが欲しかったんだと思う。それでも、それも初めの3ヶ月位までで、夏休みに入る前にはそんなこともしなくなっていた。でもその年の夏休み、一緒に花火大会に行った。向こうが誘ってくれた。今でも、あのときの光景どころか、少しじめついた熱気と体の芯まで揺らす轟音、あいつの声と甘いスポーツドリンクの味はありありと浮かぶ。
 もうその時、私はあいつを本当に好きになってしまった。やめときゃよかったのに。あいつのことを好きになってしまったのだ。
 それからたまに遊んだりして、バレンタインにふざけて本命だよって言ったりして、三年間過ごした。
 進路は二人共進学で、たまたま近くの大学だった。借りたアパートも近くで、遊びに行ったりもした。
 「ピー」
 私を記憶の世界から現実へと引き戻すように、静寂のアパートの一室に、電子レンジの音が響いた。私は温かい弁当を手に、すぐ横の居間に向かった。
 低いテーブルに置かれたビニール袋から割り箸を取り出して、その場に座った。弁当のフタを開けると、香ばしい鮭と、しっとりとした海苔の艶が食欲をそそった。
 「いただきます」
 ご飯を一口。
 ああ、これにさえ、あいつの思い出が残っている。最悪だ。
 あいつの好きな弁当はのり弁だった。あいつの家に遊びに行くたび、ゴミ箱の中には空になったコンビニの、のり弁当が捨てられていた。
 「これ好きなんだ」と言った私に、あいつは「別に」って返してきたけど、多分好きだったんだと思う。だってあいつ、昔から気に入ったものは決まって同じもの使い続けていたりしたから。
 大学も三年になって就活が始まろうとしていた。その頃、私はこのあいつへの想いをいつ伝えようかと悩んでいた。そもそも伝えてもいいものかとも思っていた。そんなときだった。ああ、本当にこれこそ今でも思い出せる、いやその場に戻れる。
 その年のクリスマス、私はあいつに告白しようと思った。かろうじてオリオン座が見えるほど、地上がきらびやかな灯りに包まれていた。私たちは二人コートを羽織りマフラーをして、その寒く乾燥した光の世界を歩いていた―。
 「寒いな」
 彼の吐く白い息が、雑踏の中で掻き消える。私は、少し高い位置にある彼の横顔がいつもよりカッコよく見えてしまって、直視できないでいた。
 「どうかした? なんか難しそうな顔してるけど」
 どうもこうもない。お前が好きなんだよバカ。
 「うんん。なんでもない。確かに寒いね」
 私は繕うように笑いかけた。目を細めて、とにかく彼の顔を直視しないようにした。言葉が溢れ出そうになるのをグッと堪えた。
 まだ、もう少ししてから言うんだ。
 「それにしても、人多いな」
 「うん。そうだね」
 辺りは、男女が肩を寄せ合い歩く姿で埋め尽くされていた。私達もそこに紛れて、傍から見ればカップルだろう。
 「今日は、急に誘っちゃってごめんね」
 「全然いいよ。俺も最近はインターンで忙しくて、丁度息抜きしたかったし」
 なんでこいつはこんなに気が使えるんだか。それに余裕そうにしちゃって、なんだかむかつく。
 キラキラした街中を歩く私たち。絶対に歩幅は合わせてくれて、こいつ本当にやることやってる。一歩一歩進むほどに、彼の良いところが見えてきて、彼のことが好きになって、なのにそれに伴って告白するのが怖くなっていく。ただ好きと言えばいいのに、どうしてか喉に詰まる。
 「きれいだ」
 彼のその言葉に、私は短い髪を大きく揺らして横を見た。自分が褒められたと思った。
 けれど彼の視線は私ではなく、少し上を向いていた。彼の見る方を私も見ると、そこには青く輝く無数の粒があり、私たちをアーチ状に取り囲んでいた。目に優しい、柔らかな青い光。空を留守にして、星たちが近くまで遊びに来てくれたようだった。
 「たしかに。キレイだね…」
 私の言葉に、彼がこちらを向いた。そして首を少し傾げたのを、視界の隅で捉えた。
 「なんか顔赤くない?」
 「へっ?」
 私は咄嗟に彼との間に手で壁を作った。
 「そ、そんなことないと思うけど…」
 「そう? ならいいけど。て言うかなんだよその手」
 「な、何でもないどす。っってか、ここっ、こっち見んなあっ」
 彼の「どすってなんだよ」と笑った声がとても遠くで聞こえた。それ以上に高鳴る自分の心臓がうるさかった。
 きれいと言われたのが自分だと思って、嬉し恥ずかしいくて、それで赤くなった顔を彼に見られて、もっとずっと恥ずかしくなった。
 アーチを抜けても私の心臓はドクドクと脈打っていた。深く呼吸してもなかなか落ち着かない。自分でコントロールできない鼓動に、私は初めて苛立ちを覚えた。
 「この後どうする? もう時間も時間だけど」
 彼の言葉に、私がスマホで時間を確認すると、既に十一時を回っていた。
 「…帰ろっか」
 今日は一旦落ち着こう。それでまた今度何処かで、そう何処かで…。
 私達はまた青のアーチをくぐり抜け、来た道を戻って電車に乗った。ゆらゆら揺られながらずっと続くトンネルの中、隣に座る彼のことを考える。 
