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他人の意見を受け入れない人がいる

いつの時代も、他人の意見を受け付けない人はいる。
A「私はパンを今すぐにでも食べたい。そのまま食べたい」
B「私はパンを食べるなら絶対に焼いてからでなければ食べない。そうじゃなきゃおいしくないのがわからないの?」
しかし、パンを焼こうが、そのまま生で食べようが、パンはパンなのだ。

スピリチュアルの話で申し訳ないが、知っている人は知っていると思うけれど、1970年代のアメリカのニューエイジカルチャ—で『ワンネス』というもともと人間の魂は一つの巨大な魂の集合から分岐したもので、ひとりひとりはその魂の集合体とつねにつながっているという考え方があった。
もともとの起源はもっと前からあるのだろうが、ニューエイジカルチャーは1980年代まで盛んで、若者が親の世代の文化を真新しいものとして再発見するように、今またその考え方のみ復活してきている。
アメリカでは元ヒッピーだった親が子供に愛情を向けずに親同士でべたべたするので辟易している子供もいたらしいが。
「Love & Peace」も合言葉だった。

だからパンを焼こうがパンをそのまま食べようが、誰かの意見を受け入れられないで自分の意見だけ正しいと思おうが思うまいが、結局は人間の考えた考え全てそれらは一つの大いなる考え『ワンネス』とつながっているのだということだ。
誰の意見でも間違っている訳ではないし、誰の意見でも極端ではあるが一つの大いなる正解の中の一つであり、それが極端に偏っているかあるいは極端に少数派の意見であるかどうかという違いに他ならない。

ある意味で誰も間違ってはいないとも言えるし、それがその人の現実ではある。しかし、象の一部を触って「象とは長い筒のような生き物だ」とか「象とは大きな樽のような生き物だ」とか「象とはふさふさのしっぽだ」とかとは言えないのと同じように、誰かの意見だけを取り上げてそれが正しいとも言えないのだ。
だから誰か偉い人の意見だけ聞き入れてそれが間違いないとも言えないのだ。

だからこそ、弱い人間は(真実をつかみにくい)人間としては、いったん立場関係なく、誰の意見も否定せず一度理解する必要がある。
不理解こそが「争い」の種だからである。だいたい他人の意見を受け入れようとしないときには、そこに利害関係がある。
自分にとって都合が悪いから受け入れたくないのだ。聞く耳も持ちたくないのだ。
象のように大きな耳で、ウチワのように鷹揚に仰いで「いつでもどなたでもいらっしゃい、聞いてあげるから」とは言わないのだ。
象のようにゆとりをもって、他人の意見も聞き入れる余裕を持ちたいものだ。
それが現実的に平和をつくる第一歩になるのかもしれない。



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