【短編】NATURE 〜だいじょうぶ〜

 流れる川に沿って、私は山を登る。
 木の葉の絨毯の上を、滑らないように気をつけながら一歩一歩踏みしめる。
 サラサラという川のせせらぎと、私の枯れ葉や小枝を踏むザクザク、パキパキという音がとても心地よい。
 「あっ、こんにちは。こんなところに人がいるなんて」
 音を楽しんでいた私に声をかけてきたのは、小さい、子? ああ、いや違う、大人の女性かな? 私より少し背の低い、腰辺りまで髪の伸びた女性が、知らぬ間に正面に立っていた。
 「こ、こんにちは」
 「ここでなにしてるんですか?」
 やっぱり子供かも。と思わせるほど幼稚さを感じる話し方。
 でも…、見た目と雰囲気はそこはかとなく大人びたように見える。
 「ちょっとデトックスというかなんというか…」
 「でとっくす?」
 「ああ、なんていうか気分転換みたいなものです」
 「なるほど。へぇー、もりってきぶんてんかんになるんですね」
 「まあ、はい」
 そう2つ3つ会話しながら、私は彼女の声がとても自然的であると思った。
 その声は、川のせせらぎとも、遠くで鳴く鳥の声とも、サワサワと揺れる木々の音とも全く喧嘩をしないどころか、その一部として溶け込んでいた。
 「おねえさんはどこのひとなんですか?」
 「ここから結構離れた、人の多い場所からやって来たんです」
 「そうなんですね」
 「はい」
 「おひとりなんですか?」
 「そうですね、一人できました」
 「わたしもごいっしょしていいですか?」
 「え、あ、はい」
 「ありがとうございます」
 本当は一人で行きたかったけど、まあいいか。
 「じゃ、じゃあ、行きますか」
 「はい」
 薄緑から白へと移り変わるグラデーションのワンピースを着た彼女が、ヒラヒラと舞うように歩く。彼女のつま先が地面に触れるごとに、そこが水面であるように錯覚するほど柔らかな足運びだ。
 並び行く私達、それを歓迎してくれているのか、一羽のキレイな青をしたカワセミが川の飛び石にとまり、こちらに自慢する様に羽を広げて飛んでいった。
 「あなたがふだんいるばしょは、どんなところなんですか?」
 カワセミの姿を目で追った私に、彼女は柔らかな声で問いかけてきた。
 「そうですね、ここに立ち並んでいる木すべてが人間だと思ってもらえばいいですかね」
 「すごいですね。そんなにひとがいるんだ」
 「はい。それにこの地面はもっと硬くて無機質です」
 「あ、しってますよ。コンクリートってやつだ」
 「そうです。って、知ってますよって。見たことないんですか?」
 「いえ、みたことはありますよ。ただ、そのうえをあるいたことはなくて―。どんなかんじなんですか?」
 「うーん、硬くてザラザラした石の上を歩く感覚って言うのが正しいんですけど…。でも、なんか少し違うんですよね…」
 私の曖昧な答えに彼女は首を傾げた。
 「いや、なんていうか、さっきも言ったんですけど、石はまだ生命っぽさを感じるんですけど、コンクリートにはそれを感じないというか…」
 彼女の首がより一層傾いた。
 「あ、なんていうか、まあ、石の上歩く感覚です」
 「そうなんですね。なんかむずかしいしつもんしてしまったみたいで、すみません」
 「いえ、こちらこそ、まとまらない返答で申し訳ないです…」 
 ところで、今どきコンクリートの上を歩いたことがないなんて珍しいですね。と言おうと思ったが口をつぐんだ。
 あいも変わらず、それだけで画になるように歩く彼女。木々や飛ぶ虫、鳥、川に土、全て彼女と同化し、彼女を引き立てる。
 私はその価値観や何もかもを崩したくないと思った。
 2人で歩いて数十分過ぎたとき、少し開けた場所が見えた。
 私達は2人してそこにあった切り株に腰掛ける。
 私はリュックの横のあみあみの部分から水筒を取り出すと、一口飲んだ。
 普段の運動量を考えると、少しきついものがあったが、それでも空気がおいしく、苦しさは感じなかった。何ならいつものほうがどこか息苦しく思う。
 一息ついて横を見ると、彼女の姿が無かった。
 どこだと後ろを振り向くと、彼女は、ほんの少し離れた場所にある小川の水を両手ですくって飲んでいた。
 少し上向きになりながら、目を軽く細めて、口に水を流し込んでいる。
 飲むときに彼女の手から漏れた水が、キラキラと輝きながら顎から首筋を伝っていった。
 そうして、流すようにこちらを見て微笑む彼女からは、さっきまでの幼さなさはどこかへ消えており、私に美しいというよりもどこか神秘さを感じさせた。
