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和解を目指して戦うことを決意するADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 7-10.

 台北に住んで十数年の僕は、長く経営した会社や、そこで貯めたお金を、名義上の台湾人オーナー・フォンチュと、その娘イーティンによって、奪い取られてしまいます。

 会社を取り返すことについては諦めましたが、時間をかけてお金だけでも取り戻そうと決めた僕は、奔走を始めます。

 住居、ビザ、お金、仕事などにどうにか目途をつけた僕は、続いて、弁護士事務所を訪れます。

 流量な日本語を操る章弁護士は、僕が取るべき戦略として、二つのアイデアを出しました。

  ――一つは、べいしゃんさんが実質上のオーナーであって、フォンチュはただの名目上のオーナーに過ぎないことを立証して、会社の資産を取り返す方法。

 ――もう一つは、べいしゃんさんはただの一社員であることを認めたうえで、何年間にもわたって、適切な給与を受け取っていなかったとして、その不足分を請求する方法。

 その二つ共に、幾つもの問題点がありましたが。

 前者の選択に関しては。

 僕が実質上のオーナーであることを立証することが困難であること。
 帳簿上では会社の資産がないことにされてしまっていると、お金が取れないこと。

 その二点がネックとなり。

 確実にお金を取れそうな、二つ目の選択肢にしよう、と僕は思いますが。


 ――ただし。

 章弁護士は言葉を続けます。

 ――この二つでは、訴えにかかるお金が全然違います。

 ん?
 お金のない僕は、慌てて耳を傾けます。

 ――後者の、給料不足で訴える場合は、労使関係の問題ですから、全て民事裁判での争いとなります。

 ――そうなると、べいしゃんさんが過剰な労働をしていたこと、給料を受け取っていないこと、それぞれを、一から立証をしなければなりません。

 ――その為には、べいしゃんさんがしなければならないことも多くなる。
 ――同時に、中国語の問題もあって、一々弁護士事務所の助力を仰がなければなりません。

 ――大変な手間とお金がかかります。

 そうだろうな、僕は暗然とします。

 ――しかも、台湾は日本同様、三審制があります。
 ――三回続けて勝訴しなければならない。

 ――それには、何年もかかるでしょう。
 ――その間、裁判費用と弁護士費用で、とんでもないお金がかかります。

 ――こんな小さな事務所でも、どうしてもそれなりのお金をいただくことになります。
 ――勿論、出来るだけ勉強はさせていただきますが。

 章弁護士は爽やかな笑顔を見せます。
 僕も弱弱しい笑みを浮かべます。

 ――それに対して。
 章弁護士は笑顔を引っ込めて続けます。

 ――前者の方、べいしゃんさんが会社のオーナーであり、フォンチュとイーティンにそれを乗っ取られただけだ、とした場合。

 ――彼女達のしたことは、完全な犯罪行為となります。

 そうだろう、と僕は頷きます。

 ――そうなると、これを捜査し、証拠を集めるのは、警察や検察の仕事になります。

 ああなるほど、僕は頷きます。

 ――勿論、被害届を警察に受理してもらう為には、色々な説明が必要ですが、一旦事件として受理してもらえると、あとは警察や検察の出番です。

 ――べいしゃんさんは、勿論その捜査に積極的に協力はする必要はありますが、民事裁判の時に比べれば、手間はずっと少なくて済みます。

 ――勿論、警察や検察にお金を支払う必要はありませんし、弁護士に支払うお金も、少なくて済む。


 確かにそうだ。
 僕は大いに心を動かされますが――それでも、気付きます。

 ――でも、それでイーティン達の犯罪が認められて、彼らが起訴されて、刑事裁判になったとしても、僕にお金は返って来ないのではないですか?

 そう、刑事裁判というのは、あくまでも犯罪者を罰する為に行われるもの。

 罰金刑という判決が出たところで、その罰金は、国家に対して支払われるだけ。
 僕には一銭も入りません。

 つまり、手間がかからない代わりに、僕が得るものもない。

 ――だから、僕がお金を得るためには、やっぱり民事裁判を起こさなければならないのではないですか?
 その為には、結局、手間もお金もかかるのではないか?

