【医師エッセイ】医師とあの喫茶店と
■どうしても時間を持て余してしまうとき
医師という仕事をしていても、医療以外のサービスを受けることは往々にしてあります。今回はそんな他業種での一番感銘を受けたサービスについて書こうと思います。
私は埼玉県にある大学病院小児科医局に所属して、派遣病院などで勤務を20年。常勤そして非常勤で勤務する病院はすべて埼玉県にありました。日勤は○○病院、当直は■■病院、夕方は講演会があるので大学にと、そんな生活です。自宅は横浜にありながら埼玉県内を転々とする中で、移動の間の空き時間は医局や当直室に籠ることもあれば、1人になりたいときは車の中にいることもありますが、夏の車の中は暑すぎます。マンガ喫茶などが見つかれば最高なのですが、そう近くにはありません。それでも、だんだんとこの病院やこれぐらいの時間があれば、ここで時間がつぶせるというのがわかるようになっていくものです。
そんな風にいろいろと経験をしてきた私ですが、当直開始までに時間が6時間ほど余る病院がありました。高速道路を利用しなくても、夕食をとっても、スーパーで夜食を買い込んでも到底追いつかないほど時間が余ります。勤務開始は22時30分です。早く当直室に入ればいいのですが、入ると勤務がその時点から開始することになります。ということは、私が早く入れば入るだけ常勤医が早々と帰ることができるということです。給料は一緒ですから割に合いません。正式な交代の時間までは、病院にはいかないようにしたい、というのが正直なところでした。
■時間つぶしで入ったはずの場所が気づけばお気に入りの場所に
ではどうしていたのかというと、スーパー銭湯に行ったり、喫茶店で時間をつぶしていました。スーパー銭湯はなかなかのアイデアでしたが、若干、病院から離れているので、スーパー銭湯を出てから時間通り着かないこともあります。道の混雑状況や交通事故などは事前に把握できないので仕方ありません。ですので、だんだんとスーパー銭湯にはいかないようになりました。
私が主に通っていたのは喫茶店の方です。病院から1本道路を入った人通りの少ない場所にある喫茶店。ここは夕食時でも、がらがら。2人席や4人席でも座っているのはどこも1人です。私はちょっと奥まった席で、頭を壁にもたげながらナポリタンを食べて、持ち込んだ本を読んでいました。
コーヒー・紅茶はお替り自由。私のような年代のおじさんが、パソコン仕事をしたり、本を読んだり。コーヒーの香りがする、静かな店内で時間が止まったような感覚になります。お替り無料と言っても、自分で手を上げて注文するのではなく、店長が巡回して紅茶を注いでくれるのです。少しでも居心地がいいようにしてくれるのでした。
何時間いても追い出されることもない。店長がおかわりを継いでくれる時に、少し雑談をするのは楽しみでもありました。また、近くの席の雑談が聞こえてくるのも楽しみでした。店長はにこにこ話を聞いてくれるし、「そんなこと知っているんだ」という話をしてくれることもあります。病院勤務という狭い世界で働いている私には、その新鮮さがよかったのかもしれません。
「女性って結婚をするとして会社を辞めちゃうじゃないですか。そして家庭に入ると、会社で出来た友だちに連絡なんてとらなくなる。だから家庭に入った女性も会社に残った女性も取り残された感じになるらしいですよ」
「そうなんだ。40代女性が、うつになる人が最も多いのは、昇進とか結婚や子育てが原因って本に書いてあったけれども、そんなパターンあるかもしれないな」
「だけど、男性は結婚しても会社は辞めない。同僚との距離はできるかもしれないけれども、結婚前と同じ感覚で付き合える友だちはいるそうですよ」
そんな話を店長とするのが楽しみでした。それに、いつも変わらない雰囲気、いつも同じおいしいナポリタン。そういうところも、私がこの喫茶店に居心地の良さを感じた点かもしれません。
■時代は移り変わっていくが変わらないものもある
コロナ禍になり、事業が縮小されていって会社を辞めたいと言っている人がいました。ちょうど私も小児科の収益が悪く、人間関係に悩んでいたので、他の人の話に聞き耳を立てていました。
「時代が変わるから、これからは自分で変わらないといけないんですよ」
店長の言葉が私の心に刺さりました。
「実は、この店も今月いっぱいなんです」
「えっ?」
私は思わず声を出してしまいました。
まぁ確かにこんな採算度外視の店のようでしたから、経営は厳しかったのでしょう。
「でも、やりたいようにやれたのが幸せでした」
その後は店内のみんなもびっくりして、話題は喫茶店の話一色になりました。
私は店長にこう言いました。
「いつもこの変わらないナポリタンの味が好きでした」
すると、
「ありがとうございます。うちのナポリタンは生クリームを使っているのが、他の店とは違うんですよ」
という答えを返してくれました。
私はこの店が好きでした。15年近く通い詰め、この喫茶店がなくなる時とほぼ同時期に、私は2020年4月に東京へと勤務先を変えました。
あの店はないけれども。カフェに行けばあの頃を思い出して、懐かしい気持ちに浸されます。忘れがたいやり取りのあった、心に残る感銘を受けたサービスのある喫茶店でした。きっと私の胸の中に一生残ることでしょう。
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