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障害・障がい・障碍 の書き方から 思うこと 議論と対話について。 人の背景を知ろう

タイトルの通り、日本語で障害の書き方って色々ある。
そもそも障害の表記について詳しく知りたいという方は以下のリンクに示したこちらの記事を読んでもらったり、WEB上にいっぱい情報があるので調べて見て欲しいと思う。
https://www.koka.ac.jp/welfare/news/4405/

本題は、書き方の議論から考えたこと。人はみんな、それぞれの意見があるよね。そして、人それぞれの意見を知ること、知ってから更に、自分の中で考えて深めてみること。その楽しさと奥深さを、私はある場での「哲学対話」を通し、体感で学ぶ事ができた。それについては、また別の回で詳しく書けたらなと思うのだけど、今回は、「議論」について思うことがある。というのが本題。

対話と議論。対話ってなんだろう。議論とどう違うのだろう。
議論はA対Bでどちらかに決めること。その中で、相手をどう説得するか、自分の意見を有利に進めるために妥当な情報や、相手に不足している観点などを話し合い、結果AかBどちらかに決める。というのが議論。だとしたら、

対話ではまず、聞くことが非常に重要になる。相手と自分の意見や観点で
違うところはどんなところか、それを知る上では、相手そのものやその背景への理解が必要になってくると思っている。と言われがちだ。でも、議論と、対話。それら2つってそもそもそんなに違うのだろうか?

例えば、障害の表記は、

意見1、障害という字の害の字が、障害者の害の字が障害者が害というイメージを与える場合があるから害をがいというひらがなにして障がいにしたほうがよいという意見。

これに対し、
意見2、障害は例えば車椅子で段差がある、など、障害が障害になってしまう社会の方にもその環境要因がある。障害者、はその社会の側と本人との間で起きる障害を感じやすい、という意味の障害者、であり、本人に障害があることを表しているのではない、社会の側にもまだまだ変えられるところがあることを忘れない意味でも、障害という文字を使うのだという意見。

これらの意見を踏まえた提案のような意見で、
意見3、障碍の字を使う意見。しかしこれは別の問題で、小学生で習わない、普段使わない馴染みのない漢字だから、そもそも普及するまで読めない人がいると困るよね、という意見。

いろいろなひとがいるから、そもそも障害について詳しくない人たちや、
まだそういうことを知らない子どもも社会にはいる。そのことをわかった上で、それをじゃあ、もっと知らない人たちに伝えていく必要がある、ということがわかったり。意見は必ずこういうことが正しいのだ!ではなくて、
違う意見があるときって必ずその人の日常的にみている景色や背景の違いがある、という場合だったり、話してみたら、課題認識はじつは同じだということがわかったり。

大事だと思うのは、障害がどの文字なのかということではなくて、
この話をきっかけとして、人の多様な見方に気づくこと、と、例えば障害なら障害の、社会で起きている本質的な問題や課題はなにか、ということまで深ぼるきっかけとなる、というようなことなのではないかとも思える。

人間の問題においては特に、議論だからといって、相手の見方を知ることが必要じゃないなんてことはないのだと思う。相手と話し合う。そうやって問題だとされていることの、本当の問題は何なのか。それに対して私達が日常でできることや、変えられる部分はどこなのか、など、考えていく必要がある。そのためには余裕や時間も必要になってくるけれどね。

その人の背景にあるものを見よう。知ろう。多角的な視点を養って、話し合う姿勢を持つ人が増えていくことが、少しずつでもよい社会に向かっていくことの、アクションのひとつなんじゃないかと思っています。






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