 僕の疑問に対して、本来ならその通りです、と章弁護士は頷きます。

 ――でも、恐らくこの場合、民事裁判をしなくても、お金を取ることが出来ます。

 どうしてですか、と僕は首を傾げます。

 ――何故なら、こういう『侵占』事件に関しては、殆どの場合、『調解』で終わるからです。

 『侵占』とは横領のことで、『調解』とは和解のことだ、と章弁護士は説明します。

 ――横領事件で告発された犯人の多くは、自分が有罪になりそうだと判断した場合、和解を求めるのです。

 ――横領した金額を返却するので許してほしい、と被害者側にお願いをするのです。

 ――何故なら、有罪になれば、犯人は刑務所に入らなければなりません。

 ――その上、その後被害者が起こす民事裁判にて、確実に横領額の返金を命じられることになります。

 ――つまり犯人は、刑務所に入らされる上に、お金も取られるのです。

 ――でも、もし和解が成立すれば、犯人はお金は取られますが、まず例外なく、検察は不起訴処分にして、刑事裁判は行われなくなります。

 ――勿論、民事裁判も起こされません。

 ――つまり犯人は、お金は取られますが、刑務所に入らずに済みます。


 ――だから、犯人が和解を求めるのも当然です。



 ――そして、被害者にとっても。
 ――和解に応じさえすれば、民事裁判を起こす手間や費用なしに、お金が返って来るのです。

 ――勿論、被害者がその犯人を激しく憎んでいて、どうしても刑務所に入って欲しいと思い、絶対に和解に応じない、というケースもなくはありませんが。

 ――実際の所は、被害者はほぼ例外なく、和解に応じています。

 ――つまり、横領事件の場合は、その犯罪をしっかり証明出来れば、民事裁判を行わなくても、お金が返って来ることになるのです。


 そして、と章弁護士は笑顔で言います。

 ――お話をうかがうと、フォンチュには幼い男の子がおり、イーティンは体が不自由な難病患者だとか。
 ――何があっても、刑務所には入りたくないでしょう。

 ――そして、べいしゃんさんも、その母娘を、それ程憎んではいませんよね?

 僕は思わず小さく頷きます。

 ――でしたら、べいしゃんさんが、会社を乗っ取られたという訴えを起こす場合は、警察や検察に捜査してもらい、そして最後は和解で終わらせられる。

 ――そうなれば、べいしゃんさん、ほんのわずかな負担で、お金を取り戻せるのです。

 なるほど、僕は大いに感心して頷きます。


 そして、その瞬間に、僕は自分の取るべき行動を決めます。

 何せ、僕にはお金がないのです。
 親から借りた百万円――それもいつ届くか分からない――しかないのです。

 そして、未だ職すらない。
 K学園の話がうまくいったとしても、どれだけお金を貰えるかの話は一切していない。

 こんな状況で、大きなお金のかかる民事訴訟など、出来る筈もありません。


 そもそも。
 僕の会社は、確かに繁盛していたのです。
 三千万円奪われたと言っていますが、それは少なく見積もって、の話。

 四千万、五千万だってあったかも知れない。


 僕が実質オーナーだと認められれば、より多くの金額が取り返せる可能性だってあるのです。


 前者の戦略で行くことに、もう迷いはありませんでした。


 そして。
 この章弁護士の優秀さは、明らかでした。

 このややこしい案件について、外国語を用いてスラスラと説明する。
 僕の事情や、イーティンの事情まで、しっかり把握しながら。

 ADHDであり、人の話が聞けない僕でも、しっかり理解できるように。


 この弁護士以上の人を、他に見つけられるとは思えない――面倒がりの僕に。


 ――では、一つ目の戦略を取る方向で、こちらの弁護士事務所に依頼したいと思います。

 僕はそうはっきり言います。


 章弁護士は笑顔を見せ。
 ――では、こちらが料金表になります。

 そう言って、一枚の紙を差し出してくる。


 僕はそれを見て――うめき声を上げます。

 民事裁判を起こすケースよりはマシであるとはいえ――やはり、弁護士費用は安価なものではない。

 両親の百万円が届いても、まだまだ満足に食事が出来ない日が続くことになるでしょう。


 ――それでも。

 いつかはこれも、報われる筈だ。
 この何十倍ものお金を、いつかは取り戻せるはずだ。


 ――では、和解に向けて一緒に戦いましょう。

 そう言いながら差し出す章弁護士の手を、僕はしっかり握り返したのでした。

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