 いつから好きになってたのかな。私なんで好きになったのかな。彼のことを想うと、どうしても胸は弾む。それでも落ち着く。
 全くもって矛盾している。
 私は両手にはーっと息を吹きかけた。生暖かいその息に手が一瞬だけ広がるように温まって、また冷える。
 いつの間にかうるさかった心臓は電車の音の中に消えていた。
 最寄り駅についた私たちは改札を抜けて歩き始めた。さっきよりも遠く空に星たちは輝いて見えた。
 二人黙って歩いて、足音が重なったり裏打ったり、静かな路地に響く。
 何処かで、いつか伝えられればいい。まだ時間はある。ずっとこの先も―。
 「それじゃあ、今日は誘ってくれてありがとな」
 いつの間にか別れ道に来ていた。
 十字路、街灯が私たちを照らす。
 微笑みながら手を挙げる彼。ゆっくりと体を翻した。
 ああ、行ってしまう。今日伝えたいことがあったのに。どうしても出てこない。本当は今伝えたい。でもやっぱり今日じゃなくてもいいのかな。
 思考がぐちゃぐちゃになって絡まる。
 その間にも彼は一歩向こうに踏み出していた。
 その広く大きな背中が見えたとき、私の体は自然と動いていた。
 「どうした?」
 彼がこちらに振り返る。
 私は彼のコートの袖をピッと人差し指と親指で挟んで握りしめていた。どうしても彼をここに留めておきたかった。
 違う、そうじゃない。伝えたかった。
 「あのね、私。私さ―」
 私は大きく息を吸って、今日初めて彼と目を合わせた。
 「私―」
 「俺さ、好きな人できたんだよね」
 彼の言葉に、私は固まることしかできなかった。彼は私の袖をつかむ手を優しく剥がすと、また口を開いた。
 「インターン先の上司の人なんだけど」
 聞きたくない。
 「年上でかっこよくてさ。綺麗な長い髪してて」
 やめて。  
 「優しくてさ。落ち着いてて。俺がミスしても丁寧にその原因とか教えてくれて」
 彼は寒さで赤くなった鼻頭を掻きながら話す。
 「なんか、好きになっちゃたんだよね」
 照れくさそうに彼は微笑んだ。
 私と真逆じゃん…。
 でも、私にはわかる。彼は嘘をついている。何かを誤魔化す時、いつも彼は鼻を掻いていた。今日はなんなら目も泳いでいる。本当に、どうして嘘なんかつくのだろう。
 「それでさ、今度一旦インターン終わるんだけど、なんか渡そうと思ってさ。本当はそういう贈り物とか良くないんだろうけど、ほら、一個人としてならいいのかなーとか思って」
 どうして嘘をついてまで彼は私の告白を拒絶したんだろう。どう考えても、さっきのタイミングでの割り込みは、意図的だった。
 なんでなのかな?
 その後も彼の口はパクパク動いていたが、私の耳に彼の言葉は何一つ届いていなかっった。
 最後彼はまた「バイバイ」と手を振っていった。いかにもこの場から逃げ出すように行った。
 残された私は街灯の下、ただ立ち尽くした。丸く世界から切り取られたように、外側は闇だった。
 涙なんて出なかった。ただあいつのことが嫌いになった。
 その時から今に至るまで、あいつのことが嫌いになった。
 思い出に耽って弁当を食べ終えた私は、少し冷めたホットの缶コーヒー片手にベランダへと出た。私が吐く白い息は、あの日の色と全く同じだった。
 缶コーヒーを開けた私は、苦い思い出と一緒にそれを流し込んだ。
 「…やっぱブラックは苦いな」
 私はため息をついて、欄干にうなだれた。とても冷えた鉄、それでも今の私にはその位が心地よい。
 知っていた。あの日あいつを嫌ったのは、いずれまた好きになりたいからだって。というよりも、あいつのことを私はずっと好きでいた。私はあいつに対して興味がなくならないように、強い感情の揺り戻しを突きつけたんだ。
 昨日の晩の胸の高鳴りは高揚なんかじゃない。悲しくて胸がはち切れそうになっただけだ。涙を必死に堪えただけだ。
 昨日、ようやく分かったよ。何であいつがあのとき嘘をついたのか、ようやくわかった。どうして私の好意を突き放そうとしたのか、その理由がわかったよ。
 「…何だよそれ」
 あの日、あいつを嫌っていて良かった。
 また裕貴のことが好きになったよ。ほんと、いつまで経っても優しいな。
 「裕貴があのとき好きって言ってたから、髪伸ばしたんだ。あの時よりかっこいい女になったよ。優しいし、落ち着いてるって会社の皆に言われてるよ」
 私は笑った。
 「でも残念。私はいまモテモテなんだ。お前に好きって言われても応えてあげませーん。あの日にチャンス逃したな」
 私は空高く缶コーヒーを掲げた。
 「お前のことなんか嫌いだよ」
 あいつがいつも飲んでいたブラックコーヒーを、私は思い切り流し込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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