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本音の居場所


私がX(Twitter)をやっていて思うのは、ツイートの内容が、飾り物にしたいか吐き出して流してしまいたいかに分かれるということだ。
そして、起こった事を残すか、その時の感情を残すか。例えば今日はこんなことがあったと残すのか、
とても嬉しいことがあったかを残すのか。

日記のかわりにしたり、心の整理をしたりと使い方は自由。自分の呟きに陶酔する人や感情的になる人。
私は陶酔したり感情的にもなる。感傷的にもなるので厄介だ。

ハッピーな時はハッピーを出しきり、ネガティブな時はネガティブ全開でいく。

そんなことを考えるとき、自分は自意識に羽交い締めにされているけれど、意外と人は他人のことなんてそんなに気にしていないんだよなぁと思う。

昔、SNSがなかったころ
「あんたは不幸で自分を売っている」
と言われたことがあった。

「ヒドイ」と言いかけたが
なんとも的確な指摘に
「ビンゴ!」と言いたくなった。
不幸を売りにしているというより、発言がネガティブ多めだったから、気になったのだろう。

その言葉はいつまでも私の中に残り、言葉を選ぶときはなるべくポジティブな言葉を!を心がける時期もあった。

元々の性格もあり、弁が立つほうではないのでその日会う人の性格に合わせて話をするときもあった。

ポジティブにはポジティブを。

ネガティブにはネガティブを。

第一声は明るく入り、何か暗いなと思えばトーンを落とした。
人の悩みを聞くときに、まさか明るく答えることも出来ないので、その時は自然と暗くなるけれど。

人に悩みを話すときは大体答えが出ていることが多いので、そこを踏まえた上で話の腰をおらず最後まで傾聴することを心がけていた。

本来、誰かの話を聞く時、おのろけや幸せ話より不幸な話を好むことをみんな知っている。

人の不幸を望む人は
幸せになれないと言われていることも知っている。

人の不幸を望んではいない。

自分よりちょっと不幸な話を聞きたいだけ。

それで明日も頑張ろうと思える気がするから。
心が綺麗な人からしたらこの文章を読んで驚いて傷つくかもしれない。

私は誰かに嫌われるかもしれないと思う。

綺麗事ならいくらでも書ける。なんなら、いまも綺麗事を書いているのかもしれないとも思う。

実は多くの人が本音は誰にも見せられないの
かもしれない。

本音と話し合える自分がいればいいのかもしれない。
それでは




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