見出し画像

ようこそ、手芸室へ。|私と手芸。

小さい頃から母の影響もあり、手仕事が好きだった。

母は、忙しい家業の中でも、三姉妹のワンピースを縫い、
行事ごとには、子供が喜ぶような、
ごちそうワンプレートを作り、
アイディアとセンスに溢れていた。

今でも忘れない、昭和46年、
3番目の妹が産まれた時、
黄色に白いラインの入った
手編みのおくるみ。
私たちがかなり大きくなるまで、お昼寝、膝掛に、
毛糸も痩せボロボロになるまで使った。

小学校で、ハーモニカが必要だった時、
私が持っていくハーモニカは、
前から家にあったケースのない
古いものだった。

翌朝、黄色のフェルトに茶色のブランケットステッチで、
ぴったりのケースができていて、
子供心に一体いつ作ったんだろうと、不思議でならなかった。
我慢する私を、不憫に思った母の精一杯の気持ちだったのだろう。

そんな母だったからか、
私も小学生の頃から、家にある布切れで、
袋やキャミソールもどきを縫ったりしていた。

塾もゲームもスマホもない、時間だけはたっぷりあった子供時代。
小学校では冬になると、編み物上手の友達を中心に、
長い長い行くあてのないマフラーを編み、
夏休みの宿題はグリーンの小花模様の生地に『cooking』の
ステンシルを入れたエプロンを縫った。

大きな街の本屋で、フランスの手芸本『サンイデー 100 IDEES』
を買ってもらったもこの頃だったか。

中学生になるとインド綿の生地で、直線断ちのワンピース。
ボタンホールができないから、肩口をひもで結ぶようにして、
涼しく、夏中着たものだ。

27で結婚し一人娘が産まれると、セレモニードレスや、母子手帳ケース、抱っこ紐、
作れるものはなんでも作り、
歩けるようになると、
憧れのファミリアや、銀座サエグサにあるような、
白襟にスモッキング刺繍を施したワンピースを、
縫って着せるのが楽しみになった。

ハギレで作った
『ミシェル』と名付けた
うさぎのことを
娘は覚えているだろうか。

娘が長い反抗期に入った時も、
手芸に集中することで、
持って行き場のない気持ちを分散し、
ずいぶん救われた。

その時はビーズがまぐち。
準備から制作まで、とても手間がかかるから、
眠れない夜、帰らない娘を待ちながらずっと編んでいた。
そんな娘も、もうすぐ30歳。


そして今私は、
大量の布マスクを作り、
マクラメ編みにも興味を持ち、
半世紀たっても、相変わらず
なにやら作り続けている。

本格的に学んだこともなく、
趣味でありながら、家事の延長のような物作りは、
私の毎日になくてはならないもの。

今は、大量の布や糸を
整理縮小しつつも、

これからも、
心のよりどころとして、
日々のさもない気持ちを、
編み込み、縫い込みながら
まだまだ手を動かしていくのだろう。


この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

読んで頂きありがとうございました。 頂いたお気持ちは、 感謝を込めて『恩送り』いたします。