 「すみません。いつもこうやってのんでるもので。おはずかしいかぎりです」
 「い、いえ。あそこの水、美味しいんですか?」
 「あー、わたしにとっては、ですかね。あんまりおすすめはしないかもです」
 「そう…ですか」
 彼女は、私の正面にある切り株にポンッと腰掛けた。
 「ここは、いい場所ですね」
 辺を見渡しながら、私はゆっくりと深く呼吸をした。
 「はい。わたしもそうおもいます」
 「本当に、いい場所ですね…」
 雨が降ってきたかと思うほど、私の視界が歪んだ。
 「あれっ」
 思わず目を拭う。拭った手に水滴がついた。
 ああ、やっぱり。雨が降ってきたんだ。
 私がリュックからレインコートを取り出そうとしたとき、彼女がいつの間にか私を優しく包むように抱いていた。
 「だいじょうぶですよ」
 また視界が歪んだ。今度は水滴が頬を伝った。
 「雨が…」
 「だいじょうぶです」
 私の耳元でささやく彼女の柔らかな声が、一層雨を強める。
 今度は頬を伝ったものが口に入った。
 その水滴はとてもしょっぱかった。
 私は、泣いていた。ボロボロと涙が零れ落ちていた。
 「あれ? おかしいな。なんで泣いてるんだろ。すみません、ほんとに。なんか多分自然に当てられて情緒がおかしくなっちゃったみたいで」
 「だいじょうぶですよ」
 彼女は優しく頭を撫でてくれた。
 どんどんと涙腺のダムが決壊していく。それと共に、奥底にあった言葉が溢れ出ていく。
 「わたっ、私、ほんと辛くて。毎日毎日人混みの中をググり抜けて、頑張って働いて。それの積み重ねずっとしてきて。頑張って頑張って頑張って、振り返ったら、なにもないように思えちゃって。見合った報酬はもらっているはずなのに、なんか色々拾い忘れちゃったように思えて」
 「うん」
 「それで、なんか急に全部嫌になって、ここに逃げ出して来ちゃったの」
 自分でも語尾が上ずっているのがわかった。
 「どーしてそんなふうに思っちゃったのかな? 私、何か間違ってたのかな?」
 「ううん、何も間違ってないよ」
 彼女の温もりが、ただ私を包みこんでくれている。その安らぎに甘えながら私はとにかくすべてを吐き出した。
 「もう今日ほんとは、ここで終わろうとおもってたのっ。だってなにもないから。今の私には、何も無いの。夢だの、親しい友人だの、恋人だの。最近じゃ美味しいもの食べたって何も思わなくなってた。ちょっと高い服とか買ってみて、街歩いても何もすっきりしなかったっ」
 「うん」
 「どーして? ずーーっと頑張ってきたのに。私は他の人が色々楽しいことしてる間に、たくさん頑張ってきたのにどうして? なんで何も報われないの? それどころかこんなに苦しいの? ねえ、どうしてっ?」
 どうしょうもないことなんて、私が一番よくわかっている。頑張りなんて、幸せになるための切符になるはずないことくらい、最初から知っている。
 でもそれしかてきない私には、じゃあこうなるしかなかったのだろうか。
 「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」
 ずんと暗い私の中に、淡い光がポワポワと浮かび上がってきた。
 彼女はとにかく私を優しく抱きしめる。
 惨めでどうしょうもない私を優しく包み込む。
 速くなった鼓動も、浅かった呼吸も、ゆっくりとさすられた背中に合わせるように落ち着いてきた。
 この安らぎを私は初めて知った。
 「ほら、だいじょうぶだよ。みんながあなたをみてるから。みんながあなたのしあわせをねがってるから。だからいまはすこしやすんで」
 私のおでこに柔らかなものが触れた。
 次第に私の意識が遠のいていく。
 「きてくれてありがとね。またいつでもまってるから。わたしたちはいつでもあなたのそばにいるよ」
 消えゆく意識の中で、朧げにそんな声が聞こえた気がした。
 「ありがとう」
 と、私は言葉にしたと思う。

 ぱっと目が覚めた私は、ぬくっと半身を起こした。
 「ここは…、ってやばっ。なんか寝てたんですけど」
 私は髪についた葉を払いのけると、すぐに立ち上がった。
 帰るかと、私が一歩踏み出した先にある小川に、淡い緑葉と茎を伸ばし、その先に景色すべてを調和するようなそれでも何にも染まっていない純白の花が咲いていた。
 私はその花を愛でるように見つめると、一つ大きく息を吸って山を下っていった。
 揺れる木漏れ日の中、私の顔はなぜだか笑っていた。
 
 


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